18 :辺境人:2008/07/28(月) 19:50:26
<提督たちの憂鬱異伝「太閤殿下の憂鬱」>
天正12年(1584年) 尾張国、小牧
激しい爆発音と悲鳴、馬のいななきが遠くから響いてきた。それは鉄砲の一斉射撃とは一線を画す轟音であった。
「なにごとか!」
徳川左近衛中将家康は床机から立ち上がり、家臣に問う。その声は東海一の弓取りと呼ばれるに相応しい威圧感を持っていた。
しばしの後、じりじりとした思いで報告を待つ家康のもとに使い番の騎馬が陣に乗り込み、動揺を隠せない、だがしっかりと聞こえるよう大声で報告した。
「先鋒、お味方総崩れにございます!」
「馬鹿な、万千代(井伊直政)はどうした!」
家康の問いに使い番は泣きそうな顔と声で答えた。
「井伊様は先陣をきって敵の先陣、羽柴秀次の陣に突入されましたが敵は前列のすぐ後ろに大筒を隠しており、数十もの大筒が放たれ、見たことも聞いたこともない轟音と共に先鋒隊は吹き飛びましてございます! あれでは井伊様も……」
「なんと……」
愕然とした家康はしばらく呆然としていた。かの武田信玄に三方ヶ原の戦いで一方的に叩きのめされた時でもここまで一方的ではなかった。今度は敵と槍をまじえる前に一方的に部隊が壊滅したのだ。
「殿……! なにとぞお引きを!」
側近の声がどこか遠くからのように聞こえる。家康は退き支度をしつつ何故こうなったのかと考え続けた。全面攻勢に出た敵軍の追撃がすぐ背後に迫り銃撃をその身に受けたその時まで。
天正12年、後世、小牧の戦いと呼ばれる戦は羽柴軍の勝利に終わり、この戦いは世界初の砲撃の集中攻撃という火力攻撃のみによって歩兵部隊が全滅した例として戦史に名を残すこととなる。これは日本の歴史が大きく変わった変動の第一歩であった。
19 :辺境人:2008/07/28(月) 19:52:27
慶長5年(1600年) 大阪城。
「では会議を始める」
大阪城内にしつらえた土蔵の中。四方が石壁でつくられ忍びだろうと近侍の武士だろうと会話が聞こえないように密談をするためだけに作られた通称<密丸(ひそかまる)>の中、秀頼の言葉に同志たちは頷いた。
まだ7歳の秀頼が議長をつとめる姿は事情を知らない者が見ればシュールというか滑稽な光景であったがここにいる同志たちの間では今更なので誰も気にしていない。20世紀のように電話などの通信網や電車などの交通網が存在しないこともあって今回の会合に参加できない者も多く、それでも豊臣秀次、小早川秀秋、毛利輝元、宇喜多秀家、片桐且元、山内一豊、京極高次、織田信雄、堀秀治、大友義統、大野治長、塙団右衛門、渡辺糺といった近年では最大数のメンバーが集っていた。いずれも前世で
夢幻会のメンバーだった面子であり、秀頼が生まれる前より転生していたことである程度の史実はすでに変えられているため関ヶ原の戦いすら起きていない。
「ついに1600年……史実の関ヶ原の戦いの年になったわけだが、徳川の動きはどうだ? さすがにこの状態で関ヶ原なんざ起こせないだろうが、だからといって天下を諦めるようなタマじゃないだろうし」
秀頼の発言に、豊臣秀次が口を開く。史実では殺生関白などと呼ばれ秀吉により切腹させられた人物だが、この世界では秀頼の後見役として辣腕をふるっていた。秀吉の後継者として関白に就任していたが秀頼の前に誕生した(残念ながら夭折したが)鶴松が誕生するや即座に関白を辞任し、秀吉の弟である豊臣秀長の養子となるなど晩年になって猜疑心が強くなってきていた秀吉への処世術もそつなくこなしていた。
「兵を鍛錬しつつ色々と東国の大名に水面下で声をかけてるようだな。城下町の建設もスローペースだし、やっぱり軍事優先でやってるみたいだからかなり経済状況は厳しいと見ていいだろう。史実と違って250万石の大大名ではなく60万石程度にすぎないからな」
徳川家康はこの世界では上野半分と下野を領有する大名であった。
