751: 弥次郎 :2017/11/07(火) 18:10:12
「戦争が終わってから、我々はようやくここにたどり着いた。
 だが、日本とフランスの後塵を拝するのはいつまで続くのだろうな……」

        • 西暦1922年某月某日 ロック・アイランド造兵廠にて試作中の戦車を見てジョン・パーシング


「俺達はいつになったら帰れるんだよ!ママが風邪を引いたって手紙が来ているんだ!
 一人暮らしだからいつまで持つのかわからないんだぞ!」

      • AEFのとあるアメリカ兵


「ピクニック気取りで欧州に上がり込んでおいて、疫病を持ち込んだ挙句に無駄飯を喰らって帰るのか」

      • アメリカ軍を罵倒してイギリス兵


「確かに歩兵には脅威だろうな。だが、同じようなものを投じていたドイツ野郎が一方的に負けた奴ら(日仏)に勝てるのか…?」

      • 麾下に割り当てられた戦車隊の動きを見てジョージ・パットン大尉




日仏ゲート世界 War After War5 -After the Funeral-





アメリカ外征軍(AEF)。
第一次世界大戦時に、アメリカからヨーロッパへと赴いた派遣軍である。
欧州戦線に投入する計画では総勢50万人とされるその大規模な派遣軍は、しかし、戦闘経験が乏しいままに終戦を迎えた。実際に欧州に到着し、最初の小規模な小競り合いを除けば戦闘を後方でも経験したのは、50万人という大軍の中でもその半数以下、およそ10万人から15万人前後。後方での輸送や受け入れ態勢の構築など、戦闘行為に直接加わらなかった分のAEFの兵士を含めても25万に届かないとされる。勿論、第二陣としてニューヨークなどで待機している分もいたのであるが、最前線で経験したと、少なくともドイツ軍と戦闘したのはその程度であった。
意気揚々と欧州に上陸し、いざというときに風邪に飲み込まれてしまったのだから仕方がないといえば仕方がないといえばその通り。
ようやく出番であると欧州に上陸したイギリス陸軍も存在したことで、実際の戦争を経験できたのは少なかった。

一方で、アメリカ軍の被害は戦闘経験者に対して膨大なものとなった。
何しろ後方で、ニューヨーク港などで欧州まで出発するのを今か今かと待機していた兵士達の間にも感染が確認され、混乱の内に命を落とした兵士が多かったのだ。これは史実においてはあり得なかった、少なくとも対策が出来たミスであった。
つまり、風邪への備えを実行することが出来ずに、結果的にはおろそかにしたのである。

まして、一種の風邪ではなく、先発のAB風邪と後発のスペイン風邪のダブルパンチ。
AB風邪に対する弱毒化のワクチンを、医療従事者に優先して配ったとはいえ配れていた日仏でさえももろに浴びたそれを、アメリカ合衆国陸軍はイギリス陸軍共々味わう羽目になったのである。

752: 弥次郎 :2017/11/07(火) 18:11:03

よって、二つの風邪の罹患者は、その疑いがあるものを含め、AEF内だけでも7万人を超えるレベルであった。
さらにドイツ軍の攻勢で最低でも5万人以上は負傷乃至戦死していることを考慮すれば、負傷者が罹患者を兼ねるとはいえ、その半数が行動を制限せざるをえず、組織だった軍事行動を行うのに支障をきたす「損耗」となった。

それでも統制を、停戦という比較的安息状態でありながらも、失われかけたそれを立て直せたのは、比較的後方のアントワープにいたジョン・パーシング大将が独断で全軍の掌握に努め、同時にイギリス軍との連携を即座に取ったことに由来していた。
余談では前線に近い位置にいたコーンパイプが似合う准将閣下が、彼が引き連れていた彼のお気に入りの部下と共に二つの風邪の歓迎で文字通り地獄を見たのであるが、それはここでは些細な話である。

