821: 弥次郎 :2017/09/29(金) 23:07:11

「牛でさえも、老いたロバでさえも、目の前に危険があれば避けるものだ」

    • 講和会議が終結した後のロイド・ジョージ


「なるほど、つまり、貴国はそういう国なのですな?」

    • 大日本帝国 西園寺公望




日仏ゲート世界 War After War3 -Endless Night-




世界をほぼすべて巻き込んだ、この世界初めてのの世界大戦の講和会議の主導権を握ったのは、当然のように大日本帝国と、その同盟国であるフランス帝国連邦の二か国あった。両国は現在続いているAB風邪封じ込めと感染者への治療に対して一番労力を割いており、尚且つ軍事的にも最も有力な列強であり、参戦国すべてに対して講和条約の履行を迫れる能力のある国であった。
つまり労力と資金と実行力を最も持ち合わせており、参戦による被害が最も小さい国だ。


イギリスとイギリスのメディアはウィルソンを『正義の人ウィルソン』と持ち上げていたのだが、少なくとも現地にいた兵たちや、感染に苦しむ患者たちから見ればなんと白々しいことを言っているのかと、逆にウィルソンをなじるほどであった。
既にこの時にはイギリスとアメリカからウィルスが持ち込まれたという事実は前線においては通説となっており(そしてそれは正しかった)、あまり説得力を持ち合わせていなかった。少なくとも、欧州では歓迎の声よりも呆れの声の方が大きかった。

さて、その講和会議。
アメリカとイギリスが提案したのが、ウィルソンの提唱していた『勝者なき講和』であった。
これは日仏の提案と趣旨は同じであった。日仏にしてもこの大戦は引き分けであり、おまけに進化した兵器によって被害の甚大さはこれまで以上の物であったため、軽々しい軍事行動への移行を抑止するためにも、誰かだけが一方的に利益を得た状態で終わらせることには同意していた。

しかしながら、この二つの陣営の目的以外は殆ど合致することはなかった。
アメリカとイギリスは「十四か条の平和原則」をベースとした欧州の秩序の再構築を訴え、一方の大日本帝国とフランス帝国は参戦国の利害関係の解消を前提に「個別案件」として一括処理せずに、慎重に議論や討論などを経たうえで「解決」していくべきと主張した。

その中で日仏の指摘が集中したのが「十四か条の平和原則」であった、

まず日本側が指摘したのがアメリカ側の掲げた「平等な通商関係の樹立」の矛盾性であった。
日仏は同盟関係を結ぶと同時に、欧州と極東という離れた位置に位置しながらも、ゲートによってあたかも同一国家であるかのような経済圏を構築し、活動を継続していた。そして、この繋がりを基礎としてフランス帝国連邦に加盟する国々と日仏の援助を受けているハワイ王国などが一足早いグローバル経済を構築していた。ここに、アメリカやイギリスの企業は食い込むことがなかなかできずにいた。
製品の質の差というのもあったし、生産能力の差というのも存在し、さらに心理的なものもあった。
そもそも、アメリカは西海岸を保有していない。日本とフランスは世界各地の植民地や本土で極めて安定して生産を行っており、無理にアメリカやイギリスの製品を買う必要がなかったのだ。

そしてこの経済的なつながりを「平等ではない」と言って難癖をつけ、自国の企業を参入させろと言われたところで、消費者がその製品を選ばなければ自然淘汰されていくだけである。事実、これまで日仏への進出を目論んだ企業がはじき出されていたのも、多くの分野において日仏が先行しており、よほどの事情がない限り国民も選ばないのだ。
『自由経済』とは『消費者が好きな物を選んで自由に購入・消費活動できる経済』のことであり、消費者の意思を無視した押し売りなどは排除される経済である。そして、アメリカの要求はその押し売りに該当していた。

