542: 弥次郎@外部 :2017/12/29(金) 12:25:34
「ここにイズミル=エーゲ海都市連合国の樹立を宣言する」
「時間こそ最大の武器となる」
「しかし妙なものだ。何故これだけのことを起こした?勝機は一体どこにある?全ては闇の中だ」
「これは一体どういうことか!話が違うではないか!」
「お痛が過ぎたが故に、止めた。そういうことです」
- 1921年5月12日 ギリシャにてコンスタンティノス1世とイギリス外交官の会話
「今後のオスマン周辺地域における抑止力の要として、大日本帝国はオスマン帝国に対して大型艦艇の供与を行う用意がある」
「エーゲ海の抑止力の完成の為、我々はギリシャに対して艦艇の譲渡を検討している」
「すべて世はこともなし、綺麗にケリが付いたということか…糞ッタレ」
「これで関係する地域は荒れるぞ……トルコ系とギリシャ系の対立は避け得ないな」
- 1921年6月11日 フランス帝国連邦 ロワレ県 オルレアン・ブリシー航空基地にて山本五十六および嶋田繁太郎
日仏ゲート世界 War After War7 -The Clocks-
戦後の戦争。
その最たる例として認識されるのは、この世界においては1921年に勃発した希土戦争を挙げることが多くなる。
世界全体を巻き込んだ、それこそクリミア戦争以上の国と地域を巻き込み、クリミア戦争以上のテクノロジーを投じ、それ以上の命と鉄を送り込んで、挙句に黙示録が半分ほど進む結末となった戦争。
しかし、そんな戦争を経ても、人は、戦争を望んだのである。
時に、西暦1921年3月半ば。
突如としてオスマン帝国は宣戦布告を受け、奇襲を受けた。
エーゲ海を囲うあるいは浮かぶ島々の都市、イズミル アイワルクなどにギリシャ軍が突如として上陸。
現地に点在していたギリシャ人共同体の保護を、AB風邪とスペイン風邪からの保護を名目に占拠したのである。
現地軍は宣戦布告から奇襲までがわずか数時間ということと、戦後に縮小せざるを得なかった軍備というハンデもあって、この奇襲の多くを成功させてしまう。
オスマン帝国は、これに対して寝耳に水と慌てるも、すぐさま外交ルートを通じて抗議しつつ、該当地域の奪還に向けて軍を動員し始めた。元々、メガリ・イデア(大ギリシャ主義)の盛り上がりはWW1時にかなりの盛り上がりを見せており、その熱は戦後も冷えることなく、むしろ困窮の憂さ晴らしの如く燃え上がっていた。
当然のことながらオスマン帝国はこの情報をつかんでおり、少ない予算を何とかやりくりして備えていた。
奇襲が成功した後にすぐさま奪還を行わなかったのも、むしろ特定の住人を避難させることを優先したためとも言われる。
兎も角として、ギリシャ軍はエーゲ海を囲う都市を一挙に制圧。現地のギリシャ系住人を主体とする国家の樹立を宣言した。
1921年4月1日。歴史上でももっとも性質の悪いエイプリルフールジョークとされる日の樹立宣言であった。
イズミル=エーゲ海都市連合国。それが明らかにギリシャにとっての都合が良い傀儡国家であることは明らかであった。
戦争は既に戦場での物理的なものから、会議室での外交戦争へと切り替わったのは開始から2週間と経たないうちであった。
フランス帝国連邦はすぐさまギリシャを、言外にイギリスを非難しつつギリシャへの支援の凍結を宣言。
同盟国である大日本帝国も同じく非難を行い支援を停止。さらに両国はオスマン帝国への義勇軍の派遣の用意があると発表し、すぐさま編成に取り掛かり始めた。もっとも、義勇軍とは言いつつも実体としては物理的な解決を行うための軍であった。
日仏双方はこれを最終手段である、とは公式には述べていたが、何かきっかけがあれば即動員という鼻息の荒さがあった。
こんな状況でよくも起こしてくれたなという苛立ちさえ含んでいたことを考慮すれば、ギリギリ踏みとどまったとさえいえる。
543: 弥次郎@外部 :2017/12/29(金) 12:26:31
これに対してギリシャはあくまでも両国間の問題であると反論し、介入を拒否した。
現地住人による投票結果を実施することを宣言して、WW1の決着の仕方に沿うものであるとも主張した。
このギリシャの大胆な行動は、イギリスからの軍民問わない戦後の支援の拡充があった。
元々エーゲ海を舞台として激しい争いを展開していたギリシャは、その戦力を整えるにあたって協商側であったイギリスの支援を受けていた。そのイギリスは、スエズ運河の利権をめぐり日仏土との対立にあった。