とはいえ、AEFの兵士たちが必死になって疫病と戦おうとも、それは栄光なき戦いであった。
彼等の、アメリカ軍のしでかした欧州での汚名をそそぐには足りなかった。

欧州の陸戦において敗北。
病による統制の一時的な崩壊。
その病を避けられず、また統制を個人の技量に依らねば立て直せなかった未熟さ。
積み上がった損耗と膨大な死者、罹患者、そして失われた多数の物資と武器弾薬。
こうして、アメリカ合衆国の派遣したAEFの戦いはあまりにもあっけなく、そして凄惨な結末を迎えたのである。

さらに悲惨だったのは、戦争の終結後の彼らの扱いであった。
風邪の感染拡大を阻止するため、AEFは大日本帝国派仏軍共々、欧州に留め置かれねばならなかったのである。
彼等は祖国に帰れなかった。戦場に行ったジョニーは負傷しながらも戻ることが出来たが、彼らは戻ることを許されなかったのである。

この世で最も地獄に近いとされた欧州の戦場に、二つの疫病が渦巻く地域に留め置かれる。
危険性を理解できないものはほとんどいなかった。兵士達は当然のことながら混乱や恐怖に苛まれ、一部では「戦後の負傷者」まで生み出す事態となった。
一体なぜ?仮にも軍人だというのに。
それはある種の楽観があった。彼等は半年か1年もあれば凱旋できると楽観視していた。
アメリカの抱いていた、そして少なからずイギリスも抱いていた幻想といったも良い。
これでようやく終わらせることができるという儚い希望でもあった。
半年か一年で終わると思っていたが、実際には半年が一年となり、一年は二年となる。
その間に朋輩たちが風邪に襲われて次々と命を落とし、あるいは立ち上がることさえできなくなっていく。
混乱するなという方が厳しいだろう。
なにしろ、敵兵などと違って、疫病は目に見えない。いつの間にか無情にも兵士の体を蝕んでいることもある。
その症状がいつ出るのだろうかという不安を煽った。そこに無知も加われば、兵士たちの混乱は落ち着くまでにかなりの時間を要した。

拍車をかけたのが、欧州の人々の敵意の視線である。
疫病を持ってきたという疑惑があるアメリカ軍を相手にして愛想よく振る舞うなどできるはずもない。
厄介者扱いされた彼らは無意味に時間が過ぎ、疫病が通り過ぎるまで待たねばならなかった。
勿論、戦争の被害からの復興であるとか疫病拡大を阻止する労働力として働くことも許されていたが、他国の人々からの視線の冷たさに耐えきれなくなる兵士が多数出た。中には現地住人との諍いにまで発展するケースもあったほどだ。

ウィルソン大統領が弾劾を喰らうのはもはや避け得ないとの公算も高まっていた。
1921年までの任期を待たずして、という懸念の声さえも上がっている。
彼の属する民主党内部でさえも、言ってみれば彼の切り捨てによって失点を補うべきであると公然と囁かれていたほど。
それで不利に終わった条約が覆るわけでも、総力戦で消費された「総て」が帰ってくるわけでもない。
ただ、国民は行き場のない怒りをぶつける標的を求めたのだ。さながら、怒れる神にささげられる羊の如く。

そして、この補填に追われたのが派遣を決定した合衆国と、派遣された陸軍であった。
ニンフェンブルク条約においてAB風邪の対策費の供出がドイツに課されたとなったことで、一応の戦勝国は殆ど賠償金による補てんが出来なかった。

753: 弥次郎 :2017/11/07(火) 18:12:07

しかし、それでも。それでも軍は必死に生き残り、進化した、あるいは新しく生まれた兵器の研究を続けた。
彼等は国防を仕事とする軍人なのだ。それが途方もない額の予算と手間を必要としたにもかかわらず。
非難を受けることも当然であるし、言われない噂を立てられるのも