小牧の戦いにおいてまだ豊臣姓を名乗る前だった羽柴軍は秀次が指揮する砲兵隊の活躍によって野戦において徳川勢を壊走させた。当時の道では普請工事をしなければ大重量の大砲の輸送は難しいという悪条件の中、ならば軽い木砲で良いと木製のため威力や射程も金属製の砲より大幅に劣るとはいえ大砲を使い捨てにするという金持ちにしかできない逆転の発想により、おそらく世界初の野戦における集中砲撃(しかも幕末期レベルの球形爆裂弾)によって徳川が誇る<赤備え>こと井伊直政率いる先鋒部隊を壊滅させ、追撃戦により本多忠勝、酒井忠次など多くの重臣も討ち取られ家康も追撃により重傷を負うなど三方ヶ原以上と言われる大敗北を徳川にもたらした。さらに九鬼水軍を中核とした豊臣水軍が尾張と三河の国境で対峙していた両軍を尻目に徳川水軍を撃破して遠江に上陸、浜松城を占領され後方を遮断されることとなった徳川家は窮地に陥り、和睦をする他なかった。
講和条件は当然厳しく、甲斐、信濃、駿河を没収され三河、遠江のニカ国で55万石に押し込められることとなったのである。後に北条攻めにより東海道という交通の要衝を徳川に渡す気はなかった秀吉により上野半国と下野の二カ国に転封され65万石に加増されたが海の無い土地に移されたのは当然ながら徳川を再起させる気はないという豊臣家の意思であった。
北条攻めに際しても長期包囲戦などと悠長なことをせず、軍船と高台に築いた砲台からの集中砲撃により一ヶ月で難攻不落の名城と呼ばれた小田原城も灰燼に帰した。落城に間に合わなかった大名は容赦なく減封の対象となり、稚拙な対応をした大名は取り潰しとなった。信長ほど極端ではないにせよ、既存の勢力は可能な限り取り潰して中央集権体制を確立すべく比較的厳しくされたものの、自治権を取り上げただけで家臣団などは積極的に登用したため、牢人問題などは史実ほど問題とはなっていなかった(豊臣家の支配体制やその官僚組織に馴染めない、もしくは反発する者が主家を退転する例もそれなりに多かったが)。
20 :辺境人:2008/07/28(月) 19:53:11
「こっちの経済状況は?」
秀頼の問いに片桐且元が答えた。史実では秀頼の傅役として1万石程度の所領しか持たない立場であったが、この世界では石田三成などの吏僚派たちのリーダー的立場となり、貸借対照表などの帳簿のつけ方から書類の書式統一、一部の女性に事務仕事をさせてみるなど革新的すぎて批判も多いのだが批判すらも実績で跳ね返す能吏であった(配属された女性官吏や大奥の警備役の女性に仕事のしやすい服装をと理由をつけて作らせた逆行者たちにとってどこかで見たような袴姿(馬○道や明治風ハイカラさんスタイル)やポニーテールの推奨などファッション方面での奇行も多いが)。
「新貨幣<円>の鋳造も順調で永楽銭や南蛮人の金貨などとの交換比率も調整したし、茶や生糸、石鹸や黄燐マッチ、蝦夷の毛皮やフカヒレなどの俵物、天下統一で余った刀槍や鉄砲などとにかく売れそうな物を積極的に輸出してるから史実と違って金銀の流出も相当抑えられてるし海外貿易はなんとか黒字だ。ただ、街道整備やら港湾整備やらのインフラ関係で現地の大名に負担させてるとはいえ豊臣家の支出も相当あるからな。大規模な軍事行動はまだ勘弁して欲しいというのが正直なところだ」
「……阿片の生産に成功したと聞いたが?」
「大量生産にはまだほど遠いから商品としては有望とは言えん。とりあえず麻酔薬に使う用途以外は明と南蛮人には煙草として売りつけてるが」
あっさりとダークな発言をする且元に微妙な空気が流れたが、前世でも似たような行動をとっていたためかツッコミが入ることはなかった。朝鮮出兵がないためまだ滅亡しそうにない明や
アジア最大の西洋勢力であるスペインに阿片禍を起こす気満々な且元から全員、微妙に視線をそらしていたが。
「……あー、軍の方はどうなってる? 軍事行動を起こさないにしても装備の更新や訓練なんかはしてるんだろ?」
