813: ぼのぼの :2017/10/21(土) 13:30:07
◎ 真珠湾攻撃
真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、英:Attack on Pearl Harbor)は、
1941年1月1日早朝(米国時間:1940年12月31日)に大日本帝国陸前州仙台県布哇諸島真珠湾に所在した
大日本帝国海軍の軍港及び周辺の航空基地に対し、アメリカ合衆国海軍が行った一連の攻撃の総称。
当時のアメリカ合衆国における正式な作戦名称は、コロネット作戦(英:Operation Coronet)。
第一次布哇沖海戦としても知られている。
第二次世界大戦劈頭、四国同盟が各地で実施した大洋連合諸国に対する軍事行動の一つであり、
太平洋における大日本帝国を主眼とした、ダウンフォール作戦(英:Operation Downfall)の一環として実施された。
なお同様に欧州及びアフリカ、南米、インド洋において対ネーデルラント連合帝国を主眼に行われた
オーバーロード作戦(英:Operation Overlord)とは対を成していた。
極めて緻密な作戦計画であったが、根幹となる日本側の戦力を見誤っていたことが原因で瓦解し、
その後のアメリカ合衆国の戦争遂行に大きな影響を及ぼした。
1.背景
1-1.前史
アメリカ合衆国海軍による布哇諸島真珠湾への攻撃計画は、幾度となく策定と改定が繰り返されてきた歴史を持つ。
確認できる最も古いものは1874年まで遡ることができ、南北戦争後に悪化しつつあった経済状況を鑑み、
最後のフロンティアと目された支那大陸への経済進出を行う上で、中継地点として蘭領の外南洋島嶼群ないし
日本領の布哇諸島、中道諸島、南洋諸島のいずれかを獲得、領土化する可否が検討された。
この中で取得方法として購入の他、武力併合も一時検討されており、その際に必要とされる兵力が試算されている。
これらの領土化計画は最終的に多くが断念されたものの、中継地点として極めて有力とされた
布哇諸島の獲得に関しては以降も秘密裏に検討が続けられた。
そして1895年、日清戦争終結後に日蘭が諸外国の支那大陸進出を事実上認めたことでこの動きは一層加速。
太平洋航路を維持する上で日蘭ないし英のいずれかが有する港湾を寄港地として
利用しなければいけない現状を打開すべく、アメリカ合衆国は布哇諸島の獲得を本格的に志向。
限定的な軍事衝突も辞さない判断の下、1904年には実際に布哇占領計画(布哇事変)が実行に移された。
しかしながら、拙速過ぎた武力併合の試みは失敗。外国籍労働者として現地に送り込んでいた工作員や
共和義勇艦隊として動員した艦艇の過半を喪失する燦々たる結果を招いている。
814: ぼのぼの :2017/10/21(土) 13:31:38
1-2.作戦構想
武力併合の試みは失敗したものの、皮肉にも布哇諸島へのアメリカ合衆国の関心はより一層高まった。
何故ならば布哇事変の結果、大日本帝国は布哇諸島の軍事的な強化を急速に進めることとなり、
布哇諸島が単なる中継地点から西海岸に対する喉元の短刀へとその性質を大きく変えていったためである。
また布哇事変で現地の諜報網が壊滅し、搦め手を用いた手法が取れなくなったこと。
加えて、日本が身元が定かではない外国籍労働者の利用に慎重となったことも災いし、
精確な情報を得難くなった布哇諸島への漫然とした不安感がアメリカ合衆国軍、特に太平洋艦隊の中で膨らんでいった。
それ故に1904年以降もアメリカ合衆国では常になんらかの布哇諸島の攻撃計画が存在し続けたものの、