822: 弥次郎 :2017/09/29(金) 23:08:26

他にも『オスマン帝国支配下の民族の自治保障』という文言は、事実上のオスマン帝国への内政干渉に等しい内容であった。
確かにオスマン帝国には多数の民族がおり、『民族自決』という観点においては守られていない所があった。
しかし、オスマン帝国のそれは多数の民族が集まったうえでの多民族国家としての在り方であり、民族ごとに細かく区分けすることを、ほかならぬトルコの少数民族がこれを拒否したのだった。そもそも、オスマン帝国はこれまで民族同士による国家の分断を恐れて、多民族の協調路線を維持してきたのである。トルコの少数民族にしてもいきなり自治権や政治に絡むあれこれを渡されても、運用するノウハウや方法を知らないのだ。無論歓迎する民族もいたのであるが、それは少数に限られていた。

ましてや、国教としてのイスラム教の問題がオスマン帝国内でさえもデリケートに扱われているのだ。
「民族自決」の名のもとに介入されることを恐れていたオスマン帝国にそれを強いれば確実にこじれ、再度の争いとなるだろう。
もしオスマン帝国を割るような事態に発展すれば、「欧州の平和」はオスマン帝国の分裂によって実現しなくなるのは明白だ。

これを宗教的観点からも事細かに主張したオスマン帝国に賛同したのが成立しつつあったドナウ連邦の代表者たちであった。
オーストリア=ハンガリー帝国は確かに失態を犯した国ではあったが、多民族が何とか協力し合いながら維持されてきた国であった。
しかし、かじ取りを行っていたハプスブルク家が近年『欧州の片田舎の貴族』にまで影響力を失ってしまったことと、『最後の皇帝』であるフランツ・ヨーゼフ1世の死を以てその幻想が打ち砕かれていたことも影響していた。
フランツ・ヨーゼフ1世が『旧き君主』であることは、その在り方からもうかがえる。しかし、その『古さ』は時代遅れであり、世の中の流れにあまりにも逆らいすぎた物であった。それに代わる案としての共和制への移行をドナウ連邦は考えていた。
だが、そこにアメリカやイギリスがくちばしを突っ込んでくるなど、それこそ『民族自決』に反する行為であった。
何時からアメリカとイギリスは『民族自決』を他国に押し付けることができるほど偉くなったのか。そのようにドナウ連邦の代表は反発した。
少なくとも、ドナウ連邦となる国々はフランスの影響を避け得ないし、旧体制を敬いつつも、同時に時代に合わせて新しくするという方針のフランスの案には、賛成の声が多数上がっていたのである。

これにはアメリカもイギリスも困った。
この時、両国ではそれぞれ御膝元のアイルランドやテキサス、メキシコなどで民族運動が過熱しており、会議の最中にもかなりドタバタしていることがそのほかの出席国にも聞こえてくるほどであった。日仏が独立派を焚きつけているのは内緒である。

823: 弥次郎 :2017/09/29(金) 23:09:01

思わぬところにも14か条の平和原則は影響していた。アメリカ国内である。
この14の条項は、傍目には平和的な解決を求める物であった。しかし、これの意図するところを履き違えた人間はアメリカ国内に多くいた。
ウィルソンがあくまでも欧州の自主的な平和体制の構築を考えていたのに対し、『アメリカによる欧州ひいては世界秩序の構築と維持』こそが必要であると考えてしまったのである。
早すぎる、そして最悪すぎるタイミングでの『パックス・アメリカーナ』の台頭だった。

いや、この時だからこそと言えるかもしれない。アメリカの国際的な信用が落ち、欧州もまた戦火の後に苦しんでおり、その閉塞感を忘れようとする防衛本能が働いたのかもしれない。
故に戦後の講和会議の途中経過を伝える報道に、アメリカ国民が怒りの声を上げていた。
何故、アメリカが除外されたかのようにして会議が進行しているのかと。何故自国の代表はそれを黙って見過ごしているのだと。
その原因はほかならぬアメリカにあるのだが、人というのは概して都合の悪いことは見ない生き物であった。