微妙な空気を振り払うべく話題を転換する京極高次の問いに大野治長が答える。彼は秀頼の側近として兵器や商品などの技術開発全般を受け持っていた。大阪の郊外に建設された皇国大学院という研究機関及び教育機関を統合した大学の学院長でもあり、そこでは反射炉や転炉の設計、石炭の乾留、原始的な蒸気機関からアルコール蒸留や食品開発などその受け持ち分野は広範囲に及ぶ。石高は淡路と近江一郡で国友村を支配している5万石程度の小大名ではあるが秀頼の許可を得て豊臣家の財源を使えるため、無尽蔵ともいえる開発資金を得て、かなり好き勝手していた。
「陸軍は38式歩兵銃を参考に射撃時に肩に固定しやすい銃床(ストック)にした鉄砲をメインに生産中だ。日本産の火打石だとフリントロック式の銃は難しいから雷管式が実現するまでは火縄銃でいくしかないが、着脱式の銃剣も開発しといたから乱戦に持ち込まれても一方的にやられることはないので総合戦力は上がったと思う。宝蔵院など槍術の大家を集めて銃剣術を新しく作るように言ってるしな。マスターできれば仕官できるかもってんで武者修行者が一生懸命マスターしようとしてるらしい。まぁ鉄砲は高価だから浪人が持ってるのは鉄砲の形をした木に槍の穂先をつけたようなものらしいが」
「宮本武蔵が銃剣使いになってたら笑えるな。剣豪小説が西部劇みたいな撃ち合いになったりして」
「まぁそれはないだろ。普通なら手っ取り早く剣の腕を磨いて新撰組に志願するだろうしな。まぁ吉岡一門もすでに新撰組に吸収されてるから一条下がり松みたいなことは起きないだろうが……」
京都および大阪の治安維持を目的に創設された武装警察は火消しや町奉行など治安組織を束ねる山内一豊の指揮下で軍とは別個に設立しており、夢幻会メンバーの趣味によって組織名を新撰組としていた。腕さえ確かならば流派や身分を問わずに入隊でき、史実のものほど厳しくはないが不祥事を起こしたら死罪となる局中法度により鉄の規律を持った部隊として浅葱色でダンダラ模様の隊服は頼もしくも恐れられている存在であった(一般市民相手の治安維持が主任務のため幕末の新撰組のように無法者を問答無用で切り捨てるわけではないが、戦国の気風がまだ残る時代だけに武芸者相手の捕り物も多かった)
21 :辺境人:2008/07/28(月) 19:54:43
「話を続けるぞ。大砲だが、複数の種類を別途に生産している。軍艦や城に搭載する重砲、野戦で使う軽量な野砲、城攻戦に使う臼砲、番外として花火の打ち上げ方式で発射する迫撃砲がある。筑前と陸奥の天領に作った高炉と転炉ががやっとこせ稼動したから質の言い鋼鉄の大量生産と鋳造がある程度可能になったから現在生産されてる大砲は全て鋳造砲になってる。問題は輸送力の関係で鉄鉱石や石炭の鉱山の近くに製鉄所を作らんとならんことだが……まぁ筑豊炭田のある筑前は秀秋の領地だし、鉄鉱石の豊富な陸奥の釜石は秀治、蝦夷は秀久が代官だし防衛戦力もそれなりに駐屯してるから大丈夫だとは思うが」
「秀秋と秀治はともかく蝦夷開拓の責任者にされた秀久はここ数年、蝦夷から帰ってこれてないけどね」
蝦夷の話が出ると堀秀治が溜息をつきながら話を継ぐ。蝦夷代官の一人として総責任者の仙石秀久を補佐する役割であり、普段は東北で蝦夷への物資補給や釜石製鉄所など多忙な人間であるが数年ぶりに大阪に帰ってこれた身であった。
「まぁ確かに蝦夷は大自然の脅威が主敵だから苦労は多いけどね。それでも寒いけど鮭とか蟹とかウニとか食い放題だし冬は暖房の効いた部屋でコタツに入ってぬくぬくするくらいの楽しみも一応ある。今のところアイヌの統治はまだ反乱が起きるところまではいってないしな」
蝦夷開拓は豊臣家の主導により大規模に行われていた。日本本土に近い南洋は近い分だけ利害関係が複雑であり、いまだ植民地にされていない