情報の不足から具体性に乏しい計画しか策定できず、関心の高さに反してその内容は決定打を欠いた状態が続いた。
しかし1920年代、そうした状態に転機を齎される。当時、アメリカ合衆国陸軍きっての航空主兵論者であった
ウィリアム=ミッチェル陸軍大佐(当時)が飛行船と航空機による攻撃を提唱。
合衆国陸軍が策定していたカラーコード戦争計画における対日及び対蘭戦域攻勢計画、
所謂ところの“オレンジ=スチールプラン”内に組み込むことを主張した。
これは第一次世界大戦時に欧州戦線で猛威を振るった各国の飛行船部隊をさらに発展させ、
飛行航空母船と艦載戦闘機、爆撃飛行船による空中艦隊を編成し、
空からの奇襲で布哇諸島各地の軍事拠点を破壊するというものであった。
大戦においては武装中立を維持したが、依然として軍事先進国と見做されていたネーデルラント連合帝国が
極めて強力な空中艦隊を保有していた(※1)ことやアメリカ合衆国内で飛行船を建造する際に重要な役割を持つ
ヘリウムが大量に産出していたこともあり、アメリカ合衆国陸軍空中艦隊構想として具体化。
事実、1928年の飛行航空母船<アクロン>と<メイコン>、及び搭載するカーチスF9C艦上戦闘機の発注。
そして爆撃飛行船<アナハイム>の設計と発注準備という形で実現の一歩手前まで迫っている。
だが、こうした陸軍主導の空中艦隊による真珠湾攻撃計画は、
1930年のロンドン海軍軍縮条約の締結とその直後の米英仏ソらによる四国同盟の成立。
さらにジョージ=ビンソン海軍中将起草のビンソンプランが最終的に認可され、
同盟全体で大洋連合を上回る海軍戦力を整備する計画が優先されることが決定したために破却。
空中艦隊構想、さらにはそれを補完する航空戦力の近代化に影響を及ぼしかねないとして
ビンソンプランに最後まで反対していたウィリアム=ミッチェル陸軍中将は失脚し、失意のうちに陸軍を去っている。
以降、真珠湾攻撃計画の主導権は陸軍から海軍に戻されたが、ミッチェルが提唱した空からの奇襲攻撃案は応用され、
空母を中核とする空母機動部隊と戦艦主体の水上打撃部隊の二つによる海空一体の飽和攻撃へと発展。
1932年2月にはハリー=アーヴィン=ヤーネル海軍少将が兵棋演習上で
真珠湾を模した仮想の軍港に対する空母機動部隊を用いた奇襲を限定的ながら成功。
その後、1937年9月には太平洋艦隊司令長官の職に在ったヤーネル海軍大将が再び兵棋演習上で
空母機動部隊での飽和攻撃を実施し、続けて水上打撃部隊の投入による戦果拡張を試みた。
結果、ついに真珠湾を模した仮想の軍港の戦力を完全に無力化することに成功した。
この“ヤーネルアンサー”と呼ばれた演習結果を用い、アメリカ合衆国軍は太平洋での戦域攻勢計画4101号を策定。
そして、これが大西洋における戦域攻勢計画4102号などの他地域での攻勢計画と複合していき、
対大洋連合戦争計画こと“レインボープラン”、オーバーロード及びダウンフォール両作戦として結実することになる。
※1 : 第一次世界大戦初期、テセル島近郊で蘭宣伝省によって撮影され、新聞などでの宣伝に用いられた
遊弋する蘭海軍本国艦隊と日本海軍巡洋戦艦<金剛>の直上に展開する蘭空軍空中艦隊の写真は
非常に有名であり、第一次世界大戦における日蘭の武装中立が保たれる理由の一つとなったことで知られる。
815: ぼのぼの :2017/10/21(土) 13:32:48
1-3.布哇諸島の状況
1626年の再発見と編入以来、三世紀近くに渡って日本の領域に組み込まれていた布哇諸島であるが、
今日現在までに伝わる太平洋における戦略的要衝、難攻不落の海上要塞としての側面を持つようになったのは、
1904年の布哇事変以降に急速な整備が実施されてからであった。
