590: 弥次郎 :2018/02/10(土) 20:51:10


「なんてこった、史実が(剥離し過ぎて)死んじゃった!」

「この人でなし!」

「剥離させたのは一体誰だよ!」

「夢幻衆とかかっこつけているらしいぞ!」

「何だって、それは本当かい!?」

「おのれ!ゆ゛る゛ざん゛!」

「自己紹介乙」

    • 西暦1744年 日本大陸 岐阜 夢幻会会合にて



日本大陸 日仏ゲート世界 「進路を南に」-アウスタリ大公国開拓編-




西暦1700年代。アウスタリ植民地への入植が始まって半世紀近くが経過したころ。
日仏両国によるアウスタリ大陸の開拓はかなり順調に進んでいた。
史実における開拓のアレコレを知る夢幻会がおり、日本大陸という有力な資源地帯がバックアップをしているのだ。

日本との交易開始以来、フランスは物資だけでなく、夢幻会が日本大陸を統治・開拓・開発するにあたって放出した知識や技術を少しずつではあるが取り入れ始めていたのだ。衛生環境の改善や治安の改善に伴って人口減少要素が小さくなり、医療の充実と技術の進歩による食糧生産の拡大は人口増大要素を大きくさせ、人口が減りにくく増えやすい時代を迎えていたのである。
さらに、日本大陸との交易はフランス国内に新しい風を吹き込み、新たな雇用や需要を生み出し、経済循環を活発化させた。
これは日本大陸においても発生していたことであるが、こうした世の中の動きは、将来への展望を明るくさせ、自然と人の動きを正の方向へと導いた。
これが、フランスに人口爆発を生み出していた。当然、この人口は行き場を求めることとなり、その先にアウスタリ植民地があがったのだ。

同時に、織田幕府内部でも開拓を行う土地を求めていたという面もあった。
北方、蝦夷地域への開拓は如何に広い日本大陸といえども、安定期に入って増大した人口をすべて受け入れるほど余裕があるわけでもなかった。
基本的に北は寒い。史実でさえ、蝦夷開拓というのはかなりの時間と労力を要していた。だが、この世界において日本大陸には国外から流れ着いた様々な〇〇系住人というものがおり、史実以上に所謂蝦夷地域が「狭い」ものとなっていた。
また、開拓民を集めるにしても、南方の住人に遥か北まで行け、というのもなかなかに酷なものがある。
そうした意味で、南方への開拓というのは都合が良いものであった。

原動力には現地の先住民、所謂アボリジニの人々との協調もあった。
元々東南アジア地域をオランダと争っていたフランスは、幕府側からのアドバイスもあって、現地勢力を積極的に味方に引き入れることで勢力拡大を進めていた。これは敵を作らないため、そしてオランダ側についている現地勢力をこちらに寝返らせるための方便であったことは確かである。
だが、それは仏蘭西人の認識において多大な影響を与えたことは確かである。
過酷化していくオランダの搾取と引き換えに、フランスに協力すべき、という風潮を現地に植え付けることにもつながった。
元々フランスでは非白人の織田幕府との協調を経てきており、過酷な環境下においてはむしろ彼らの方が頼りになるという認識を持っていた。
よって、アボリジニの知恵や案内はフランス人と日本人の力となり、開拓や緑化において強力な後押しとなった。

また、フランスと日本は流刑地という目的ではなく、開拓地として最初から行動していたことも大きい。
有り余る人口と、平穏な時代に代わったことで行き場を失ったエネルギーが、アウスタリ植民地にぶちまけられた。
アフリカへの進出や、さらなる開拓地の探索をしながらもなおも衰えなかったあたり、どれだけの鬱屈がたまっていたかは察せられる。

591: 弥次郎 :2018/02/10(土) 20:52:10

さらにアウスタリ植民地の価値を高めることになったのが、産業革命の発生であった。
イギリスに先駆け、日本大陸において蒸気機関の実用化とそれによる産業の大転換。
戦国時代から夢幻衆がコツコツと準備と研究を重ねた結果が、ついに花開いたのが1700年代なのであった。
そして日本大陸から「産業革命」が真っ先に輸出されたのが、フランスとその植民地であった。

植民地に産業革命など難しい、というかもしれない。
だが、フランスと日本にとってみれば、交易地であり、中継点であり、他の列強と鎬を削る土地。
既に日仏の住人が移住し、生活している地域もある。駐留軍や現地の産業のためと考えれば、投資や物資の投入というのは若干遅れはしても、進めるべき事案ではあった。

特に、アウスタリ植民地はその傾向が強かった。
凡その鉱物資源において、アウスタリ植民地は日本大陸と並ぶほど有しており、夢幻衆のみが知り得ていたが、ボーキサイトなどの資源も豊富に眠っている。むしろ、こうした資源地帯を抑えることも目的であった。
人口の受け皿であり、尚且つ必要資源の供給地となる。それも膨大な、という特筆点を抱えていることが確認されていた。
そこにある資源をより回収し、発展させていくには、本国同様の革命が必須なのであった。
そういった事情もあり、いよいよアウスタリ植民地はただの植民地という括りから外すべきとの声があがった。

そこで検討されたのが、アウスタリ植民地の衛星国(あるいは付庸国)への格上げであった。
ゲートがあるとはいえ、結局は南半球のアウスタリ植民地とは距離がある。
現地に総督という形で人が派遣されていたが、これを王室から人を送り、より本格的に運営を任せるというものであった。

さりとて、現地にいるのはフランス人だけではない。
フランス人と日本人を主体に、アボリジニと東南アジア系の移住者たちがいるのだ。
彼らまで一纏めにフランスの方と統治に入れてよいのだろうか、と。
何しろ、アウスタリ植民地には日本からそれなりの家系の、フランス風で言えば貴族まで移住しているのだから。
特に厄介なのは、源平藤橘の家系も程度こそ違えどもいたことだ。これまではなあなあというか、現地が現地で判断していたのだが、どちらかに法的な比重が傾くのは非常にデリケートな問題に発展しかねない。

そこで1740年代から50年代にかけてに法の改訂が行われ、アウスタリ植民地はアウスタリ自治州(あるいはアウスタリ付庸国)となった。政治的な意味合いもあって、初代大公はフランス王室から、その妻は織田幕府から出ることが決まった。

おおまかな法に関してはフランスに準拠し、細かな点においては織田幕府側の事情にも配慮して制定され、現地に限って有効であると認められることとなった。これは、ある意味でその後のフランス帝国連邦と織田幕府の後を継いだ大日本帝国連邦の制度のひな型となったともされる、立憲君主制にちかい形態であった。

これに法的な強い根拠、あるいは理論的根拠が強力に付与されることになるのは、1793年におけるルイ16世のフランス帝国連邦の皇帝への即位と、それに伴う制度改正によって、フランス帝国連邦の加盟国であるアウスタリ大公国への国体の改造まで待たねばならなかった。

592: 弥次郎 :2018/02/10(土) 20:52:53
以上、wiki転載はご自由に。
とりあえず近世、1800年ぐらいまでは駆け足で歴史をたどってこれましたね。
あとは、ちょろりと解説を加えれば終わりかなぁと思います。

歴史が剥離していきますねぇ、まったく誰のせいなんだか(目逸らし

この後は、いよいよアメリカ大陸事情に移ろうかなぁと
設定面でちょっとミスがひどいところあったので、そこの修正からですね…

ではではお楽しみに。

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最終更新:2018年02月18日 09:54