その為、横合いから首を突っ込む国は、その余裕のなさや日仏の心情を鑑みて存在していなかった。
ギリシャは強気であった。
日仏の動員も、現状では、疫病対策や各国への支援にリソースを割かれているならばというある種の楽観があった。
両国の内、国内では厭戦気分がいまだに尾を引いており、積極的な国外戦争への介入はWW1というトラウマもあって、介入推進派と介入反対派で拮抗が生まれていたのを把握していたためだった。
さらにはイギリスからの支援というのも存在していた。元よりWW1ではイギリスへの協力を対価として協商側で参戦していたことで、装備や後方支援体制はかなり充実していたのである。エーゲ海の制海権を握ることはギリシャ・イギリス双方の理にかなっており、前述のように大ギリシャ主義の点から見ても、ギリシャ系の暮らす地域が点在しているエーゲ海は手に入れるべき場所であった。
史実においても、似たような主張は起こっておりある種の収束であった。
しかし、件のイギリスは不気味な沈黙を守っていた。
装備や輸送艦艇の供与はともかくとして、それ以外の軍事的な行動にはほとんど実行に移していない。
イギリスから行われている人道的な支援以外はあまりにもアクションが少なすぎた。
外交戦争においても、日仏土側にもギリシャ側にも明確につくことはなく、あくまで戦争にせず外交で解決すべきと主張するにとどめた。
これにはオスマン帝国のみならず、日仏さえもイギリスの意図を図りかねた。
明確に対立することを避けてギリシャの背後から代理戦争を演じるためか、それとも、明言している通りの立場であるのか。
史実においてギリシャがイギリスの支援の下で休戦協定を破棄してイズミルなどを占拠したことを知る
夢幻会さえも
ギリシャの背をイギリスが押したという確信を持つ一方で、その消極的な態度には疑問を浮かべるしかなかった。
そうこうしている間に、1カ月近くが過ぎた。
オスマン帝国海軍とギリシャ海軍のにらみ合いは続いており、時には小規模な戦闘が勃発していた。
同時に進行していた外交戦争は、当然のように平行線をたどりつつあった。
イズミル=エーゲ海都市連合国内で行われた住民投票はギリシャ系がやや有利な結果となった。
まあ、トルコ系(オスマン系)の多くが「治安維持」を恐れて避難している状況で公平性も糞もない。
しかし、着実な既成事実の積み重ねであることは明らかであり、ギリシャの挑発的態度やイギリスの煮え切らない態度は日仏土の苛立ちを誘っていた。一つ幸運なことがあるとすれば、疫病対策自体は実質的なギリシャ軍制圧下でも何とか維持されていることであった。
元々ギリシャ・オスマンも例外なくウィルスの感染者が出ており、それへの対処は戦災復興と同じかそれ以上に重要であった。ギリシャはフランスや日本からの直接的な支援こそなかったものの、イギリスからの供与は続いており、少なくとも大規模な感染拡大や死者の爆発的増大は起こっていなかった。ギリシャも日仏土の介入を避けるために、ここばかりは力を注いで対策を実行しなければという危機感があったと思われる。
544: 弥次郎@外部 :2017/12/29(金) 12:28:11
事態が動いたのは、いよいよ日仏双方の義勇軍が派遣されようとした1921年5月のことであった。
観測されたのは、くだんのエーゲ海沿岸地域。起こったのは、ギリシャ軍への物資供給の停滞であった。
元々、ギリシャ軍の備蓄はWW1の余りと、その後に疫病対策などを行いながらも細々と積み上げた分と、イギリス軍からの戦後の供給分程度であった。元々国内での物資消費や人手の需要の拡大から今回の軍事行動は本格化すればギリシャ自体がその負荷に耐えきれず、それを何とかイギリスという介添えをして形を成していたのである。
そのイギリスからの支援も、あくまでもイギリスが国内にある分をさらに分割して提供しているのであって、戦争支援と受け取られない程度まで抑える必要があった。よって、長期化すればいずれは不足するものであった。
そしてその限界は、あっけなく訪れたのである。
物資の不足とあわせ、長期化によって本格衝突が発生する前に日仏土に対して妥協案を示すべきというイギリス側と、更なる侵攻と大ギリシャ主義の実行を企図したギリシャ側の対立がついに表面化したのである。