それまでの布哇諸島は最も東方に位置する辺境領土でしかなく、仙台藩に属していた時代は開発も概ね緩やかであり、
現在のような軍事的要衝や寄港地、観光地として整備された姿とはかけ離れていた。
しかし、十九世紀初頭のフランス革命戦争にネーデルラント連邦共和国(当時)側の傭軍という形で参戦し、
欧州の空気に触れた日本は国家変革の必要性を強く感じ、後の海禁政策の破棄と明治維新へと進むことになる。
その中で布哇諸島は太平洋における西欧諸国の進出に対する砦と目されるようになったが、
相対していたアメリカ合衆国の太平洋における戦力がほとんど整備されておらず、
また当時はアメリカ合衆国との外交関係が然程悪くなかったことからさしあたって警備府が設置され、
幕府海軍や後の新生海軍が駐留する港湾施設の拡充と沿岸砲台が整備される程度に留まっていた。
そんな布哇諸島第一の転機となったのが、本格的な長距離旅客飛行船の誕生であった。
十九世紀前半にネーデルラント連合帝国で生まれ、その後絶え間無く発達し続けた同国の飛行船技術(※2)は、
十九世紀末までに蘭本土から蘭領ケープ、セイロン、東インド、アウストラリス、ニウゼラント。
そしてギアナといったネーデルラント連合帝国各地に至る長大な国内空路を構築するに至っていた。
飛行船は通常の船舶に比べれば運べるものが限られ、さらに船舶以上に危険が付き纏うものであったものの、
その圧倒的な速さは世界全体に広がるネーデルラント連合帝国各領の距離を大きく縮めるものとして歓迎されていた。
そうした飛行船技術の恩恵を受け、また時には発達に寄与した大日本帝国でも飛行船は広く用いられており、
1897年にKLM(ネーデルラント皇室航空会社)が計画した蘭太平洋領域と蘭領ギアナを直接結ぶ
所謂ところの環球空路(ウェールドゥ=ライン)の構築を目指した際には、中継地点として布哇諸島の利用を提案。
共同で布哇諸島央府(オアフ)島での支倉国際空港と隣接する羅綯(ラナイ)島に対する
羅綯飛行船発着場の整備を進めることで一致。
二十世紀に入る頃には交通の要衝として、布哇諸島には新たな発展の兆しが見え始めていた。
その後に布哇事変が生じるも、1906年には予定通りに支倉国際空港が開港。
ネーデルラント連合帝国と大日本帝国の共同による環球空路が完成し、
同時に中継地点としての価値が飛躍的に高まったことで矢継ぎ早に布哇警備府の布哇鎮守府への昇格、
常設の特別陸戦師団の設置、要塞化の促進といった難攻不落の海上要塞たる軍事的な強化へと繋がっていった。
そして、布哇事変とその後の軍事的な強化を間近で目の当たりにした影響か、
以降の布哇諸島は軍民共に要衝故の攻撃に対する警戒が実感を伴って醸成されることとなった。
それが二重三重の周辺警戒網の整備を布哇諸島に強い、第二次世界大戦劈頭に行われた
アメリカ合衆国海軍による奇襲を元日の早朝という時間帯にも係わらず察知することに繋がったとされる。
※2 : ネーデルラント連合帝国における飛行船技術の発達については、欧州における階差解析機関の開発競争に
日蘭同盟が勝利を収めた後、完成した階差解析機関や副次効果として生み出された
精密かつ規格化された工業部品を作る技術が工業分野で広く応用されたことが影響しているとされる。
816: ぼのぼの :2017/10/21(土) 13:34:12
1-4.攻撃計画
1938年にアメリカ合衆国で策定された最新の真珠湾攻撃計画は、先述した“ヤーネルアンサー”を基礎としていた。
その中では布哇諸島の島々のうち、侵攻にあたって重要とされた六つの島に対して暗号符丁が割り振られている。