アメリカやオーストラリアなどは遠すぎるため、最も手近なフロンティアである蝦夷の開拓は地道に、だが大々的に行われていた。安東家や蠣崎家といったそれまで蝦夷を支配していた大名は存続は認められたものの蝦夷が豊臣家の直轄地となったことで開拓責任者である蝦夷代官に任じられた仙石秀久と堀秀治の家臣として遇されることとなり、東北や関東の大名にも賦役として開拓に人手を供出させることで開拓を進めていた。当初は夏のみ工事を行いながら港を作り、道を作り、ロシアのペチカを参考とした暖房設備を整えた建物を築き、カンジキや竹で作ったスキーや毛皮の外套などの野外装備を整え、昆布の養殖やジャガイモの栽培を指導し、羊の放牧を行い、鉱山を掘る……一つの国を一から築き上げるほど大量の事業を同時に行うその開拓規模は日本史上最大の公共事業ともいうべきものとなっていた。
「また話が脱線してるぞ。装備は分かったが軍の状況はどうだ?」
「騎兵部隊はモンゴル馬やアラブ馬を牧場を作って増やしつつ去勢やら蹄鉄やらができる職人も馬と平行して養成してるような状況だからまだ偵察に使える程度しか数がないが、それでも豊臣家の直属軍である七手衆(7個旅団)4万2千は装備の改変も完了して部隊編成も近代軍制に近い軍の階級や小隊編成などで訓練中だ。旅団長も高次、団右衛門、糺、と半分近くが夢幻会のメンバーで構成されてるし残りの旅団長も真田信繁、立花宗茂、戸田重政、大谷吉継と史実でも忠誠度の高そうな面子で構成してるから謀反を起こされる心配は低いだろう。吉継あたりは若いうちから温泉療法をすすめてるせいか病は悪化してないけどいいかげん年だから引退してもおかしくない年だけどな」
「豊臣本家以外では?」
「東国の抑えをしている秀次のところの5個旅団3万が大体同程度の編成だ。あとは秀秋の豊臣水軍が陸とは編成が違うがすでに水兵も入れて2万4千程度だな」
豊臣家は石高から見ると常備軍は比較的少なめだった。史実の関ヶ原の戦いにおける徳川家が250万石で6万近い兵を有していたのに比べると400万石以上の石高を持つ豊臣家が常備軍4万2千というのは明らかに少なめといえたが、それは鉄砲や大砲といった高価な兵器の装備比率が増えたこと、武士が官僚を兼ねる従来の体制を段階的に改革して武官と文官を分けたこと、そして公共事業による空前の好景気により働き手がいくらあっても足りないことにより牢人すら労働力として吸収したことが理由の一端であった。
とはいえ、徳川や伊達など反乱勢力予備軍の多い東国の抑えとして武蔵、相模、伊豆、下総で約100万石を有する豊臣秀次や、同様に西国の抑えとして筑前、筑後、豊後で同じく約100万石を有する小早川秀秋など豊臣家の直轄地を預かる代官に任じられた大名家もそれなりに存在するため、豊臣一族だけでも10万程度の兵を動かすことができた。
22 :辺境人:2008/07/28(月) 19:55:41
「軍船の方はどうだ?」
これには小早川秀秋が返答する。西国の抑えとして100万石を保有する大大名であり、領地内に豊臣家の天領扱いではあるが博多という日本最大の海外交易拠点の代官を兼任しているため海外交易の責任者として豊かな資金源をもって豊臣水軍の総大将となっていた。秀秋の顔は日に焼けたいかにも海の男といった風情で熱心に海軍を育てようとしているのがその顔を見ただけで分かる。前世でも海軍軍人として働いた男なだけに、現在の風任せの船乗り生活を楽しんでいるらしかった。
「ガレオン船を参考にした砲艦を8隻、史実のスクーナー船に近い帆船がすでに20隻が完成してる。スクーナー船は砲門数はガレオン船よりは少ないがこっちの方が高速で積載量も多いからガレオン船は沿岸防衛用として外洋艦隊はスクーナー船が主力になるだろうな。両方とも石炭をコークスにする乾留処理の際に取り出したタールを防腐剤として使っているからさながら黒船といったところだな」
「入れ物だけ立派でも意味がないだろう。中身はどうなんだ?」
「海軍伝習所を建てて教範を作ったりして見て盗む方式を可能な限り排除してるので少しはマシではあるが……なにせ西洋式の帆船ともなればこれまでのガレー船主体の船乗りたちにとっても未経験だからな。まぁ現状ではまだ外洋海軍まであと一歩のところまできている沿岸海軍みたいなものだと思ってくれ」