一部では、特に非白人に差別的なKKKなどの秘密結社による『非白人狩り』が横行。さらに、会議の期間中には日本及びフランス製品へのボイコットや破壊活動がアメリカで起こっており、ロビイストの声を無視できないアメリカ政府にとっては非常に厳しい二律背反であった。日本やフランスに喧嘩を売りすぎると第一次世界大戦の直後に日仏双方との戦争になだれ込む。かといって、国内世論を無視できるほどウィルソンに支持率的に余裕があるわけでもない。
何とか妥協点をとアメリカはアプローチを繰り返したのだが、いずれも日仏の理解を得られるものではなかった。

止めとなっていたのは、日仏同盟の解消を迂闊にもウィルソンが迫ったことであった。
史実においても日英同盟がこの後の軍縮条約においてアメリカなどの思惑もあって解かれた。
ウィルソンとしては自国を包囲する日仏のつながりを一時的にでも立つことで、経済圏の拡張や軍事的な優位を構築するつもりであった。
なにしろ、日仏の包囲網は事実上アメリカをすぐに止めを刺せるレベルであった。陸続きのアカディア大公国が西にあり、南にはブラジルなどを巻き込んで南米の一大経済圏を維持するギアナ・フランセーズがあり、東にはフランス本国とやや距離はあるが広大な土地を持つアフリカ・フランセーズがある。それらが一斉に襲い掛かって来るだけでアメリカは滅びる。
そして、その包囲網を支えているのは大日本帝国である。この両者のつながりを『平和のため』として断ち切れないかというのは、中華民国に入れ込んでいたウィルソンにとっては、そして前政権であるタフトをたきつけていたアメリカ財界にとっては結構重要な案件であった。

だが、この最大の逆鱗に触れたことでアメリカはイギリスのあきれすら引き起こしてしまった。
日仏の同盟の硬さは尋常な物ではない。初期の交流開始から300年を記念する行事がほんの20年前にあったばかりであるし、正式な同盟関係が結ばれてから200年以上も経っている。それを今さら切れ、と迫るのはとてもではないが正気ではない。
日仏の同盟があるというフレームで動き続けてきたイギリスにとっても、まさか見える地雷を踏みに行くとは思ってもみなかった。
あることが当然、という流れであったというのに、よりにもよって突っ込むのかと。

824: 弥次郎 :2017/09/29(金) 23:10:19

その時の反応は、あえて語るまい。
表情を消した西園寺と、爆発寸前の火山の如き有様となったクレマンソーの反応が、全てを物語っていた。

「貴国は長年続く国際的な伝統というものへの理解が足りないようだ」

事実として、アメリカは講和会議から爪弾きにされたのである。
アメリカの代表団は席を温めながらメモを取る存在と化した。
おまけに日仏がアメリカ国内の新聞社などにこの醜態をリークしたことで、国内世論は面白いように炎上した。
まあ、正直に言えば炎上し過ぎてアメリカの戦後の大不況に追い打ちをかけたかもしれないのだが、それは些事である。

アメリカが事実上脱落し、イギリスが戦略的撤退を選んだ時、日仏の邪魔をする者はいなくなった。
それは同時に、本来ならば黙殺されかねない少数勢力の意見が俎上に上がるチャンスでもあった。

まず、戦争の火種となったセルビアについての問題が持ち上がった。
根本的なバルカン半島の解決には時間がかかると思われたのだが、案外片付くのは早かった。
セルビア及びWW1の帰結を覆したオーストリア=ハンガリー帝国に対する反発やバッシングで皮肉にも同地域が連帯しており、ハンガリーが音頭をとってドナウ連邦となることが提案され、承認された。

  • セルビア王国の成立の承認
  • 今後30年間の兵力を14万人以下に制限
  • 特定兵器(ガス兵器 航空機 戦車 小銃など)新規開発の禁止と保有数の制限
  • ボスニア=ヘルツェゴビナおよびコソヴォの主権の主張の取り下げ
  • 史実クロアチア ハンガリー チェコスロバキアなどを含むドナウ連邦の成立承認
  • セルビア王国はドナウ連邦に対し支援金の供出する