最も南に位置する布哇島をスペリオルと呼び、順に馬哇(マウイ)島をヒューロン、羅綯島をミシガン、
諸海(モロカイ)島をエリー、央府島をオンタリオ、最後に加哇(カウアイ)島をセントクレアと呼称した。
これらの島々のうち、最優先目標とされたのが“オンタリオベース”こと央府島の布哇鎮守府真珠湾軍港に所在する
大日本帝国海軍第七艦隊の戦艦及び空母といった主力艦艇の撃沈、ないし湾口閉塞による出撃阻止。
次点の優先目標が央府島、羅綯島、布哇島などに所在した各航空基地、防空陣地であった。
その意図は心理的な効果もさることながら艦隊と航空部隊を迅速に無力化し、
展開した太平洋艦隊による火力支援や航空支援の下、揚陸した陸上戦力で完全占領を目指すものだった。
そのため占領後の再利用を前提とし、工廠や油槽といった基地施設に対する攻撃は
投入が計画された兵力上は十分に可能でありながらも極力避けられていた。
また、撃沈ないし閉塞した大日本帝国海軍第七艦隊の艦艇については、
あわよくば鹵獲、再戦力化をして予想される大日本帝国海軍主力や連動した蘭東洋艦隊群の反攻に備えるとされた。
ただし鹵獲に関しては、内部でも懐疑的に見る意見がほとんどであり、あくまで可能であればの域を出なかったとされる。
なおこうした目標の選定は第三国の観光客を装い、布哇諸島に渡航した
複数のOCI(アメリカ合衆国情報調査局)要員が掻き集めた断片的な情報が基にされていた。
だが依然として布哇諸島に恒久的な諜報網を構築するには至っておらず、情報には不確かな部分も多かった。
事実、1932年2月にヤーネル海軍少将(当時)が行った兵棋演習では情報の不確かさが乱数として用いられ、
空母機動部隊のみの奇襲では攻撃成功と引き換えに奇襲部隊に甚大な被害を齎すという結果を生み出した。
そこで1937年には投入する戦力をさらに増強。
過剰とも言われる戦力の超集中運用によって奇襲性が高い第一次攻撃の効果を大幅に高め、
万が一に察知されて迎撃が行われたとしても、そのまま純粋な飽和攻撃に切り替えて打破することが狙われていた。
加えて、攻撃の際には最低でも二方向以上からの同時進攻が原則とされ、迎撃網を破綻させる努力が図られた。
また、この兵棋演習においては航空先進国であったネーデルラント連合帝国との軍事同盟の存在を鑑み、
当時アメリカ合衆国陸海軍の最新鋭機であったグラマンF3F艦上戦闘機及びセバスキーP-35戦闘機の
一.五倍の性能を持つ二種類の仮想迎撃機が設定として用いられていた。
この設定には演習時、攻撃側と防衛側共に過剰であるとの意見が噴出したものの、
ヤーネルはそうした意見を敵が強大である可能性を我々は受け入れなければならない、と一蹴している。
そしてこのような厳しい条件設定にも関わらず、完全無力化が達成されたことで飽和攻撃の有効性が証明。
これを真珠湾攻撃計画の骨子とし、全力で準備が進められることになった。
817: ぼのぼの :2017/10/21(土) 13:35:58
1-5.作戦の許可
1940年6月17日、米領チャイナの天津港からロサンゼルス港を目指す途上、ハワイ沖を航行していた
米国船籍のタンカー<スケネクタディー>が突如として沈没。乗組員41名中、38名が死亡する海難事故が発生した。
この際、生存した乗組員らが沈没直前に轟音が響いて船体が傾き、直後に船体が爆発した(※3)という
魚雷攻撃を受けたかのような証言を行ったことからアメリカ合衆国側は真珠湾に駐留する大日本帝国海軍の潜水艦が
訓練中にタンカーを誤射したと主張。これに対し、大日本帝国側は関係者への聞き取りの上で即座に否定。
加えて沈没した海域が比較的浅かったことから、船体引き揚げによる事故原因の共同調査を提案した。
