526: 弥次郎 :2017/12/13(水) 22:25:59

日仏ゲート世界 日仏世界の水事情2 - Les-Bains -





さて、このアンリ4世の発した上下水道の整備命令は、発布に至るまでにいくつかの要因が絡んでいたとされるのが定説である。

まず一つ目に、日本から輸入される水による水を扱う商売におけるブームの過熱への懸念があった。
輸入されるにあたって織田幕府はフランス側に対してかなり気を使い、密輸出の阻止のために幕府公認の容器の設定や価格の統制を行った。
それでもなお、美しさや快適さを求める人々のニーズ、あるいは欲望はかなり白熱した。
なまじ、少し手を伸ばせば届くもの、となったことで広まりやすくなったのだ。

勿論フランスのもともと存在する水源にも着目は集まっているが、量にはやはり限度がある。
水源から各地に供給する方法についても乏しく、そもそも湿潤且つ降雨の多い日本大陸と欧州のフランスでは供給できる量に差がある。

二つ目には、早くも日本側に欧州から渡ったと思われる病気の罹患者が確認されたことである。
ゲートを通じての行き来の際には荷物はもちろんのこと通行する人間の衣類や頭髪も含めて徹底した洗浄を行い、防疫にかなりの労力を割いていたのであるが、やはり少なくはない罹患者が現れた。
元より完全に遮断は難しいとは理解していたが、それまでできていた対策ではまだまだ不足だと宣告されたのである。
よって、水際での防御だけでなく、フランス側でもより大規模な対策を打つべきとの声があった。

三つ目に、長らく続いた戦争からの復興期が終わりに近づきつつあったことで機を逃しかねない状況だったことである。
さしものアンリ4世も、それだけの工事を行うための費用をポンと出せるわけがない。だからこそ、戦争からの復興期という予算を吐き出させやすい時期に着目していた。

おまけにであるが、フランス側と日本側の間に見識の差や技術の差が存在したことが、主にフランス側の焦りを生んでいたのである。400年分の知見と経験と知識を持つ部分的に有している夢幻衆が広めていた日本大陸と、未だに時代相応のレベルにあるフランスを比較するのはフェアとは言えないが、要するに結果が全てである。負けてはいられないのだから、そういった技術開発に進むべきとの声が高まった。

まあ、そんなわけもあって始まった上下水道整備計画だが、やはり優先されたのは下水であった。
オルレアンの一角を実験台とした下水道の敷設は、1603年に開始がなされた。
流石にナポレオン三世のように全ての街を立て直してなどできはしなかったが、真剣に検討が始まったのである。
フランス全土へと広まるのはもっと時代を下ってからのこととなるのだが、その始まりはこのアンリ4世の時代となったのである。

さらに下水道の敷設が始まっただけでなく、汚物回収担当者が家々を回るようになったのも特徴だった。
汲み取り式のトイレや大鋸屑などを便槽に入れたバイオトイレの導入、そしてそれらを回収して適切に処理することで、窓から捨てられていた汚物が街を汚さないようにし、尚且つ、汚物を経由して広まる疫病を封じ込めたのだ。
流石に堆肥としての利用は懸念があったが、少なくとも異臭を少なくまとめておけるというのは利点だったし、道路にぶちまけるよりかはいくらかはマシであった。

後のことであるが、この回収された糞尿は硝石丘法への利用も始まった。
日本大陸から伝えられたのも、この手法を餌にしてでも改善をしてもらうためであった。

加えて、水をめぐる動きはさらに並行して起こることになる。
史実においてアンリ4世は1605年に温泉鉱泉監督官制度というものを定めた。
元々フランスはガリア地方としてローマ帝国の支配下にあり、それ故に温泉設備が各地に設けられた。
温泉が湧く地域に「〇〇=レ=バン」という地名があるのも、「レ=バン」が浴場を意味することに由来したほどだ。
そしてこの制度は、上層階級をはじめとしたフランス国民に対して入浴という娯楽を提供し始める端緒となったのである。

この日本大陸とフランス王国がつながった世界においても、それは発布された。
フランス各地の温泉の源泉に王立アカデミーの監督官が派遣され、水質が調査され、どのような物であるかの把握に努めた。
そしてこの監督官は、各地の水事情についての、ついでに言えば環境についての調査官も兼ねていたのが特徴だった。