ドナウ連邦は民族自決の概念を一部『だけ』採用し、旧国境を元に自治州の集まりとして成立。
見る者によってはアメリカ合衆国の制度に似ていると認識するかもしれない。
実際問題自治権をめぐる争いを決着するには、ある程度の自治権を与えるしか方策はなかったのだ。
代わりに、自治州の帰属や区分けについてはは国民投票や列強による監督会議を経て承認することが決まった。
そして、ハンガリーから見捨てられた形となったオーストリア帝国は過酷な条件を強いられることになった。

  • 今後40年間の兵力を15万人以下制限
  • 特定兵器(ガス兵器 航空機 戦車 小銃など)新規開発および規定数以上の製造の禁止
  • 残存艦艇及び水兵の引き渡し
  • フランス帝国に対しての賠償金の支払い(ストラスブール事件及び一連の軍事行動の賠償)
  • AB風邪への対策費の捻出
  • ドナウ連邦への支援金の供出
  • ドイツ及び指定国家との合邦禁止
  • 国外のオーストリア人の処遇については各国の判断にゆだねる

速い話が、オーストリアという国家が今後の国際情勢の中で大手を振って歩くことを禁じるものだった。
オーストリア人への差別というものはこの後の欧州に根強く残ったが、それもある意味自業自得であった。
ドイツ帝国にとっても、オーストリアという干渉地域が東側に残ればドナウ連邦との軍事的衝突も回避できると判断していた。
ドイツの合邦禁止というのは、その歴史背景からドイツと近いしオーストリアがドイツに賠償などをおっ被せるのを阻止するためだった。

825: 弥次郎 :2017/09/29(金) 23:11:10
さて、最大の争点となったドイツ帝国。
はっきり言えば、一応の戦勝国に対して賠償として提供できる権益などがあまりにも少なかった。
もとよりアフリカ大陸はフランスとオスマン帝国とイギリスによって多くが占められており、アジアの権益についても青島などを除くとごくわずか。どの国にとっても割に合わない権益しかなかった。あとはせいぜい艦艇や兵器、そしてそこに関する技術だ。
当然ながらこれは分割されることになる。割に合うか合わないかはまた別問題である。

  • ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の退位と連邦共和制への移行
  • ドイツ帝国及び皇室からAB風邪の対策費の捻出(事実上の賠償金)30億マルク(一括)+分割で100億マルク(現物提供も可)
  • オーストリアおよびドイツにおける一定の軍備制限(装備の開発や船舶などの保有制限 開発制限)
  • ドイツの持つ海外利権の売却及び艦艇の譲渡ないし売却
  • 今後20年間の軍備制限(陸海の両方において戦力比を英仏米らの40%前後に抑える)

ここにおいて、イギリスとアメリカは賠償金をとるべきと主張したのであったが、フランス帝国宰相であるジョルジュ・クレマンソーの反対によって、賠償金は全て『AB風邪への対策費』と名を変えることになった。

今回の戦争は勝者も敗者もなく、まかり間違ってもたまたま運が悪かった君主とその君主の抱える国家に対する嫌がらせや、憂さ晴らしのための講和にしてはならないという思いがクレマンソーにはあった。それでも、と食い下がるウィルソンとデビット・ロイド・ジョージであったが、ついにクレマンソーの堪忍袋の緒が切れた。

「貴様ら、これ以上口をきくな。私の言葉に対して貴様らに許されるの返答は『Yes』か『はい』か『Oui』のどれかだ。
 さもなければ荷物をまとめてここから出ていけ!貴様らの点数稼ぎのために、伝統ある王家をおもちゃにするなど許さん!」

『皇帝の虎』の異名を持つジョルジュ・クレマンソーの怒声は、全ての人間を圧倒した。
良くも悪くも皇帝に仕える宰相という地位に誇りを持つ彼にとって、そしてフランス革命戦争時の王党派の流れをくむ派閥に属するクレマンソーにとって、王家というのは政治の道具となることがあろうとも、それはある種の敬意や敬いを以て扱うべき非常にデリケートな問題なのであった。
事実、この戦争の切っ掛けはオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子の暗殺であり、迂闊に英米の要求をのめば、ドイツはいずれ復讐を行うだろうと読んでいた。自身の立場に置き換えれば、恐らく報復を考えるだろう。それこそ、死に物狂いで一矢報いんとするだろう。