しかし、布哇諸島の急激な軍事拠点化をかねてより懸念していた英仏がアメリカ合衆国側の意見に同調。
これによってアメリカ合衆国の世論が一気に過熱し、米側は共同調査の提案を拒否し、単独での引き揚げ調査を主張。
だが沈没した海域はあくまでも大日本帝国の主張する漁業管轄水域内にあり、
日本側は難色を示すと共に共同調査が拒否された場合、単独での引き揚げを実施する旨を通告。
これを米側は管轄権を楯に事故を隠匿するものだとして、国際的に重要な航路上にある布哇諸島や中道諸島などの
太平洋島嶼群の“然るべき国家”への委任統治という事実上の割譲要求を行った。
このアメリカ合衆国の要求を大英帝国やフランス共和国、ソヴィエト連邦、ギリシャ王国などの四国同盟諸国が支持。
大日本帝国やネーデルラント連合帝国、オスマン=トルコ帝国、ペルシア帝国、ロシア帝国、
ドイツ帝国、ドナウ連邦、イタリア王国、東南アジア諸国らの大洋連合諸国が不支持と改めて旗色を明らかにし、
大洋連合と四国同盟の対立はついに決定的なものとなった。
こうした情勢を受け、アメリカ合衆国は国内世論の加熱からこれ以上のタイミングは望めないとして、
かねてより“レインボープラン”として、ビンソンプランや四国同盟全体の軍事力の整備が完遂された後の1941年末に
大洋連合諸国と開戦する計画を一年、前倒しすることを決定。
これは秘密裏のうちに四国同盟主要国に通達され、開戦にあたっては出来る限り足並みを揃えたとされる。
1940年7月2日、“レインボープラン”の前倒しを受け、時の大統領であったフランクリン=デラノ=ルーズベルトと
フランク=ノックス米海軍長官、及びハロルド=スターク米海軍作戦部長は開戦の際に
アメリカ合衆国海軍太平洋艦隊による“ヤーネルアンサー”に基づいた真珠湾攻撃の実施を許可した。
その必要な戦力を捻出するために、建造後にロンドン海軍軍縮条約に基づく五年間の売却猶予保管中としていた
艦艇群の再戦力化や大西洋艦隊からの回航が実施され、太平洋艦隊は開戦までの半年の間に大きく膨れ上がった。
しかしながら、作戦の総責任者である太平洋艦隊司令長官として最も適しているとされたヤーネル海軍大将は
折り悪くも前年に海軍の退役者リスト入りしており、その後にアメリカ合衆国で退役した旧式戦艦や中小艦艇が
提供される形で再編中であったソヴィエト連邦海軍にアドバイザーとして出向していた。
ここでヤーネルを呼び戻すのは不自然が過ぎるとして、その薫陶を受けていたチェスター=ニミッツ海軍少将が
代わりとして太平洋艦隊司令長官に着任することが有力視されていたが、ルーズベルト大統領の鶴の一声によって
彼の懐刀と目されていたハズバンド=キンメル海軍少将が大将に昇格の上で着任する運びとなった。
これはルーズベルトの強引な縁故人事の典型例とされ、キンメル海軍少将自身この決定には驚いたとされる。
※3 : 戦後の引き揚げ調査の結果、被雷の形跡が見当たらず、爆発も内側より生じた形跡があったために
沈没はアメリカ合衆国による自作自演とする意見も根強く残ったが、最新の研究では同船に用いられていた
低級鋼を原因とする脆性破壊が生じ、その破断箇所から流れ込んだ海水によって
機関部が浸水したことで水蒸気爆発が生じた、という意図せぬ事故であったとする見方が主流となっている。
818: ぼのぼの :2017/10/21(土) 13:37:16
1-6.攻撃の準備
真珠湾攻撃の正式な許可が降り、アメリカ合衆国海軍はその準備をさらに加速させていった。
航空攻撃に参加する艦載機搭乗員の練成は、ミシガン湖上に編成された五大湖特別練習艦隊に属する
