433: ナハト :2017/09/26(火) 23:52:20
私は三菱で設計主任を任された男だ。
九試単座戦闘機として、入社してから初めて戦闘機設計として初の大仕事である。
作り上げはしなかったものの七試戦闘機はいい経験になった。
そこで、私は自信をもって、九試単座戦闘機を作り上げて飛行場へと意気揚々と向かった
がそこで、私のプライドが粉々に砕けてしまった
倉崎社が持ち出したそれは、私が作り上げた戦闘機よりも遥かに優美なスタイルをしていて
なおかつ、強そう・・・・と一目で見て負けてしまった。
事実、それは私達が検討したものの諦めた引き込み脚で複列14気筒のエンジンを取り着けた試作戦闘機は
私達の試作戦闘機がまるで複葉機並みの速度で、それは高速となって私達を置き去りにされたのだ。
それでいて、機動力も高く、防弾も十分あり、私達のは7,7mm機首二丁しかないのに機首のみならず翼にも機関銃が四丁搭載されているのだ
後に、翼の機関銃は二十ミリ機関砲に換装されたと聞いて、倉崎はどれだけ未来を見ていたのか悔しく思ったものだ
九試作単座戦闘機は当然、倉崎社のが正式採用となり九六式艦上戦闘機となったのだった
こうして、プライドなど色々と失った私は、九六式艦上戦闘機を激しく憎み
この戦闘機に絶対勝てる戦闘機を作り上げる決意をするのであった
本社に戻った私は、まず今まで書き上げた九試単座戦闘機の設計図をビリビリ破き踏みつけることだった
そして、それを終えると新しい白紙を取り出し、一心不乱に書き始めたのである
全てはあの戦闘機に勝つために!と
そのために今まで技術的に新しい物を取り入れるのを躊躇ったものを何でも取り入れ
エンジンの馬力が足らぬというなら、上司に直訴して、最も航空機エンジンが進んでると言われている
リベリオン合衆国へエンジン技術者を出張に行かせ、新しいエンジンを作らせた。
そして、ストライカーユニットに新しい物が出来ていると噂を聞いたから見学にも行った。
そこで、鍾馗の推力式排気管・12試作ストライカーユニットの繊維強化プラスチックとの複合素材
を学ぶことが出来た。これによって、速度向上と数百kgの軽量化が見込めた
こんなのは複雑すぎて無理だと弱音を吐く材料部を私が叱咤激励を行い
最新技術を持っているというカールスラントからマザーマシンを持ってくるよう上層部に脅しをかける
434: ナハト :2017/09/26(火) 23:52:50
こうして、どんどん出来上がっていく技術に私は全身全霊持って設計に入り
新しい技術が入ったと聞くや即座に取り入れてみて、良いと思ったら
今までの設計図を捨ててでも書き直しをやった。
私は机にむかい、ひたすらに計算と設計を行った
大陸で怪異との戦争が発生し、従軍したパイロットの話を聞くことが出来た
そこでは今までの怪異との概念が別物となり果てており
私が設計した九試単座戦闘機であったなら悔しいことだが出来なかったことばかりだ。
十分な防弾がされたことで多くの兵士が助かり、十分な攻撃力を持ったことで怪異を十分に倒せた。
私は設計の方針が間違っていなかったことを安堵しながら、興味深い話を聞くことが出来た。
それは、元艦爆乗りの方で機体が全て撃破されて、代用として戦闘機に爆弾を積んで爆撃したという話で
艦爆では逃げ切れなかった足が九六戦では逃げきることができたという話だ
私は、これで戦闘機にも爆弾を積んで攻撃することが予想でき、尚且つ生存性が意外と高いという事に気が付いた
そこで、余計な仕事となってしまったが、爆装能力も高める作業に入った。勿論簡単な作業で純粋な戦闘機に戻せるようにしておく
こうして、出来上がった戦闘機は九六式艦上戦闘機よりもほんの僅かに大きな戦闘機であったが、内容は隔絶していた
エンジンはリベリオンの航空技術を生かした、新型の2千馬力ハ-43で将来的には3000馬力以上発揮できるようになった。
機首に空力的に纏まった推力排気管を設け、胴体にはジュラルミンと強化繊維と複合素材で
機体の強度を高めつつ数百kgも軽量化に成功した
機関砲も20mm機関砲を四門搭載したが状況に応じて30mm、ガンパック追加できるようにした
更には大型爆弾を積めるようにでき、ロケットも搭載で来た。
それでいて、若干の余裕を持たせ、将来的な改造余地を残していたのである
完成された機体は飛行場に運ばれていくのを私は車椅子の上から見送った。
私はひたすら設計作業に没頭し、飲み食い寝ることもしないで書き続け
とうとう体を崩してしまい入院もした。
しかし、絶対安静をという医者を無視して、無理矢理退院してひたすら設計に向かったからこそ
この機体が完成したのである。
そして、試作戦闘機が離陸し、脚部を引き込んで優雅に空を舞っているのを見た
私は「勝った。ようやく私は勝った」と言い、ゆっくり目を閉じたのであった・・・・
後日、主任が車いすの上で、完成された機体を見届けるかのように亡くなってたのを確認された
残された機体は弟子たちが不具合を解消し、1940年1月1日をもって零式艦上戦闘機「烈風」として制式採用されることとなった。
彼の死を知った倉崎は一言「馬鹿者が」と呟いたきり、業務に戻ったが
彼を知るものはとても寂しそうに見えたという。
彼が命を賭して作り上げた烈風はネウロイ大戦で、進化続けるネウロイ相手に粘り強く喰らい付き
彼が苦労して作り上げた翼は、余裕を持ち、武装は後に57mmという大口径機関砲でも撃つことが出来
片翼の半分が吹き飛んでも帰ってこれる強靭性を見せることが出来た。
後にターボブロップを搭載した烈風改、大型誘導ミサイルを搭載した戦闘雷撃機のペレグリンなど多くの派生機を生み出し
中南米に輸出された烈風はそこで発生したネウロイとの紛争で勝利し、最後のレシプロ戦闘機の勝利者と呼ばれるようになった
今、多くの烈風がレース機、ヒストリカル機、民間機で多くが飛び
靖国神社でも1機が静かに眠っているのであった・・・・・
435: ナハト :2017/09/26(火) 23:55:07
終わり
宮藤博士が三菱に行ってないので宮菱に改名してないと思います。
そして、こうなるんではないかなあと思ったり。
数年技術が遅れているから、技術を追い越そうと思ったら
このように無理をしなければならないのですから。
では、寝ます。おやすみなさい
最終更新:2017年10月11日 13:48