766: 新人艦長 :2017/11/04(土) 14:01:32
 ウクライナ語で「自由の人」、「番人」、「冒険者」、「放浪人」、「盗賊」、「傭兵」などを意味する「コザーク(綴:козак)」を語源とするコサック民族の歴史は古く、15世紀後半にはウクライナ中部の「荒野」と呼ばれる地域で発祥したとされる。
 そのルーツは現地の遊牧民の盗賊や没落した貴族などが集まってできたとされる。
 コサックは歴史に登場した頃から精強な騎兵としてヨーロッパに侵入しようとする異教徒相手に激戦を繰り広げ、次第に周辺国の庇護の元、自治権などを付与される代わりに軍事力に組み込まれていった。
 その中には帝政ロシアも含まれており隷下にはクバン、ドン、ザポロージャ、ザバイカル、シベリアなどのコサックを軍事力として組み込み騎兵部隊を作り戦争に投入していた。
 実際、日露戦争でも黒溝台会戦や奉天会戦などに参加し、旅順攻略戦のロシア側指揮官ロマン・コンドラチェンコはウクライナコサックの家系出身であった。
 ロシア革命とその後の内戦では白軍の中心をになった。ソ連の軍歌「赤軍に勝るものなし」の一説「白軍と黒い男爵が皇帝の玉座を拵えてる」の黒い男爵とはコサックの黒い軍服を着たピョートル・ウランゲーリ男爵のことである。
 内戦後コサックは白軍に味方した「反動勢力」「反革命勢力」とされ弾圧の対象とされホロドモール政策などにより人口の約70%にあたる308万人が殺害、処刑、流刑にされた。
 そのためナチスがソ連に侵攻した時、ナチスに積極的に協力したのは自然な流れであった。


「故郷が遠いな。」
 そう悲しそうに呟くのは隷下の一個連隊を丸ごと率いてドイツ軍に投降しそこで初のコサック部隊を創設したイワン・コノノフ中佐。その人であった。
 彼らコサックの多くはスターリン、そしてソ連を倒すためにドイツ軍に協力していた。
 だが43年に彼らはユーゴスラビアに送られそこでパルチザン相手に犠牲の多い戦いを行っていた。
 44年の7月になると急激に流れが変わり東部戦線などでドイツ軍が撤退し始めたのだ。
 彼らのいたユーゴも同様に9月に入ると撤退を開始、現在11月にはクロアチア国境まで30キロのところまで来ていた。
 この動きはコサックたちにとっては何を意味するか?それはドイツの敗北、そして自分たちがシベリアに消えるということである。そのためコサックたちの士気は高いとは言えなかった。
 それでも部隊の統制が取れていたのはひとえに第15コサック軍団軍団長ヘルムート・フォン・パンヴィッツ少将の人望の賜物であった。

 コサックを初めとする外国人部隊の多くはドイツが負けつつあるという現実を受け二通りに分かれた。
 一つがドイツが負け、自分たちが祖国に送り返されそこで売国奴として処刑されるという現実におびえ士気がどん底まで落ちるという状況。
 もう一つがどうせならこのままドイツとともに死んでやるという決心をし、士気が上がるという状況。



 最終的にドイツ軍に従軍した外国人の多くは戦後祖国に送り返されそこで”利敵行為”を働いたとして処刑されるなどした。
 ただ彼らコサックはついていた。彼らは終戦後クロアチアを解放した英軍に降伏。そこでソ連に引き渡されるはずが極東の同盟国が爆発させた情報爆弾により米英の対ソ関係は悪化。そのためスターリンが求めた「ドイツ軍に従軍した売国奴と戦犯の引き渡し」を拒否。そのためドイツ軍に従軍したロシア人などはソ連に引き渡されず希望する者は政治的亡命者として受け入れたのだった。

 ドイツ軍に従軍したコサックとその家族は戦後英国に亡命。その後多くはカナダに移住。
 20××年現在カナダ中部のウィニペグには世界最大のコサックコミュニティーが存在する。
 ウィニペグのコサックミュージアムの前には第二次世界大戦とその後の弾圧で死んだすべてのコサックを記念してコサックとドイツ軍人の銅像が建てられている。この銅像は現在世界で唯一の二次大戦時のドイツ軍人の銅像である。

767: 新人艦長 :2017/11/04(土) 14:07:32
コサックネタは完全な趣味です。はい。コサックという歴史と伝統と格式のある民族を救いたかった。反省はしてない。
ついでにユーゴ方面ネタと外人部隊から見た最後の年を
最終更新:2017年11月05日 12:45