280: 弥次郎 :2018/01/27(土) 22:25:27
「世界の意思が日本に圧力をかけている気がする…」

「奇遇ですね、私も同じですよ」

「おっ、忖度かな?」

「世界意思なんてあったら真っ先に我々は排除されてます…」

「せやな」

「あのー、オランダ商館の人を待たせるわけにはいかないんですけど…」

「公的には存在しないんだから、利用しているはずもない。
 そこら辺はフランスとの協議の結果を突きつけるしかないだろうに」

「それで向こうが納得したら苦労しないよ」


      • 西暦1611年 日本大陸 岐阜 夢幻会会合にて





日本大陸 日仏ゲート世界 「進路を南に」-蘭仏競争編-





一般に、史実徳川幕府との交易が鎖国体制下において許されていた国は二か国とされている。
即ち、ネーデルランド連邦共和国と清国(中国)である。厳密に言うならば、琉球王国 李氏朝鮮がおり、また国でこそないがアイヌが加わるのだが、ともかくとして、オランダは江戸時代においては日本との交易を他のヨーロッパ諸国を差し置いて独占していたのである。

しかし、この世界においてはそうではなかった。
西暦1600年代においてゲートが開通したことにより、フランスというプレイヤーが乗り込んできたのである。

フランス王国とバチカンの協議の結果、表向きにはゲートは存在しないものとして扱われていた。
まあ、実質的には「あれー、なぜか外国に来てしまったぞー不思議だなー(棒」とか言いつつもフランスと日本の人間が行き来し、交易にいそしんでいるのをバチカンが黙認している状態である。

そして、ここで重要なのがゲートの立地である。
欧州側のゲートがあるのはフランスのど真ん中、オルレアン。
日本大陸側のゲートがあるのは織田幕府の重要拠点である岐阜。
どう控えめに見ても、日本とフランスがこのゲートを独占するのは明らかであった。

当初こそオランダはこれを問題視はしていなかった。
そもそもゲートの存在自体に懐疑的であり、すぐに消えるだろうという予測すらしていた。
現状のところ日本との貿易は優位に進めており、スペインやイギリスを蹴落とせば問題は無いと楽観していたのである。

だが、フランスが東南アジア地域への進出を行い始めた段階で、オランダは織田幕府に対してゲートの封鎖あるいはフランス人の通行の制限や禁止を求めた。また、オランダはフランスに対しても要求を出し、ゲートの使用の制限あるいは他国に対してのゲート使用の解放などを求めた。
それだけ状況は変化していた。ゲート開通から10年あまりで、日本とフランスの貿易は加速していたのである。
それこそ、オランダを凌ぐ勢いであった。価格面や交易のインターバルの短さは船舶に依存するオランダの上を行き、東南アジア地域における領域拡大においても大きくリードを許していた。リスクの小ささゆえに流石にオランダもその原動力が、かつて自分達が見逃したゲートであることは十分に把握していた。
至極単純な価格と市場に流れる物量の差。その優位はゲートのあるフランスにあり、これを覆さなければいずれは負けてしまう。

これに対して、フランスはゲートなぞ存在しない、と突っぱねた。
存在していないものの使用許可を求められても、どうして許可を出すことが出来ようか、と。
公認の見解であるだけに、オランダはこれを覆すためには現在の状況をバチカンの決定を無視した上でやるしかなかった。
フランスとしても日本との交易は既に実り多いものであると認識していた。まして、このゲートというアドバンテージを他国に対して譲るという選択は、とてもではないがフランスの利益にはならなかった。
すでに該当地域においては激しい陣取り合戦の最中。競争相手に利する行為など、何が悲しくてやらねばならないのか。
オランダ側に対しては相応の費用を支払えば利用するのを認めてはいたが、当然ながら吹っかけていたし、中身に関しては検閲などを平然と行っていた。これに対して当然オランダ側は抗議をしていたのだが、フランスは何処吹く風と受け流した。結局のところ、ゲートを持つのはフランスであり、オランダは借用する側なのだった。

