191: 弥次郎 :2018/01/23(火) 23:36:45
「シドニーに、行きたいか~?」
「「「「おおおおおお!」」」」
「横断する番組じゃないんだから…」
「それにまだシドニーという地名はありませんよね」
「これらから作りに行くんだよ、DIYって奴だ」
「規模が違いすぎますな…」
- 西暦1623年 日本大陸 岐阜 某所 夢幻会会合にて
日本大陸 日仏ゲート世界 「進路を南に」 -アウスタリ大公国黎明編-
1600年代より少し前、戦国時代。
戦国の世をうまく乗り切っていった
夢幻会では、来るべき次なる争乱に備えるべく動き始めていた。
特に西洋列強の進出を恐れていたのだ。既に日本各地における資源の量は史実の比ではなく、また、火山灰土と黒土のダブルコンボな豊穣な土地が各地に広がり、史実に準じた気候によって収穫高は途轍もないものであり、それは国力を増大させるにあたってはとても強力なカードであった。それ故に、狙われてしまうものである。
日本大陸全体の開発とさらなる国力の増強、そして海外にある軍事的あるいは経済的に重要な拠点を抑えることによって、夢幻衆は将来的に日本大陸が有利な状況を作り出しておきたいと構想を練っていた。
しかし、かと言って、出鱈目に国外進出を進めるのは憚られた。
夢幻衆はあくまでも国内の整備と統治体制を固めることが優先であったためだ。
織田家という大名に仕えるという特性上、夢幻衆の面々も一部では領地を有していたし、織田幕府内の役職を務め、さらにはそれぞれが持つ技術や知識を現実のものとすべく日夜研究をしていた。
転生者よりも通常の、非転生者の割合が圧倒的に多く、日本人的な気質から外への意欲が小さかったこともネックであった。
また、わざわざ豊穣な土地から遥か彼方の土地を新たに開拓する必要性やリスクとリターンが釣り合っていないことなどから、海外領土拡大はいきなり進めることができたわけではなかった。
勿論、探検やその地域特有の動植物資源の探求には力を注いでいたのだが、あくまでもそれは探検や探求レベル。
自前で探すのもいいのだが、交易でやる方が結果的には安上がりになるケースも多かったのだ。
既に存在する資源でも充足していたという事情もあった。無理にやって資源と労力の浪費はすべきではなかった。
ネックとなる点は他にもあった。技術の不足である。
日本大陸は陸路だけでなく海・川・湖などの水路での輸送というのが発達していた。
とはいえ、それはあくまでも近海に特化したものであり、長距離を航行するのに向いているかといえば、少し厳しいものがあった。
それを外への進出に適するように改良し、運用できるようにするには、やはり手探りで探す必要があった。
知識はあってもそれを実行に移し、普及させるのは楽ではないのである。
転機が訪れたのは、ゲートの出現とその後の国交樹立後の1610年代であった。
フランスが、日本大陸から
アジア圏への進出を検討し始めたのである。
所謂大航海時代が始まったきっかけの一つには、アジア圏の物産品を手に入れたいという動きがあったことはよく知られている。
そして、それはフランスにも該当することであった。
地図上で見れば、欧州と極東がどれほど離れているかはおぼろげながらも把握できる。
当時の航海技術や船舶のレベルを考えれば、その難易度というのは現代以上だ。
未熟さが残るが故に後悔は危険だらけ。疫病や物資の不足、予期せぬ天候の崩れ、海賊との遭遇等々、だが、そうまでしてでも、その危険に対して自分の命と資産と名誉をかけてでも欲しいものがある、それを手に入れたい、という強い意志が、欧州の人々を海洋進出へと駆り立てたのだ。日本人とは異なる積極的な外向き志向の表れといえる。
192: 弥次郎 :2018/01/23(火) 23:37:17
そんな外向き志向、外への進出心溢れる彼らが膨大な距離を一瞬で移動できるゲートを手に入れたらどうなるのか。
当然の如く、彼等はゲートを通じた先への進出を目論んだ。既にゲートのすぐ先の土地は国家が存在していたために、彼等はその統一国家のさらにその先、まだ足が踏み入れられていない地域を目指すこととなった。
