709: 弥次郎 :2018/02/15(木) 17:40:54
日本大陸 日仏ゲート世界 「進路を南に」-アウスタリ大公国、成立-





アウスタリ大公国が立憲君主制のひな型的な制度の導入を行ったのは、日仏間において政治的な学問研究が大きく進んでいたことが理由の一つとして挙げられる。

織田家は、帝(天皇)を権威として担ぎ上げ、征夷大将軍を任される、という形で幕府という統治機関を形成している。
そして織田幕府というのは各地の大名を差配し、各地の支配や統治を任せる、言うなれば小さな政府の立場をとっていた。
石高制を基本としながらも、フランスとの交易によって史実よりもはるかに早く貨幣制へとシフトし始めるなど、夢幻衆が描いていたプランとは若干の変化や変遷があった。しかし、史実徳川幕府を参考とし、後年に起こる社会変化に合わせて下地を作ったこともあり、刷新がうまく進むうちは問題はないと判断していた。

一方で、フランスのブルボン朝においても、発達する技術と新たな物品の登場によって社会制度の変化を迫られていた。
例えばであるが、フランスに試験導入された農法としてノーフォーク農法がある。かぶ 大麦 クローバー 小麦と順番に育てることで、土地を休ませる必要が無い農業を実現し、ついでに収量を大きく増大させた。元々、疫病対策の方法の普及と、衛生観念の導入、また栄養学の概念の普遍化は、フランスにおいて人口増大を実現したのだが、同時にその増えた人口の胃袋を賄うだけの生産量を必要とした。
しかし、史実においてこのノーフォーク農法の普及には、第二次囲い込みと農業革命というものが附随していた。
分かりやすく言えば、農業の資本主義化が進んだのである。

加えて、このノーフォーク農法をはじめとした新機軸の、収量を増大させるための農法というのは、どうあがいたとしても小農、つまり個々人がやるにはあまりにも難易度の高いものだった。
広い土地を管理し、必要に応じて設備を用意し、畜産物も管理するというのは、強力な指導者の元でなければスムーズに進行しなかったのである。農業を行うにあたっての科学的な見識や裏打ちに基づいた農業指導、そしてそれを理解し、普及させるだけの農村での下地を作ること。いずれも、農村での下地を作る、に関連しているが、フランスにおいても日本の寺子屋の制度などを見習った教育の普及が始まり、また、史実以上の学問がフランスのインテリジェンス層にもたらされたことによって、これまで独占されていた知識への関心が広まったのである。
新しい学問、新しい技術。これらをうまく自分の領地に導入し、経営することが出来ればその領地は繁栄する。
しかし、指導方法を間違ったり、理解が浅かったり、天候などに恵まれなければ、そのまま大損害となる。
この、成功したか失敗したかの差異が発生して、一地方だけ、という次元を超えてフランス全体に格差が広まっていたのである。
そして、これに対応するというのは、それ以前の知識と経験則などから構築されていたフランスの制度には極めて難しかった。

710: 弥次郎 :2018/02/15(木) 17:41:29

ここで、夢幻衆は様々な形でフランスへと文字通り入れ知恵を開始したのである。
無知や熱狂などがフランスの衰退を引き起こしたならば、そのアンチテーゼとなる理性や理論を広め、効果的な手法を導入させることによって改善しようというのである。当初こそ迷っていたが、ここにきて腹をくくったのである。
幸いにしても、ポテンシャルについてはフランスは備えていた。
あとはそれをいかように活用するかにかかっている。

専制君主ではあるが、同時に啓蒙君主として史実以上に活動を続けているブルボン朝の歴代王たちであったが、その急速な支配領域の拡張と制度の組み換えは、必然的であるが執行者にして責任者たるブルボン家へとのしかかっていった。
フランス本土、アフリカ、インドネシア、北アメリカなど。その地域の広がりは史実以上。
しかし、最高決定者たる王は一人しかおらず、その決定が下されるまでに時間がかかってしまうのである。
行政がその巨体を維持できなくなり、押し潰されるというのは往々にしてあるのである。

まして、王族というのは、王族さえも抗うことが難しい「規範」によって縛られている。
仮にトップが愚かな選択をしたとしても、仮にその人物が有能でなかったとしても、それに従うのが規範なのだ。
このようにあまりにも不安定な、そして代替が極めて難しく、国家全体にまで影響を及ぼしかねない専制君主制は、いずれは制度的に追いつけなくなるのではないか?との懸念の声が早くに誕生したのだった。
折しも、社会契約や自然権などに議論され始め、これと結びついていくことで、広がりやすい下地は多少はあった。