「海外に出せるのは何割くらいだ?」
「琉球やルソン程度なら先導があれば7割はいけるだろう。特に六文儀を開発して前世の海軍兵学校で仕込まれた航法技術を叩き込んでるから航海技術だけならダントツで世界一だしな。脚気や壊血病の対策の仕方も分かってるから天候に恵まれれば太平洋横断だって十分に可能だ。ただ、知っての通りこの時代の軍艦は商船との区別があまり無い。商船も武装してるのが当たり前だし、ちょっと重武装で戦闘訓練を受けてるのが軍艦、程度の違いしかない。うちの船も訓練を兼ねてルソンや蝦夷を行き来しているわけだが……それは当然のことながら普段は艦隊としては集中しておらず、分散配備が通常常態だってことだ。だから連合艦隊が戦時でないと編成されなかったのと同じで事前に計画して最低でも2ヶ月程度は準備期間が無いと艦隊として集中運用するのは難しいと思ってくれ」
「とりあえず南蛮船とも正面からやりあえる程度の質と量はあるわけか……徳川もこの状況で天下取りは難しいし傷の後遺症もあるみたいだから家康も史実ほど長生きはせんだろう。この10年はひたすら日本国内のインフラ整備やら技術開発やらで土台固めに励んできたわけだが……そろそろ海外に目を向けはじめても良い頃じゃないか?」
秀次の発言に一同は沈黙する。わざと最後にまわされていた議題はそれだけ重要なものだったのである。
ことの発端は九州に漂着したオランダ船の存在から始まった。史実でリーフデ号事件と呼ばれる船の乗員には日本に初めて来たイギリス人、ウィリアム・アダムスなど重要人物もいたがそれは現在は問題ではない。重要なのはそれがオランダ船であることであった。
「まさか朝鮮出兵が行われない影響がこんな形で出てくるとは思わんかったからなぁ……」
溜息をつく秀秋に、誰もが頷く。
23 :辺境人:2008/07/28(月) 19:56:13
朝鮮出兵がなかった影響で史実より疲弊していない明国は台湾を占領するオランダと武力衝突を起こし(裏にポルトガルの扇動があったことが後に明らかとなる)、台湾におけるオランダの拠点である安平(台南)が陥落したことでオランダの残党が近くの琉球へと落ちのびてきており、すでに明との貿易の抜け穴とするべく琉球を占領していた豊臣家と接触することとなったのである。
幸いにも海外貿易の拠点として蝦夷ほどではないにしろ大規模なインフラ整備がされつつあった琉球の最高責任者として夢幻会のメンバーである龍造寺政家が那覇に在住していたため、史実の大まかな流れを知っていたこともあって武力衝突を起こさないよう武器を取り上げたりせずに歓待するという姿勢を示したことで敗戦により気が立っていたオランダ人たちもなんとか落ち着き、比較的友好的な関係を築くことに成功する。
だが、そうなるとオランダ人たちも今後の先行きを考えはじめ、当然の流れのように豊臣家に対して台湾の奪還の援助を要請してきたのである。政家としては他国との同盟政策ともなれば自分の権限を越えた問題だとみなし、大阪へと出向くことを勧め、同時にしばらくの間、オランダ艦隊とその商人などを保護下におくことを条件に、使者を大阪に派遣するということとなったのである。
その使者をのせた船が中途半端な立場からの焦りもあって季節を待たずに出航し、史実通り台風のために九州に漂着したのは歴史の修正力だったのかもしれない。
そして政家からの便りを受けた豊臣家、というか夢幻会内部でも当然ながら意見は中々まとまらなかった。
「史実より早く台湾を失ったとはいえオランダが没落するのは史実ではまだ数十年は先のはずだ。ポルトガルの香辛料貿易を奪ったことで黄金時代を築くのがたしか17世紀のはずだが……同時にこの時期は停戦期間を挟みつつスペインと戦争を繰り返してる時期なわけで、ここでオランダと組んでスペインのアジア植民地に手を出すというのも確かに選択肢としては有りだな……グァム島を取れればルソン経由でなくても南洋、特に植民地にされる前のオーストラリアやニューギニアにも進出しやすいし。まぁマラリアなどの伝染病もあるからそううまく植民できるとは限らんけど」