特務航空母艦<ウルヴァリン>及び<セーブル>、<アーマイン>、<ウィーゼル>での習熟訓練の後に
メイン州キャスコ湾、ノースカロライナ州アルベマール湾、フロリダ州からテキサス州に掛けてのメキシコ湾、
そしてカリフォルニア州チャンネル諸島近海での実戦演習を繰り返す二段階方式が採られた。
従来の訓練は各艦載機の所属艦や基地ごとに実施されていたが、今回の真珠湾攻撃に向けた訓練では
編成される予定の任務部隊ごとに機種別の航空集団を設け、実戦における空中指揮系統を再現。
実戦に近い航空指揮下での演習を繰り返すことで、作戦能力の向上が図られた。
真珠湾攻撃にあたって太平洋艦隊は三方向からの同時進攻を行うべく、五個任務部隊を編成することが決定。
そのうち三個任務部隊が<ヨークタウン>級航空母艦を中核とする空母機動部隊であった。
加えて残る水上打撃部隊や揚陸部隊に対しても艦隊直援や航空支援を目的に改造空母や護衛空母の配置が決まり、
投入される五個任務部隊全体での作戦機総数は2000機を超えると試算された。
これら航空母艦群からの作戦機発進は、大統領による“武力行使通告”の時刻に合わせて一斉に行う計画であったが、
異なる三方向からの同時攻撃とする関係上、連携を維持するために相互間の完全な無線封止は不可能であった。
そのため、攻撃直前までの無線使用については厳密な使用規定を定めた上で
暗号による商船無線偽装と利用時間と回数の徹底的な削減という形で調整が図られている。
こうした艦隊間の連絡を担う優秀な通信士と暗号員は、海軍全体から選抜、太平洋艦隊への転属が行われた。
そして実際に攻撃部隊を構成する艦載機群について、艦上戦闘機は1月に実戦配備が開始されたばかりの
ブリュースターF2A<バッファロー>(※4)とされ、1939年までのアメリカ合衆国海軍主力艦上戦闘機であった
グラマンF3F<フライングバレル>は極少数の護衛空母の飛行隊にその姿を残すのみとなっていた。
またF2Aと対となる主力の艦上爆撃機として、ダグラスSBD<ドーントレス>が多数配備されていた。
これは浅深度に対応した航空魚雷と新型艦上雷撃機の開発が難航する中で、新たな対艦攻撃手段が求められた際に
偶然発見された“スキップボミング”に大きな期待が寄せられていたためである。
最終的に浅深度用航空魚雷の開発は間に合ったものの、望まれた新型のヴォートTBU<シーウルフ>はわずかに
12機が間に合った(※5)に留まり、グラマンTBF<アヴェンジャー>に至っては初飛行直後(※6)という有様だった。
それ故に実際に配備できた艦上雷撃機はほぼ全てが応急的に航続距離延長が図られただけの
低速なダグラスTBD<デヴァステーター>であり、先述したSBDと比較すると性能は見劣りしていた。
そこで三個任務部隊の攻撃部隊はF2AとSBDが過半数を担うこととなり、残るTBD及びTBUについては
“スキップボミング”による攻撃では効果が薄いと懸念されていた装甲の厚い戦艦を主目標とすることが取り決められた。
※4 : 開発元はブリュースター社であったが工場の生産能力が低かったことから実際に艦隊へ配備された機体の
ほとんどは委託製造を命じられ、昼夜を押して製造を行ったゼネラルモータース社製のFM1であったとされる。
※5 : TBUについても開発元のヴォート社の工場の生産能力が低かったために
コンソリーテッド(後にコンベア)社にも委託製造が命じられ、TBYとして生産が開始された直後だった。
※6 : 当時、グラマン社はF2Aの後継機ことXF4F-2の開発が優先されており、TBFの開発は遅延気味であった。
819: ぼのぼの :2017/10/21(土) 13:38:14