即ち、現地の声を反映させることによって、トップの判断を代替・代行し、あるいはトップの下した判断を補正・補完するという制度。
判断を行うだけの能力と権限のある人間を選ぶことで権威の代行者とすることによる行政制度といってもよい。
本国から遠く離れているアウスタリ大公国は現地での判断と知見が必要となり、迅速な判断のためにはそれが必要となる。
故にこそ、大公という国王(皇帝)に次ぐ権威を置き、代行させ、法と統治の権威として扱うのがよいのではないか。
勿論、直球で言うのではなく、色々と手を変え品を変えの提案である。
後先考えないからこその革命ではあるが、飛び火を恐れた夢幻衆は死ぬほど頑張ったと、ここに記しておこう。

そして、フランスでの革命騒ぎを経た、フランス帝国連邦の成立。
それはアウスタリ大公国の先行していた制度に、本国の体制が追いついた、ということでもあった。
ある種の社会実験的な意味もあったアウスタリ大公国の制度は、そこでの反省点やフィードバックを経て、フランス本国において制度として確立を果たしたのである。これにより、アウスタリ大公国は正式に樹立。
単なる植民地あるいは開拓地から始まった国は、フランス帝国連邦の一国として、本国の血を引く国として形を成したのである。

711: 弥次郎 :2018/02/15(木) 17:42:08
蛇足:あるいは日本人にそれをみせた化学変化




七五三という風習が日本には存在する。
男女に差があるのだが、子供の年齢が3歳、5歳、7歳となった時に祝うというものである。
しかし、なぜその年齢なのか?7歳以降では、なぜ祝うことがないのか?
それもそのはず、7歳までは神のうちという、ある種の諦観のようなものがあったからである。
ヨーロッパで言うならば、 取り替え子(チェンジ・リング)と本質的には似通っている。

当時の衛生環境や医療技術の発達の程度の観点から、子供は現代以上にあっけなく死んでしまう。
だが、そんな知識があったところで、理解できたところで子を失った悲しみが消えるわけではない。
幼いころに子供が死んでしまうのはどうしても抗えないもののせいという諦観を持つことで、慰めるという面が窺える。

また、同じような理由で安産祈願や妊娠を願うものというのも大々的に発展していた。
勿論夢幻衆も知識の普及に努めていたが、これまでのものを「常識」としていた人々にはそれこそ「怪しげな物」と受け取られてしまい、理解を得るためには時間がかかっていた。そも、これまでの常識が通じていた期間の方が長かったのであって、それはある意味ではしょうがないのである。
自然が征服可能と考えていた節のある欧州でも、自然に飲み込まれないように抗って生きてきた日本では、縁起を担ぎ、まじないにたより、生き残れるのではと切なる願いをかけてきた。

閑話休題。
アウスタリ植民地に、そしてオセアニアと呼ばれる地域に足を踏み入れた日本人とフランス人たちの前に現れたのが、その大陸特有の動物たちであった。コアラ、カンガルー、フクロオオカミ、ウォンバット、ハリモグラなどなどである。
特筆点としては、有袋類、子供を入れて保護する袋を持っているというものがある。これは胎盤の機能がまだ低次段階であり、子宮の内部で子供を育てられないというハンデを負っているが故の選択であった。

さて、前述のように、現代以上に縁起を担ぐ傾向にある日本人が、そんな子育てをする動物を見たらどうなるのか?
ついでに言えば、農耕文化の日本において、狼というのは信仰の対象にさえなっている。勿論恐怖というのもあったが、
どちらかといえば畏れ、畏怖といった方がいいだろう。反対にヨーロッパにおいては恐怖の対象ではあり、その認識が交流が開始されたことで輸入された史実の日本においてはニホンオオカミは明治以降に数を大きく減らしてしまうのだが、まあこの場においては些細なことだろう。問題なのは、そんな日本人が目撃したことにある。

ほどなく、現地にその手の神社が出来たこと、そして、幕府がフランス側に申し入れる形で保護に乗り出したことをここに記しておこう。

712: 弥次郎 :2018/02/15(木) 17:43:09
以上、wiki転載はご自由に。
というわけで、アウスタリ大公国編は概ねこれにて完結、ですな。
しかし、立憲君主制のひな型が生まれた場所という言霊よ…

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最終更新:2018年02月18日 10:00