さしものイギリスも日仏とここで事を構え、全面戦争となるのは望ましいものではなかった。
未だに不安定な情勢の中で再度の戦争を、体力のあり余っている日仏を相手にするなど厳しすぎる。
だからこそ、あくまでも人道支援の範疇で、尚且つ表に立つことなくバックに立つことで希土戦争を演出したのである。
両国は議論を重ねたものの、双方の主張はかみ合うことなく決裂。妥協案の模索に入ることとなった。
いや、どちらかといえば、それはイギリスからギリシャに対する一方的な要求の突き付けであった。
確かにイギリス軍はWW1で大きく疲弊したが、それはあくまでも他の列強と比較しての話である。
そのイギリスが全面撤退すれば、あるいは大部分が撤収してしまえば、ギリシャはなすすべなく日仏土に蹂躙される。
他国の軍を材料として、他国を脅迫する、という何とも奇妙な構図ではあったが、兎も角ギリシャはここで自国の不利を悟った。
こうしてオスマンとの交渉の席にギリシャが、そしてオブザーバーの名目で日仏英の三か国が揃い交渉がスタートした。
交渉自体は時間を掛けながらも、比較的スムーズに進んだ。
イズミル=エーゲ海都市連合国の解体、元の住人に対する補償の実施、オスマン側への謝罪と賠償金。
ギリシャ系住人のギリシャへの引き上げも盛り込まれ、ギリシャ系とトルコ系の居住区については現地の判断と希土両国の交渉と議論、そして避難していた住人も合わせた公平な選挙によって決定することなどが確約された。
基本的にはオスマン帝国が有利な交渉であり、イギリスに睨まれた状態だったギリシャ側は臍を噛みながらも、その交渉を進めて自らの防衛に努め、撤退する道筋を見出すことに終始していた。
そして両国の交渉がひと段落した後に、日仏はオスマン帝国に対して提案を行った。
即ち、ギリシャに対する抑止力としての海軍艦艇の供与である。
オスマン帝国周辺、とは言うが、実態としては対ギリシャ、そして対イギリスであった。
この時代、戦艦とは戦略兵器であった。現代で言えば核兵器。最も分かりやすく破壊力と戦略的な価値を持ち、互いの戦争行為を抑止し、拮抗させることができる材料なのだ。海を隔てているからこそ、この手の艦艇は絶大だった。
さらにイギリスに対しても、今後の戦後復興の推進と軍事の拡大し過ぎを抑止するための軍縮を提案した。
史実でもあったような軍縮会議を行い、互いが余力を生み出しやすくする状況を生もうとしたのだ。
余力ある日仏でも、支援の拡大は流石にきついものがあったのだ。故に水を向けてやればイギリスも食いつき、同時に
アメリカに対しても影響を及ぼせるだろうと考えていた。日仏が呼びかけても良いのだが、やはりというかイギリスも巻き込むことで軍縮条約に確実な実行をつける。それが狙いであった。
546: 弥次郎@外部 :2017/12/29(金) 12:29:21
それに対するイギリスの返答はそれを承諾をするモノであった。
公式なものではないものの、アメリカを巻き込んでの軍縮条約の締結を是とするモノであった。
上手くいった。
しかしそのことに、日仏土側は違和感を覚えた。
上手く行き過ぎた、というべきか。
そしてようやく悟った。
全ては、イギリスの脚本と演出の上だったのだと。
これまでのイギリスの行動に存在していた謎が、綺麗に氷解したのである。
いや、全ての、ギリシャの突如の軍事行動の時点からの謎も解けたというべきか。
さながら、この場は名探偵が推理ショーを行う場であろうか。件の探偵役がおらず、
容疑者や被害者の関係者が一堂に会して、全員が真実を悟り、尚且つ「用意された」犯人が捕まり、その犯人とは別の演出家と脚本家がいたことが判明しただけであった。
別な探偵で例えれば、張り巡らせた蜘蛛の糸の中心にいた人物を認識し、しかし追及できないとわかった名探偵と言い換えても良い。
その人物がどの国で、名探偵役がどの国なのかは言うまでもない。
イギリスはオスマン帝国にギリシャをけしかけてはいない。ただ、ギリシャが暴発し得る状況を意図的に作り、あくまでイギリスが無関係なところでギリシャが突っ走るようにしたのである。
そこにイギリスは「オスマン帝国への人道支援」の名の下で密かに潜り込む。ギリシャが上手く制圧するならばそれで良し、駄目ならば直接手を下して実効支配する。日仏が大きく出るならばギリシャを諫める立場に回り、最終的に英希間の連携を決裂させる。