しかし、それではだめなのだ。
ヴィルヘルム2世が、ドイツの上層部がその身を犠牲に維持したドイツという国家は、何が何でも生き延びてもらわなければ困る。
その為ならば、『隣国の支援』という地政学上避けるべき行為すら行うつもりですらあった。それは、ドイツ帝国への援護であると同時に、自らが宰相を務める国家に対する「忠」のあらわれであった。

クレマンソーの意見が採用され、皇帝については扱いをドイツ国民に委ねることになった。
戦争に参加することもすべて皇帝に責任がある。そして、それによって被害を受けたのがドイツ国民であるならばその処遇の判断は諸外国が行うのではなく、ドイツ国民に委ねるべきだと結論された。よって条約には、

  • 皇帝および皇太子の血縁者の政治参加の禁止(選挙権・被選挙権の制限)
  • ドイツ国民の個人的な崇拝や忠誠についてはドイツ国民の良識に委ねる

と、このように盛り込まれた。事実上の皇帝一家の存続である。
勿論今後の政治関与については認めず、軍事的な権限を伴う地位に就くことも一兵卒レベルでも許されないこととなった。
ドイツ国内でも一応裁判が行われたのだが、「条約において既に責任を果たすべき要項を満たしている」などとされ、事実上の起訴猶予処分となった。

826: 弥次郎 :2017/09/29(金) 23:12:06

続いて、イタリアの問題であった。
『未回収のイタリア』の回収に熱心であったイタリアは、アメリカの言う『民族自決』には当初は賛同していた。
しかし、イタリア特有の国家統一性の弱さに『民族自決』がマッチしないことが日仏の指摘で明らかになると、一転して手のひらを返した。というのも、『未回収のイタリア』には『イタリア語に似ている言語を含む地域』が広義には含まれており、それらには複数の、これまで違う生活を送っていった『民族』が暮らす地域も含まれていた。そうなると回収後に独立運動が勃発して、せっかく手に入れた地域が離脱するのではという不安が生まれたのだ。ただでさえ国内の地方の独立性の強さが国家としての統一において響いて悩みの種となっているイタリアには藪蛇となりかねないものだった。

しかし、フランスにとってはちょうど良い厄介ごとの押し付け役とみなされた。
イタリアはヴェネツィアやトリエステの領有を認められたほか、トレンティーノ 南ティロル ダルマツィアなども一時領有(帰属については住民投票の結果にもよる)が認められた。イタリアにしてみれば棚から牡丹餅であったが、同時にオーストリア共和国へのにらみをきかせる役目を事実上押し付けられており、セルビアへ圧力をかけるのも役割とみなされた。

また、交戦国であり、AB風邪の感染が一部で確認されていたことから油断は許さぬ状況であり、決して喜べる状況ではなかった。
イギリスにおけるインドのように、自治権を求める動きが引火して大爆発する可能性もあったのだ。
イタリアはいつ爆発するかわからない時限爆弾を料理ごと飲み込んだようなものあった。
またそれ以外の賠償金などはあまり払われることはなイタリア国内にはやや不満の残る講和であった。

まあ、他国にしてみれば日仏の参戦という決定的な出来事までスクワットしていただけのイタリアがいいとこどりをするのは許せないという、共通した負の感情の影響があったのであるが。

827: 弥次郎 :2017/09/29(金) 23:13:06

そしてこの講和会議においてもう一つ重大な議題があった。
レナ川以西に成立しつつあったロシア帝国と、皇族を追放して成立しつつあったソビエト連邦についてだった。

ここでソビエト連邦の実情について簡単に述べるならば、まさしく綱渡り状態だった。
残っていた貴族たちの財産や皇室の財産を元手に何とか飢えをしのいでいる状態であったが、史実のように強引な手法をとることが、なかなか厳しいものとなっていた。
貴族たちは条件付きで国内に残留することを認めていたし、国内での処刑騒ぎも赤軍が主体となって抑止していた。

