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961: yukikaze :2017/09/10(日) 22:48:14
ちょいと考えてみた。仮称韃靼帝国ネタ。

1015年 遼、高麗の第二次侵攻時に結んだ和約が果たされなかったことを理由に侵攻開始。
    皇帝自らの親征に対し、高麗王朝は、防衛体制が整っていなかったことから、時間稼ぎの交渉開始。
1016年 高麗、防衛体制完成により交渉を一方的に断絶。遼の使者を斬ったことで、遼の激怒を買う。
1017年 亀州の戦い。高麗の予想と違い、遼は、江東六州を完全制圧することを目標としたことで、高麗王朝の目論見は外れ、やむをえず守勢防御から、江東六州への救援を余儀なくされる。
    結果、遼軍30万に対し、高麗軍20万が激突。遼軍に被害を与えるも、高麗軍は亀州救援ができず敗北。
1018年 開京の戦い。前年の敗北に意気消沈した高麗王朝は、遼に和議を求めるが、度重なる背信行為で高麗王朝に激怒していた遼の皇帝は、使者を殺害することで回答。
    高麗王朝は、総司令官姜邯賛の進言をうけ、羅州に避難し、徹底抗戦の構えを見せる。
    首都決戦により、高麗は意地を見せ、遼軍も2万人近い打撃を受けるが、趨勢は変わらず、姜邯賛は討死。開京は遼軍によって破壊されることになる。
1020年 高麗王朝。抵抗していた南部の全州で、遼軍に捕捉され、王族は壊滅。一部は耽羅国や日本に逃げ込むが、耽羅国に逃げた王族は、遼に引き渡され捕殺される。
    遼、高麗王朝の滅亡を宣言すると共に、高麗の直轄化を進めるも、宋の介入により、内乱が頻発する。
1125年 金が遼を滅ぼす。高麗の遺臣は、高麗の遼の軍勢を足止めさせた功績で、自らの国を求めたが、金は旧高麗遺臣を取り立てはしたが、『宋とも通じていた』ことで、国までは求めなかった。
1161年 鄭仲夫の乱。海陵王の南征失敗により各地で反乱がおきた事を受け、高麗南部の行政担当であった鄭仲夫が反乱を起こす。宋からの秘密裏の援助もあったことで内乱は長期化。
1179年 鄭仲夫の乱終結。金による旧高麗の締め付け強化。
1215年 崔忠献がモンゴルと手を組み、半島南部を制圧。『後新羅』国建国
    ただし、親モンゴル政策を国内の反発から維持することができず、モンゴル介入の要因になる。
1231年 オコディによる後新羅国遠征。後新羅は即座に降伏し、朝貢国になることで許してもらう。
1232年 後新羅で、親モンゴル路線に不満を持つグループがクーデターを起こし、国王を殺害。
    モンゴル、第二次侵攻を開始。
1234年 後新羅滅亡。当初は、傀儡国を作る予定であったオコディであったが、後新羅の状況を見て、傀儡を作っても意味なしとして直轄化を決定。耶律楚材の「あの半島民を教化することは不可能であり、あの地を治めるには、あの住民を散らす以外に方法はない」という提言から、旧高麗の人間の追放開始。

962: yukikaze :2017/09/10(日) 22:50:18
1238年 三別抄の乱。強制移住に反発した農民達と後新羅の旧常備軍が組んだ最大規模の乱。
1239年 三別抄の乱終結。強制移住政策は緩和されたものの、抵抗した南部の住民に対しては緩和が適用されず日本や南宋への亡命が拡がる。
1260年 モンゴルの帝位継承戦争でフビライ勝利。東方三王家のタガチャルが功績により高麗支配を委任される。
1273年 文永の役。対日戦の後背地として、フビライより食糧供給等の負担が増大する。
1281年 弘安の役。戦費負担に対して元王朝と東方三王家との関係が徐々に悪化。
1288年 東方三王家の乱。タガチャルの孫であるナヤンの起こした乱により、高麗は元王朝直轄地に。
    フビライの意向から、対日戦用の食糧供給地計画が加速。
1369年 明による北伐により、元はモンゴルに総撤退を開始。旧高麗の動揺激化。
1372年 李成桂の乱。旧高麗地域で起きた最後の大規模反乱。満州から中国本土への南下を狙っていたナガチュがその侵攻を諦めざるを得なくなった要因であり、高麗に一定の軍勢を置かざるを得なくなる。
1375年 北元第二代ハーンであるアユルシリダラは、満州地域防衛の為、皇族を派遣。
    高麗の反乱に手を焼いていたナガチュも、北元の援助を頼りにせざるを得ず、皇族を受け入れる。
1387年 明軍、満州への北伐開始。高麗からの糧食輸送が辛うじて間に合ったことで、戦役は痛み分け。
    ただし、援兵に来た北元の第三代皇帝トグス・テムルは大敗。アリクブカ系のクーデターにより北元の政治的混乱勃発。
1388年 北元二代皇帝アユル・シリダラの庶子であったカマラが、北元第四代皇帝を宣言。(明では東韃靼と呼称)
    アリクブカ系の王朝と関係断絶することになる。四川等の旧元朝の政治勢力はそれぞれ分裂。
1392年 明による第二次北伐。北元は滅亡寸前にまで追い込まれるが、明の皇太子が病没したことで、明王朝内部での政治的混乱が生じたことで虎口を脱する。

以後、50年間にわたり、明の永楽帝による軍事圧力と、小規模ながら発生している旧高麗での反乱(ただし高麗の民ではなく、移民していた漢民族)に悩まされる。

1450年 『庚午の和約』。前年の土木の変で皇帝を捕虜にされるという大失態を犯した明王朝は、西韃靼と東韃靼双方を敵にする危険性を重視した明朝廷は、東韃靼に和約を求める。その内容は以下。

   ・ 東韃靼は、文書で『元』『皇帝』号は使わない。ただし『イェケ・モンゴル・ウルス』『ハーン』号は認める。
   ・ 明は、東韃靼を、韃靼における唯一正統な王国と認める。
   ・ 東韃靼は、明を兄として敬い、明は韃靼を弟として粗略に扱わない。
   ・ 朝貢貿易の復活を認める。
   ・ 国境線は、長城によって区切られる。

    北元では、この和約に不満の声が続出したものの、連年の軍事行動等で国土が疲弊したこともあって、和約派が勝利。以後、150年に渡り、明との紛争がなくなることになる。

取りあえず国として一通り安定するまでの年表みたいなのを作成。
明による第二次北伐から、永楽帝の時代までは苦労の連発だったろうなあ。

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最終更新:2021年04月15日 11:16