表向きにはギリシャの侵略を止めるように動き、日仏との間に橋渡しをしたイギリスという地位に落ち着けるのである。
さらに、戦後にオスマン帝国へと供与されるであろう戦力を出汁に、イギリスもギリシャに対して戦力を供与し、自国内における艦艇及び装備品の刷新を行う。互いが武器を向け合うことによって抑止の体制を作るには、特にエーゲ海を挟んでにらみ合う為には、両国が海軍戦力を整えることが望ましかった。
これは、日仏とのにらみ合いを、あくまでにらみ合いで維持するために、イギリスが是が非でもなしたいことであった。
では一体どうやってその状況を生み出すのか?そこにこそ、イギリスの本領を発揮する場が存在していた。
土台はすでにWW1以前から存在し、布石自体もWW1を通じて行えていた。あとは、多少のアレンジのみである。
ギリシャに対しては自分達がギリシャ側への供与乃至売却という形で導入を促すことができる。
海軍戦力の導入は将来への布石ということでギリシャ側の要求を満たしうるものであるし、それに対抗するためにも日仏のどちらかが供与を行うことはほぼ確実である。
国内の艦艇の整理にもつながり、ギリシャ海軍の拡張は国内産業に対する大きな需要を生み出す。
ただでさえ賠償が少なかったことで苦労していたイギリスにとっては、小さいとはいえ将来的にも有望な輸出の場となる。
軍事は高い買い物が多く、それ故に輸出側にとってはありがたいものでもある。
止めに、これを咎めようとする日仏を軍縮という場に引きずり込む。
むしろ、日仏の側から「軍縮」というワードを引き出すことで、確実に戦後の軍縮を実行する腹積もりであった。
全てが決着した以上、もはや日仏がひっくり返すことなど叶うはずもない。それは確実に、日仏が進めつつある戦後の後始末に逆行してしまうのだから。
密かに満足げなイギリスを知りながらも、日仏は努めて冷静さを維持していた。
未だに油断は出来ぬ状況であり、不確定であるが故に、追及が難しくなっていたためだ。
彼等の精いっぱいの抵抗は、もはや行動を終えているイギリスに対して刺す意味のない釘を刺すだけであった。
斯くして、時代という名の時計たちは動き出す。
さび付いた歯車が回り、時代は動く。
めぐるめぐる輪廻、因果。
全ては盤上をめぐると思わせ、思いもよらぬところへと転がる。
世にも奇妙な戦後の戦争。
短くも激しい戦争を終え、新たな時代へと進むこととなった。
547: 弥次郎@外部 :2017/12/29(金) 12:30:03
以上、wiki転載はご自由に。
ようやく完成…オスマン帝国 ギリシャの間の希土戦争でした。
元々は史実に沿って戦争をやってもらう予定でしたが、どう考えても情勢と合致しないのでこういう形に。
ブリテンがブリテンらしさを発揮している、と言った感じが上手く出せていれば…
これでギリシャ系とトルコ系の対立は不可避で、史実のキプロスよろしく対立するでしょうが、
イギリスにとっては他人事ですし(イギリスに)問題はないですね。
これでWar After Warも次でラストに出来そうです。
次でうまく〆て、過去と現在を結ぶ話を投下していきたいところです。
ロワレ県 オルレアン・ブリシー航空基地になぜ嶋田さん達がいるのか、それは次の話で解説したいと思います。
今年はこれで
日本大陸スレでのネタ投下はラストになるかなと思います。
では次をお楽しみに。
566: 弥次郎@外部 :2017/12/29(金) 19:11:26
誤字と脱字などの修正を…
542
× 挙句に黙示録の数歩手前という結末の戦争。
〇 挙句に黙示録が半分ほど進む結末となった戦争。
× 1941年4月1日。歴史上でももっともたちの悪いエイプリルフールと
〇 1921年4月1日。歴史上でももっとも性質の悪いエイプリルフールジョークと
543
×イギリスの煮え切らない態度は苛立ちを誘っていた
〇イギリスの煮え切らない態度は日仏土の苛立ちを誘っていた
×元々ギリシャ・オスマンも例外なくウィルスの感染者が出ており、
〇元々ギリシャ・オスマンも例外なくウィルスの感染者が出ており、それへの対処は戦災復興と同じかそれ以上に重要であった。
546
×ギリシャに対しては自分達がギリシャ側への賠償という形で供与できる。
〇ギリシャに対しては自分達が供与乃至売却という形で導入を促すことができる。
wiki転載時には修正をお願いしますorz
最終更新:2018年01月01日 10:13