そう、革命を起こした側も起こされた側も、みんな仲良く地獄行き寸前だったのだ。
これには指導者であったレーニンらも過度な政策を打ち出すことをためらうレベルであった。折しも季節は冬。
寒さによってAB風邪の感染は拡大しないと推測されたが、何の慰めにもならなかった。誰もが飢えているというのに寒さは天敵であった。

他方のロシア帝国政府も、シベリアという未開の地域に急遽逃げてきたことで国内産業はほぼ0からの構築であった。
着の身着のままでのロシアからの脱出だったのだ。辛うじて持ち出せた資産もあるのだが、それ以外は国内に残されていた。
それはソビエトが回収して何とか立て直しに活用しているが、地獄のような状態であるのは間違いない。

ここでアメリカが『ロシアの回復』を謳ったところで、言葉の意味以外は持ち合わせていなかった。
そもそもアメリカが干渉するのはどう控えめに見ても不可能だ。実際に物資の提供を人道上の観点からソビエトとロシア帝国の双方に行っているのは日本とフランスであり、当事者にとってみれば外野が勝手に騒いでいるに過ぎなかった。
勿論、ロシア白軍の人間がアメリカに亡命しているので部外者ともいえなくもないし、イギリスの諜報部もここに絡んでいるので当事者と言えなくもなかった。しかし実際問題として、ロシアは国家丸ごと崩壊寸前である。
まさかこの状態で軍を揃えて殴り込むわけにもいかない。それを行うのは果たしてどうなのか?
こうして、ロシアに関しては暫くは日仏の管轄の元で放置というのが自然決定した。

こうして、ニンフェンブルク条約の締結と、ニンフェンブルク体制の樹立はなされた。
しかし、どの国も、この条約における平和は長くないと察していた。
特に、欧州における戦災復興を主導する地位に自然となっていたフランスは、世界を巻き込んで戦争を通じて露呈した、各国の抱える問題の根深さを垣間見たのだ。ギリシャとオスマン帝国、中東圏における宗教関係の諍い、ロシアでの政変、さらに大打撃を受けるばかりで戦勝による回復を得ることが出来なかったイギリスとアメリカ。ソ連とにらみ合うロシア帝国。

ここに出費こそ多いものの犠牲を少なくできたフランス帝国連邦と盟友国たる大日本帝国がいれば、どういう感情が向けられるかは明白だ。
その感情、視線にフランス帝国連邦は本能的に理解できた。即ち、フランスに対する干渉が行われた、あの時と同じであると。

確かに世界大戦は、クリミア戦争以来となる大規模な戦争は終結を迎えた。
だが、戦争が終結したからと言って、未曽有の被害者を出したからと言って、また始まらないという保証はないのだ。
その確信は、夢幻会も、そして大日本帝国上層部にとっても同じことであった。
よって両国は、いずれの報復(リヴェンジ)を目論むであろう各国の行動を見据え、さらなる連携を模索するのであった。


明けない夜はなく、いずれは日がまた昇る。

しかし、明けない夜が無いように、終わりのない昼間というのもまた存在しない。

いずれは日が陰る時が来る。

果たして、再び夜が訪れた時、誰が闇夜に飲み込まれてしまうのか。

その恐怖は、全ての国に共通していたのであった。

828: 弥次郎 :2017/09/29(金) 23:13:39
以上、wiki転載はご自由に。
ニンフェンブルク条約について補足と言いますか、その影響について色々と…

フランスの話を書くつもりが、ほんのスパイス程度になりました。
果たしてこれでいいのかなとガクブルしながら投下しました。

次回は、イギリスのアイルランドでともった火花について…
何故イギリスが戦略的撤退を選んだのか。
第一次世界大戦と第二次世界大戦の間って、案外平和な時代が続いたわけでもないんですよねぇ

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2017年10月01日 10:52