史実で言えば、東南アジア、オセアニアといった地域である。そこには欧州が求める香辛料が多く存在しているし、彼等は知らないが夢幻会はオーストラリア大陸に膨大な量の鉱物資源が眠っていることもよく知っている。
勿論採掘を行うには時間がかかることは承知の上であるが、そうでなくても、史実のように放牧には土地に困らない場所だ。
また、南方へと赴かなくとも日本大陸は中国大陸との交易には便利な立地であるし、日本大陸そのもにも膨大な資源が存在している。フランス人が日本を訪れてそれを購入してフランス国内へと輸入すれば国内市場で売りさばけるし、自国を経由して国外へと、欧州へと販売しても良い。
逆にフランスから物品を日本へと持ち込むことが出来れば、利益が見込めた。
こうしたフランスの動きは、日本人にとっても、夢幻会にとっても願ったりかなったりであった。
海外に進出する際には膨大な物資やバックアップが必要となるのだが、それを日本が担当することで新たな市場となったのだ。
また、門を通じて欧州と日本を行き来するということは、必然的に日本へと帰ってくるということであり、進出が難しい地域にある資源や産物を間接的にせよ入手する機会が増えるということであった。
さらに、外洋航海技術を直接学ぶことができる機会が増えたことは、大きな収穫であった。
悪い表現方法になるが、フランスの海外進出に便乗できるのではという期待もあったのも確かである。
史実のような焼き畑的な、ひたすらに搾取するような植民地経営をフランスがやる懸念もあったのだが、そこに介入することで状況を変えることで将来的な火種などを抑えられないかとも考えていた。
これは完全に、夢幻会の勝手な事情と言えた。だが、寝覚めが悪いのは確か。
立地的に見ても日本の南、東南アジア地域の国々が将来的に日本の敵対国となるのは避けるべきでもあったので、日本側の力が及ぶ限り介入することが決定された。
斯くして日仏双方の思惑は合致。
前面に出て探検と領土拡大を目論むフランスと、それを後援して利益を受け取る日本(幕府)という体制が確立されたのであった。
いや、それはリスクもリターンも分割しあうことで、互いが利益を得るという、共生関係であった。
当然、価値観の差による激突やトラブルというものは発生した。これまでとは密度の違う関係を持っているし、ましてや命がけの状況であるためにどうしても必死にならざるを得ないためである。
しかし、だからこそ、こうしたトラブルや問題に直面したからこそ、相互の理解というのは進んだ。
価値観 言語 風習などの様々な違いを互いに認め合う。生き残るために、目的を果たすためにはそういったものを乗り越えねばならなかったのだ。
東南アジア地域への進出と資源獲得地域の展開は、他の欧州の国々との競争であったが、これを日仏は優位に展開した。
当然だろう、前提条件というものが日仏とそれ以外の国の間では違い過ぎたのだから。
17世紀後半、欧州において三十年戦争が終わったころに、日本とフランスの開拓団はオーストラリア大陸へと到達し、これの領有を宣言した。
フランス領アウスタリ植民地、後のアウスタリ大公国の土台がここにおいて誕生したのであった。
193: 弥次郎 :2018/01/23(火) 23:38:12
以上、wiki転載はご自由に。
アウスタリ大公国についての短めのお話でした。
議論ばっかも面白くないので、実行に移すべし、ですな
次のお話は開拓史というか、その後の立ち位置的なサムシングを解説しようかなぁと。
まあ、そこまで詳しくは書きませんけども、日仏両国間で合同で開発が進んだオーストラリアですから、
史実との相違点くらいは簡単に書いておきたいと思います。
197: 弥次郎 :2018/01/24(水) 00:09:24
冷静に考えると勃興期というより黎明期ですね
wiki転載時には
日本大陸 日仏ゲート世界 「進路を南に」-アウスタリ大公国黎明編-
にタイトル修正をお願いします
最終更新:2018年01月24日 10:30