527: 弥次郎 :2017/12/13(水) 22:26:51

オルレアンとパリについては、状況把握については問題がない。
かたやゲートの発生した都市であり、かたやフランス王国の中心である。
だが、それ以外は?その実態調査を行わねばならなかった。
オルレアンやパリだけを改めればよいというわけではない。各地の最低限でも主要都市では状況を変えねばならないのだ。
今後の、ゲートを通じての取引はオルレアンが中継点となりフランス各地と日本を結ぶことになる。
必然的に、フランスというものが推し量られることとなると踏んでいたのだ。

聞けば、嘗て欧州を飲み込んだ疫病はそういった汚物に塗れた、清潔ではない環境において流行したという。
その時と同じ状況が残っているならば、何時同じような大流行が起こってもおかしくない。
少なくとも、織田幕府から証拠として示された幾多の書籍はそのように語っていた。
もし正しければ、これを広めることによってフランスを守ることができる。
正しくなければ……あまり考えたくはないが、効果的でなかった場合には、再び苦しめられることになるだろう。

だが、それでも。それでも、国を守るために何かできるならば。ある意味の賭けである。
疫病が広まれば、苦しむのは民草であり、巡り巡って国家そのものが疲弊し、苦しむことになるのだ。
結果的にアンリ4世はその賭けに勝つことが出来た。
清潔さを確保・維持していくことで目に見えて病気にかかる人間が減ったのである。
この法の発布の影響で、各地で温泉観光という新たな、俗な言い方をすれば飯の種をフランスは手にすることとなった。
フランスの温泉地においては、比較的硬度の低い軟水が手に入りやすいということも、輸入された水が得にくいオルレアンから見て遠隔地の人々に受けたのである。

古来から美容というものを無縁にできた女性は存在せず、社交というものから逃れられた貴族階級はいなかった。
事実軟水の風呂に入るということは美容に効果があり、それを目当てに上流階級の人々が集まれば、そこは当然のように社交の場となっていくのである。これは史実においても起こったことだ。

さらに庶民にも伝染病対策という名目もあって、入浴というものが広まったのである。
少なくとも、清潔さを保てば、自分自身の体や周囲を清潔にすれば疫病を遠ざけられる。
宗教や民間伝承によるまじないの類ではなく、科学や研究に基づいた極めて客観的なものだった。
史実においても貧者救済の一環としてこういった温泉の開放などが行われたこともあり、時間を要したものの、フランスに習慣として「体を洗う」というものを根付かせることに成功したのである。

これを支えたのも、やはり日本大陸との交易であった。
公共浴場の維持でかなりの苦労をしたのがテルマエを有していたローマ帝国なのであるが、その中でも風呂を沸かすための燃料にはかなり苦労していた。というのも、基本的に燃料となるのは木材であり、これは燃やしてしまえばもはや燃料としては使えない。灰は灰で使い道はあるが、結局は一回きりである。
欧州においては確かに森林が広がっているところもあるが、それにも限度がある。
そこで、代替品として用いられるようになったのが、石炭である。

フランス各地はもちろんのこと、資源が豊富な日本大陸においては石炭というのは掘れば入手しやすい資源であった。
これと間伐材などによって燃料を確保できるようになったことで、ある程度の資産があれば風呂を沸かし、入浴できるようになったのである。
さながら、それはテルマエの復活、いや、それ以上なのかもしれない。
勿論、設置費用や燃料代などのこともあって、ハードルが存在したことも確かである。
しかし、一度その効果や快感が広まれば、それを追い求める動きは拡大し、止まらなくなる。
この温泉設備の開発は、同時に排水の設備を必要とするものとなり、アンリ4世の始めた下水道整備にも繋がっていくこととなる。
むしろ、都市部等よりも早くに整備が進んだとさえいえるだろう。なにしろ多くの人々がお金を落としていくのであるから。

斯くして、アンリ4世の時代から暫くして、フランスはその人口を律速する要素の一つ、即ち「病気」を大いに弱体化させることに成功したのであった。

528: 弥次郎 :2017/12/13(水) 22:27:46
以上、wiki転載はご自由に。

議論の内容を反映させつつ、書きたかったことをまとめてみました。
若干ご都合入っているような感じですが、まあ、アンリ4世が延命したことによる影響と思っていただければ…(汗
フランス王国をフランス帝国にする布石は着実にしておきたいですねぇ

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最終更新:2017年12月14日 13:58