181: ham ◆sneo5SWWRw :2018/01/08(月) 23:44:10
九五式軽戦車(ham 第一案)
全長:4.56m
車体長:4.56m
全幅:2.15m
全高:2.18m
重量
乗員:3名
エンジン:統制型九七式4ストローク130馬力空冷直列6気筒エンジン
エンジン設置位置:後部
転輪:大型転輪
サスペンション:シーソー式サスペンション
最高速度:45.0km/h【整地】
航続距離:260km
装甲種類:均質圧延鋼装甲
砲塔装甲
- 前&側&背面全周:16mm(10度)
- 上面:6mm
車体装甲
- 前面:12mm(60度)
- 側&背面:10mm(30度)
- 上面:6mm
武装
- 九五式五糎七戦車砲(18.4口径57mm砲):1門
- 九四式車載機関銃(7.7mm機銃):1門
<解説>
日本陸軍の30年代における主力軽戦車。
史実九五式軽戦車及び九八式軽戦車を基本とし、四式軽戦車、試製中戦車チニを参考に改善されている。
少し大きめの九八式軽戦車と考えてくれると良い。
182: ham ◆sneo5SWWRw :2018/01/08(月) 23:44:45
憂鬱世界で天寿を全うした転生者たちが再び目覚めてみると、そこは
ストライクウィッチーズの世界であった。
最初は狂喜乱舞した者もいるが、すぐに冷静になり考えを巡らすと、自分たちの置かれた状況に危機感を感じた。
前世のような未来知識のチートは後援者、実績、理論に基づいた確実な根拠、そして、長い年月で積み上げた組織力があってこそできた。
だがこの世界では組織力はただ集まった程度であり、後援者・実績は乏しく、理論に基づいた根拠も証明できる力は低かった。
ゆえに、初期は未来知識チートをうまく発揮できずにいたが、持ち前の知識や経験、自身の史実の経歴を生かしたコネの構築等を行い、なんとか前へ進みだした。
そんな彼ら
夢幻会において、戦車の研究開発を担当している部門では、憂鬱世界に倣い、和製T-34である九七式中戦車を開発しようと考えていた。
ところが、その構想に冷や水をかける衝撃的な意見が飛び出す。
それは憂鬱世界での死後、史実での転生が遅れた世界に転生し、太平洋戦争においてより良い負け方を選択するべく動き、見事それを成し遂げ、第三の転生を果たしてきた一派である。
そう、読者諸兄らがよく知る
戦後夢幻会世界の面々であった。
戦後夢幻会世界から転生してきた彼らは、和製T-34を構想していた面々にこう言い放った。
「以前の世界と一緒に考えるな!
この世界は我々が改革した世界ではない!
戦車を生産する工廠の設備は製造に答えられるほどのものか!?
戦車を輸送するインフラはどうか!?
開発するからには運用する様々な考慮をまず調べなくては、和製T-34なんて絵に描いた餅だ!
現に我々が居た世界がそうだ!!」
この言葉を受け、改めて調べてみた夢幻会の面々は顔を青くすることになった。
まず、インフラの状態が憂鬱世界よりは悪い。
と言っても、史実戦前の日本ほどではない。
九曜の助言もあって、国内には完全舗装された幹線道路も整備されつつあり、道路の舗装率も史実よりは高い。
鉄道も初めから標準軌を採用しているが、橋などは重量物に耐えられるよう強化されている箇所は少ない。
そのため、鉄道を含めたそれらのインフラは、30t級戦車の使用に耐えれなかった
しかし、史実の15tまでという訳でもなく、主要インフラでは25t級が、非主要インフラでは20t前後が耐えられる程度であった。
勿論、夢幻会としてはインフラ強化に力を入れたいが、未だ主流派と成り得ていないため、まずは政争に勝つことからであったが。
次に生産体制。
史実では戦車においては、九二式重装甲車の時点で溶接技術を取り入れており、それなりの技術は有ったが、リベットがどちらかと言えば主流だった。
この世界では、中身がかつて海軍軍人だった九曜により、溶接技術にかなり力を入れてはいるため、溶接の技術はかなり成熟し、十分に経験を積まれていた。
一方で、鋳造に関しては、溶接のほうに力を入れたこともあり、技術はあまり成熟しておらず、経験も今少しと言うところであった。
また、統一規格については未だ完全ではないが、大蔵省に入省した魔王がストパン世界という要素もある所為か、盛大にハッスルして、各企業・団体に突撃しまくっているため、統一化の動きは進みつつあった。
183: ham ◆sneo5SWWRw :2018/01/08(月) 23:45:16
そして、エンジン。
憂鬱世界における九七式中戦車では、航空用液冷ガソリンエンジンの傑作、マーリンを使用していたが、
そもそも液冷エンジンは保守整備に高度な技術と経験を要し、史実の日本では保守整備で盛大に泣かされたのは有名な話である。
そのため、いきなり和製ミーティアを使用するには難易度が高かった。