1940年11月から12月に掛け、演習を繰り返していた各部隊の集結と移動が行われた。
まず先んじて、<ヨークタウン>以下航空母艦14隻、<サラトガ>以下巡洋戦艦6隻を中核に構成された
第三八任務部隊と第三九任務部隊が演習を名目にパナマへと集結し、進発。
続けてサンディエゴに<ミシガン>以下戦艦10隻と<イーグル>以下商船改造空母5隻が中核の第五五任務部隊と
<エンタープライズ>以下航空母艦6隻、<レキシントン>と<コンステレーション>の巡洋戦艦2隻を中核とする
第五八任務部隊が集結し、サンフランシスコ沿岸までの偽装航路を取った上で反転して布哇諸島を目指した。
同様にサンフランシスコに集結していた揚陸部隊である第三七任務部隊は同地で第一水陸両用軍団を搭載し、
第五五、第五八任務部隊をやや後方から追うような形の航路を採り、布哇諸島を目指して進発した。
ここに至り、アメリカ合衆国海軍太平洋艦隊は大統領による“武力行使通告”を待つばかりとなった。
なお当時のアメリカ合衆国では憲法の規定として宣戦布告には議会の承認が不可欠であったが、
先立つ1940年7月、タンカー<スケネクタディー>の沈没から間もなく加熱した国内世論の一時沈静化を目的に
アメリカ合衆国の資産である沈没した<スケネクタディー>の船体を巡って、
アメリカ合衆国は資産保護に必要とされる全ての行動を行う旨の宣言決議を上下両院の賛成多数で採択していた。
これが議会による事実上の宣戦布告の認可だとし、ルーズベルト大統領は“武力行使通告”の際にこれを用いている。
1-7.別働部隊による陽動
これほどの大艦隊の集結と移動を完全に隠匿するのは不可能であった。
そこでアメリカ合衆国軍は事前に新須賀方面、及び蘭領外南洋島嶼群方面公海上での偵察活動を活発化させた。
太平洋艦隊の潜水艦と陸海軍の長距離偵察機を用いたこれらの偵察活動は実際の偵察も兼ねていたが、
それ以上に陽動としての側面が強く、隠密性は重要視されず、日蘭の哨戒部隊に発見される事例もあった。
特に新須賀方面は力が入れられており、当時の大日本帝国海軍の記録では1940年7月以降に
新須賀方面での米潜水艦と航空機の行動が活発になっていく様が鮮明に残されている。
こうした動きに対し、大日本帝国は布哇諸島に配備していた三個警備戦隊のうち、
二個警備戦隊を北方哨戒に割いて重点的に対応することとなり、それによって生じるとされた警戒網の穴は
布哇鎮守府所属の基地航空隊と潜水艦の拡充によって埋める方針が採られた。
しかしながら、布哇諸島が誇っていた二重三重の警戒網が一時的に歪んだという事実は避けられず、
結果としてアメリカ合衆国太平洋艦隊の布哇諸島近海への接近を許すこととなった。
またこうした動きへの対応が求められたのはネーデルラント連合帝国も同様であり、
開戦の直前に第一東洋艦隊の布哇諸島への派遣が決まった際には、蘭領外南洋島嶼群方面に対する
同時攻撃の可能性を捨てきれず、布哇諸島に対する直線航路ではなく蘭領タヒチを経由する航路が選ばれた。
その結果、第一東洋艦隊はアメリカ合衆国軍による真珠湾攻撃に間に合うことは叶わず、
日蘭同盟に基づく敵性国家への軍事的報復を目的としたパナマ運河強襲へと作戦を変更している。
820: ぼのぼの :2017/10/21(土) 13:39:22
1-8.攻撃直前の布哇諸島
開戦の気配が高まりつつあったことは大日本帝国側も承知していた。
事故が生じた6月17日以降、アメリカ合衆国と大日本帝国の外交関係は加速度的に悪化しており、
7月2日には<スケネクタディー>を巡る資産保護宣言決議がアメリカ合衆国上下両院で採択された上に