ジョン・パーシングはこの戦間期をアメリカ陸軍の質的向上と拙い練度・連携・非常時への対応力の向上に費やすこととなる。
これまで、アメリカ陸軍はモンロー主義という閉鎖的な環境に甘え、すっかり牙を鈍らせていたと判断されたのである。
考えてみれば、日仏英土波などはクリミア戦争という大戦争を経験し、日仏はさらに日清・日露戦争と近代戦を重ねて経験している。
アメリカ軍はどうかといえば、強敵とぶつかることはなかった。治安維持や暴動への出動、そして時に発生する武装蜂起への対処。
それらは総じて戦争というよりは低脅威戦争というべきもの。キューバを米西戦争時に得た際に戦闘が起こったが、高々一度の戦争に過ぎない。積み重ねというものが、あまりにも違い過ぎた。

アメリカ軍はAEFの得た貴重な戦訓の分析と反映、さらに戦争経験豊富なイギリスとの軍事交流を推進。
これは陸軍と海軍の隔てなく、近代・現代戦のノウハウと必要となる後方支援体制の構築に追われた。
強烈なトラウマを抱いたのは軍も政府も、そして財界や軍需産業、さらに疫病という観点で言えば戦後不景気を生き残った医療関係者などなど。混乱する国民をなだめながらも、彼らは涙をこらえて動き続けていた。
国に殉じた若人たちの葬儀が終わっても、悲嘆にくれている暇などないのだ。
少なくともここで手間を惜しめば、次の世界大戦においてアメリカは弱小な軍という汚名を晴らすこともできずに終わる。
軍の汚名は、ひいてはアメリカ合衆国という国の汚名にもなるのだ。国を守れずして何が軍隊か。何が合衆国国民か。

しかし、道は平たんなどではなかった。
彼等の思いとは裏腹にアメリカの混乱はかなり深かった。

疫病の発生に端を発し、講和会議でのウィルソン大統領の失策による賠償の限定化、欧州における戦争による特需の消滅などが、アメリカの経済や情勢を大きく狂わせる原因となっていたのだ。疫病による交易の停滞は株式市場に悪影響を与え、資金繰りに行き詰った会社が次々と自社の存続のために解雇や事業規模の縮小を進め、銀行は融資に積極さを見せなくなる。
中南米を経済圏に組み込んだことで流入していた低賃金労働者たちの待遇は、自国民を優先せざるを得ない企業から給与のカットやリストラなどを受けざるを得ない羽目となり、そこからストライキやデモ、そして暴動にまで発展していく。
いや、中南米系に限ることはない。誰もが等しく仕事を失っていくのである。
そんな極限状態だからこそ、アメリカの根底、あるいは本音が漏れ出てきたのか、人種による扱いの差などが生まれる。
あるいは、特定の人種を狙った犯罪が勃発する。それは警察や時には軍が出動するような大規模なものから、日常における些細な口喧嘩まで。先行きの見えない、まるでこの世の終わりのような暗闇は、楽観にあふれていたアメリカを容易く飲み込んだのだ。
こうして、アメリカは「狂騒の20年代」と呼ばれる、あらゆるものが大転換する時代を迎えることとなるのであった。

754: 弥次郎 :2017/11/07(火) 18:13:19
以上、wiki転載はご自由に。
1920年代はアメリカの黄金期の一つ。
あらゆる文化・技術が花開き、現在に近いアメリカの形成された期間です。
まあ、この世界線においては余裕が乏しいことこの上なしですがね…

アメリカは特はしなかったかもしれない。
けれど、アメリカのために動こうとする人たちが現れた。
アメリカという国家の歩みを止めてはならないという意識が生まれた。
それを収穫と呼ぶのは贅沢でしょうか?

同じような話になっているなぁと思いつつも、これが日仏世界のWW1直後だから仕方がないかなと思い、
でも飽きがないような物語を書いていきたい。悩みどころですね・・・

次はオスマン帝国で、少しでも明るい話を書ければなと思います。
主に宗教関連で地雷を踏み抜かないように注意せねば。

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最終更新:2017年11月11日 10:25