最終的にはオランダは、ゲートを高い金を払って使い続けることとなった。
しかし、安定した航海技術や連絡手段の完成後にすぐさまやめてしまったあたり、オランダは地味に毟られたのだろうことは想像だに難くない。

281: 弥次郎 :2018/01/27(土) 22:26:18

一方の織田幕府は、結果的にはフランス寄りの立ち場であった。
元々、史実江戸幕府に準じた鎖国体制の構築を検討していた。
大名を生かさず殺さず、各地の統治と維持管理を任せ、安定した機関の間に国内の整備を進める。
西国の大名が交易で力を付けられるのは非常に懸念すべきことであった。逆に言えば、自分達の、幕府のおひざ元であり直轄領の岐阜で交易できるというのは、幕府が管轄しやすくなるために非常に都合がよかったのだ。
一方で、ここで貿易の規模を縮小すれば、相対的に貿易の比重が大名側に傾いてしまうだろう。フランスとの交易で味を覚えた分、その需要は満たさなければ幕府への不満へと繋がり、ひいては大名の離反にまでつながりかねない。

一応のところ、フランスとの人員の行き来は主にフランス側の衛生環境の悪さが原因で制限されていたのだが、交流開始から時間が経つにつれて改善されていっているため徐々に緩められつつあるし、衣類や毛皮などの特定の品を除けば交易に関しては自由が認められている方向へと動いていた。
ここで制限を設けると、流石に反発が強くなりすぎてしまう。
なので結局、フランス側の対応に合わせるという選択がベストではないがベターなものになってしまったのである。

勿論フランス側にそこを配慮を求めはしたのだが、あくまでも仏蘭の間の問題とやんわり断られてしまった。
欧州側のゲートの扱いに関してはフランスに任されているし、
結果、オランダに対しては「オランダ人のゲートの利用に反対はないが、欧州側に関してはフランスの許可をとってほしい」と、極めて日本的に、折衷案的な、あるいは自己弁護的な回答をせざるを得なかった。

最終的に、東南アジア地域は非常にフランスとオランダと、そしてイギリスがにらみ合う状況となった。
フランスは、イギリスおよびオランダに張り合うべく、オルレアン-岐阜を本拠地とするフランス極東交易会社を1615年に設立。
より積極的な海外進出を推し進めようと、史実にはない勢いでのめり込んでいった。

さて、このように領土拡大競争が繰り広げられている中で、織田幕府は、そして夢幻衆は今後のことを相談していた。
このままの歴史で進行すればステキな革命とナポレオンの時代の後にWW1とWW2で酷い目に遭って…という、非常にフランスらしい歴史をたどるフランスとの付き合いはどうしたものか、と迷っていた。
安定感という意味ではオランダ一択である。勿論、将来的にオランダ海上帝国はとってかわられることになり、世界大戦においては道路より少しはマシな扱いが待ち受けているので、どっちもどっちと言える。
だが、このまま付き合いを持ち続けて大丈夫であろうか?具体的には、フランス革命時に。
楽観意見では、フランスにバタフライエフィクトによる歴史の改変が起こるのでは?という声もあったのだが、それは極めて少数意見であった。何しろ、フランスである。今のところオランダは史実通りのムーヴであり、そこまで影響を与えるのか?と思っていた。確かに東南アジアに進出しようとしているのは史実以上であるが、根本的な影響を与えたとは限らない。懐疑的に、慎重を期すべきだと考えていた。

少なくとも、1600年代前半の、当時の夢幻衆はそのように考えていた。
これが盛大なフラグであった。歴史というのはほんの少しの影響で大転換が起こってしまうことを、現実という、もっとも現実味の無いシナリオを描き上げる脚本家の気まぐれに翻弄されることを、彼等は不覚にも失念していたのである。

282: 弥次郎 :2018/01/27(土) 22:26:56
以上、短めですがwiki転載はご自由に。
そういえば、こういうことも起こるなぁと思ったので先に書き上げてみました。
オーストラリアに舞台が移るのは次の話からになりそうです
踊りながら待機していただければ幸いです

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最終更新:2018年01月29日 08:54