その後も国内世論の加熱によって身の安全を保障できないという名目の下、アメリカ合衆国領域からの
大日本帝国国籍保持者の国外退去(※7)が勧告。さらには在米日本企業支社の閉鎖が相次いでいた。
加えて現地に残る帝国情報総局の要員からは保管されていた艦艇の移動が報告されており、
日米の開戦は最早避けられないのではないか、という認識が広まっていた。
しかしながら、どのような形での開戦となるかは読み切れておらず、加えて太平洋各地や米領チャイナで
同時に活発化したアメリカ合衆国軍の動きがその読み難さに拍車を掛けていた。
そのために対応はやや泥縄式であり、1940年9月に室蘭鎮守府所属の大日本帝国海軍第五艦隊の一部を
新須賀の錨要港部に前進配備することを決めたのを皮切りに、10月に錨要港部と布哇鎮守府の基地航空隊を増強。
11月半ば、布哇鎮守府の同海軍第七艦隊の戦力増強を決定。12月初めには第七艦隊固有の増強戦力に加え、
古賀峯一海軍中将率いる最精鋭、第一艦隊の布哇諸島への前進配備を追加決定している。
これらの戦力増強を受け入れる布哇鎮守府側も従来業務と並行してその対応に追われることとなり、
当時の真珠湾における最高責任者であった布哇鎮守府司令長官の近藤信竹海軍中将はその際の忙しさを、
正に殺人的という一言で端的に表現している。
また受け入れる艦隊の停泊地点を設けるために真珠湾内も大分混雑していたとされ、
攻撃を受ける直前の12月30日に偶然寄港し、その後の攻撃に巻き込まれて済し崩しで海戦に参加した
蘭第二東洋艦隊所属のR級駆逐艦<ロース>及び<ロバイン>の乗組員は、
湾内はまるで特売日のスパー(※8)の駐車場のようだった、と日誌に記している。
そして12月29日、布哇鎮守府では連日の激務の対価に大晦日と元日を休息日とし、
一日ずつの交代で艦隊将兵の半舷上陸を実施する許可を行った。
尤も近藤中将以下の布哇鎮守府首脳部は通常通り業務を行っており、第七艦隊についても司令長官である
小松輝久海軍中将以下の艦隊司令部もまた残務処理を理由に旗艦の戦艦<長門>内に留まっていた。
それを聞き付けた各将兵も、小松(近藤)長官が働いておられるのに我々が休んではいられないとして、
年末年始という状況にも関わらず、将兵の八割が所属艦に自主的に留まることを選択し、
残る二割も一時間以内には所属艦に乗り組める位置で過ごすという事態を生んだ。
これに対し、小松中将は休むべき時に休まずにしてどうするのだと自らを棚に上げて苦言を呈したとされるが、
急遽年越し蕎麦を各艦に手配したとされ、内心では将兵への感謝を滲ませていたとされる。
結果論ではあるが、この艦隊将兵の自主的な残留が攻撃直後における第七艦隊の迅速な行動を可能にしたのだった。
※7 : 当初は大日本帝国のみを対象としていたが、間もなくネーデルラント連合帝国を含む大洋連合諸国へと拡大。
この方針がアメリカ合衆国経済に及ぼした影響は大きく、生じた失業者は相次いで連邦軍に吸収された。
※8 : ネーデルラント連合帝国、ひいては世界最大手の食品小売チェーン。
“スパーマークト”と呼ばれる近代的な小売店舗形式を生み出したことで知られる。
821: ぼのぼの :2017/10/21(土) 13:40:15
今回は以上です
日蘭世界の最初からクライマックスこと第一次布哇沖海戦を
各SSや議論を参考にしつつ、捏造多めで某ウィキペディア風に記述してみました
まだまだ続く項目はありますが、とりあえず切りの良い部分まで先んじて投稿しております
続きは出来上がり次第に……(いつ出来上がるとは言っていない)
最終更新:2017年10月26日 13:45