「でもなぁ……琉球を隠れ蓑にした明国との貿易の利益は想像以上にでかいんだ。ここでオランダと手を組めば自動的に明を敵にまわしかねん。中華思想もあるし明とスペインが同盟を正式に結ぶとは思えんが明が没落するまではできる限り明とはうまく付き合いたいんだよね。一応、明の滅亡に備えて景徳鎮とか万暦赤絵などの美術品や貴重な文物を少しずつ日本に運び込んではいるけど、朝鮮出兵が無い影響がどうなるか読みにくいし」
「満州の女真族相手に馬や羊の代金として鉄砲や刀槍とか天下統一で余りまくった武器を積極的に売り込んでる時点で明を敵にしたくないというのも今更ではあるがな。あっちも武器輸出の影響か朝鮮出兵で遼東半島の明軍の抑えがあるのに史実並の早さで満州を統一して今じゃ下手すれば史実より早く遼東半島を落としかねない勢いだし、そのうち朝鮮半島やシベリアを経由せずに旅順あたりで直接交易できるようになるかもな」
「それでも形式的だけにしろ民間人である商人が個人として行うのと国が直接乗り出してくるのじゃレベルが違う。それにオランダと手を組んだとしても台湾がオランダ領になるのも面白くない」
「ポルトガル、というかイエズス会との関係も結構緊張状態だしな……まぁ日本人の奴隷売買を禁止するってのは当たり前だしポルトガル王が承諾してもそれにイエズス会が従わないんじゃ意味ないっつーか」
「キリシタン弾圧までいってないのが不幸中の幸いではあるが……日本を植民地にしたがってる連中は宣教師の中にも多いからな。まぁ世俗的な欲望で信仰心をドーピングして布教のためにはるばるアジアまで来たとなれば、俗物としてもかなり強烈な連中だから別に不思議な話じゃないが」
豊臣政権は日本国内において信長が行った政教分離の方針の下、宗教権力の武力保有と宗教の強制を禁じていた。キリスト教の宣教師も日本国内の布教活動は認めるが日本にいる限りは日本の法に従うことを宣誓させ、人身販売など犯罪行為を犯した者は宣教師であろうと関係なく日本国内の法に従い処罰された。
代わりに税制を若干、優遇するなどの措置をとっているものの商船が武装するのが当たり前な当時の世相としては宣教師側の反感も大きく、キリスト教の布教活動による不安定化工作の対処として問答の得意な僧侶と宣教師を討論させたり(十字軍や異端審問、魔女狩りなどあれこれ知恵を授けたことは言うまでもない)民衆の間に異人に捕まって売り飛ばされるという風説を流すなどしているため、豊臣政権と宣教師たちとの関係はあまり安定しているとは言いがたかった。
24 :辺境人:2008/07/28(月) 19:57:30
「まずまとめよう。長期的に見れば17世紀のアジアにおける勝ち組は清、そしてオランダ、イギリスなわけだ。となれば最終的には明を切り捨てるのは同意するな?」
秀次の言葉に、熱意の差はあれ一同はうなずく。
「しかし、明は地方反乱も頻発してる末期的な世情とはいえ、まだ滅亡までは時間がかかる。それに大陸に軍を派遣してもろくなことは無いのは日中戦争の経験からも明白。今の日本の人口からしてもせいぜいが台湾を奪うのが限界だし、大陸に人をやるくらいならアメリカかオーストラリアに植民した方がまだ将来性はある」
この時点で戸籍制度を導入したことにより不完全ながらも国全体の人口を把握していた夢幻会は約2千万という集計結果を見て人口増加を国策としていた。清潔な環境での出産など原始的ながら産婦人科分野の医療体制を整えた国営病院や孤児院(豊臣家のためなら命も捨てる将来の親衛隊候補や忍者などの供給源としての側面もあった)などを設立することでいまだ高かった乳幼児死亡率を低下させるなどの手を打っていた。
後世、計算されたことだが日本の国土では平野を全て耕作地にしたとしても精々が7千万程度の人口しか養えない。実際は全てを耕作地にするなど不可能なので4千万がいいところであり、史実でも江戸時代の人口は3千万未満で飢饉の度に餓死者が万単位で出たことを考えると、2千万という数は妥当な数かもしれないが、富国強兵を目指す夢幻会としてはせめて昭和初期程度の7千万は必要と考え、ジャガイモやサツマイモなどの食糧増産と合わせて新たな耕作地帯を必要としていたのである。蝦夷地も候補の一つであったが、史実での北海道開拓の犠牲者を考えるとコスト的に厳しく、必然的に二毛作や三毛作が可能な温暖な土地が求められていた。
「やはり目指すべきは南洋か……スペイン相手の戦争ともなれば敵の武装やテルシオなどの戦術、そして現地の地理情報なども徹底的に調べておかねばな」
「焦ることはない。こちらから喧嘩を売るつもりなら準備に費やす時間は十分に取れる」
結論として、豊臣家の海外政策は以下のようなものとなった。
- 明国とは少しずつ距離をおき、満州の女真族との関係を深める。女真族とは当面は羊や馬などの取引をメインにして武器輸出の経済関係にとどめるが将来的に清国となった際に朝貢国ではない対等の外交関係を結べるように時間をかけて関係を深めるべく外交交渉を行う。
- 琉球に居座るオランダ勢力には武器や弾薬、食糧などを売りつつ非公式に友好条約を結ぶが兵を出すなどの軍事オプションはまだ取らない。どうせ明も地方反乱の頻発で台湾はともかく琉球まで手をまわす余裕などないだろうし、むしろ両者の間を仲介する形で利益を得るべく働きかける。将来的にはオランダが台湾を奪還する手助けをする代わりにアジアにおける対スペイン戦の軍事同盟の密約(明への建前から日本とオランダは無関係とする)を結べればベスト。
- 宣教師は将来的にプロテスタント、つまりオランダやイギリスの新教徒を優遇するためスペイン系のイエズス会とは距離を取るが、欧州の宗教戦争を日本に持ち込ませないためイエズス会への露骨な宗教弾圧は控える(向こうが暴発するのを待って追放することも選択肢に入れておく)。
- 3年後を目処として出兵の準備を行う。出兵先は未定ではあるがとりあえずは補給線の問題から戦術的勝利が可能なスペインを仮想敵とし、南洋にあらかじめ商人たちにまぎれて忍びなどの現地に派遣している諜報者を増強、海外への派兵用の輸送船と船乗りの増強も合わせて行う。
- 蝦夷開拓と合わせてハワイやアメリカ西海岸へ探検隊を送る。将来、婚姻関係を結んだり植民を行う布石として貢物などを送り当面の友好関係を築くことを優先する。
25 :辺境人:2008/07/28(月) 19:58:22
壮大と言っていい戦略計画であった。20世紀の政治や戦争を当事者として経験した者達にとってはこれですら精緻に立案される国家戦略の叩き台でしかないと知れば徳川家康や伊達政宗といった乱世の梟雄たちですら驚愕したであろう。
「あ、そこもう焼けたぞ」
「うむ、おたふくソースが無いのはやはり厳しい……醤油と味噌をベースにしてるとはいえやはり熟成が大事か」
木炭で炙られた鉄板の上でヘラを使って小麦粉を水に溶いたものが焼かれている。豚肉、イカ、天カス、キャベツなどが混ぜられている。それは紛れも無くお好み焼きであった。
「つくづく明治や大正時代はまだマシだったんだと思うよなぁ……この時代じゃ醤油ですらまだ味噌から作ったたまり醤油しかないから一から作らせなきゃいかんし。食材にしても豚は人間の食べるもんじゃないとか悪魔の食い物扱いだしキャベツやジャガイモ、砂糖なんかも輸入して栽培するとこから始めないと駄目だっつーんだから。隠居して料理研究に余生を費やしてる今川家の氏真爺さんのところにもっと予算と人材を投入せんといかんな」
「まったくだ。漫画もない、テレビもない、せめてうまいもんでも食わなきゃやってられん」
たとえ戦国時代に飛ばされようと夢幻会の面々の中身は変わっていなかった。豚玉やイカ玉を焼きながら日本の将来に関わる重要案件はこうして方針が決まっていくことを知る者は幸いにもこの天下には存在しなかったのである。
<完>
最終更新:2012年01月19日 11:20