これらの要因は主として、史実と違って九曜の助言で国内開発に投資しているものの、中華大陸に替わって南洋島という亜大陸並びにほぼ無人とはいえ、半島や遼東半島等を抱えているため、投資先が史実と同等に多いこと、
紀伊型などの史実では未成に終わった軍艦や軍備を有していることで軍事費が上がっているなどで、国内開発に必要な投資を抽出するのに苦労していたからだ。
さて、状況を再度把握した彼らは当然、頭を悩ませた。
当初は「この世界でも和製T-34を開発すれば良い」「もう一度作るのだから簡単だ」「舐めプ乙」などと完全に楽観視していた彼らだが、
この世界では和製T-34を作るのは難儀する技術レベルで有るし、運用にも困難が付きまとう。
そのため、戦後世界から来た面々の言う通り、和製T-34を自信満々に提示しても袋叩きにされるのがオチであった。
悩んだ彼らだが、すぐにそれは戦後世界から来た面々が提示した和製SU-76とも言うべき駆逐戦車の案を提示したことでそれは解決した。
読者諸兄が戦後チハと呼ぶそれは、全備重量17.0tと、25t級戦車まで運用できる扶桑のインフラでも十分運用できる上、無砲塔であるから生産性も高い。
唯一、「これを戦車と呼ぶのか?」という抵抗は有るが、
初戦は撤退戦となるため、むしろ駆逐戦車タイプのほうが戦いに有利であること、
早急に数を揃えられること、
なにより通常の戦車よりも安く、
インフラ負担が少ないことがメリットとして注目され、
呼び名については些細なことと割り切ることとした。
一方で、次に問題として挙げられたのが九五式軽戦車、通称ハ号である。
ハ号は、八九式軽戦車の低速性がトラックによる自動車化部隊と行動できないことから、関東軍の要請により機動できる戦車として求められたものであった。
重量7t以内、速力40km/hという厳しい要求内容から、転輪の肉抜きをしてまで採用したこれは、実は試験段階で戦車第二連隊から「戦車の価値なし」という酷評を貰っていた。
しかし開発側ではこの評価について、ハ号の開発を関東軍主導で進めたことに対する内地部隊のやっかみであろうとして無視してしまった。
加えて、参謀本部ではこの「質より量」として、九五式を主力に量産を進めていた。
よく、「九七式中戦車が主力」とか言われるが、実際はこの九五式軽戦車が主力戦車だったのだ。
夢幻会でもこの九五式の開発は、II号戦車や憂鬱世界での九二式軽戦車のように訓練用戦車として一定数揃えられる戦車の必要性は感じている為、開発は否定しないが、もう少し使える戦車にしたいのが本音であった。
そこで夢幻会は、九七式中戦車開発を後押しする実積作りも兼ねて、この開発計画に参入することとした。
184: ham ◆sneo5SWWRw :2018/01/08(月) 23:45:48
1933年6月。
軍は、「重量7t以内。路上最大速度40km/h」という要求仕様を三菱重工に提示。
完成した史実九五式軽戦車の図面の仕様を関東軍、並びに参謀本部と陸軍省等を交えて議論が交わされることになったのだが、この図面に反対意見が提示された。
これが末端の人間であったら無視されたであろうが、異論を上げたのは開発に関わる関係各省の高官たちであった。
関東軍・参謀副長、岡村寧次。
参謀本部・次長、真崎甚三郎。
陸軍省・軍務局長、永田鉄山。
陸軍省・軍事課長、山下奉文。
陸軍省・軍事調査部長、東条英機。
計画提唱者である関東軍のNo.3、そして、参謀本部No.2や陸軍省の関係各所の幹部までが、この図面に異論を提唱したのだ。
彼らはこう指摘したのだ。
曰く、「1人用砲塔では、戦闘時の指揮・射撃・装填を全て一人で行うため、負担が大きすぎるので、戦況把握が難しく、敵に撃破される隙が生じやすい」
曰く、「只でさえ、八九式の57mm砲の威力不足が指摘されているのに、37mm砲を使用するなど論外である」
曰く、「リベット構造は、被弾時に衝撃で鋲が車内を飛び回り、乗員を死傷させる危険性が指摘されているため、採用すべきではない」
勿論、ただ反対意見を述べるばかりだけではなく、彼らは夢幻会派の技術者及び倉崎重工の車両部門を交えて事前に用意した設計図も提示した。
それは主砲に57mm砲を採用し、2人乗り砲塔を使用し、さらに同軸機銃も採用し、全てにおいて溶接技術を取り入れた非常に洗練されたものであった。
装甲や機動力、エンジン等は今ある試作車と大差ないものの、同じ作るのであれば、夢幻会派が提示したものが遥かに良いように見受けられた。
当然、せっかく完成させた図面を真っ向から非難されては、感情的に納得がいかない者もいた。
設計を担当した三菱、加えて、同案に賛意を示している軍高官の面々であった。
喧喧囂囂の末、最終的に両者の案を元に試作車を製造し、競作させることとなった。
1934年6月。
双方の試作車が完成し、射撃試験・走行試験・運用試験が実施された。
結果としては、史実案がやはり史実通り当初の予定重量をオーバーし、夢幻会案も試作ということもあってか、7t以内に抑えることに失敗し、若干オーバーしてしまった。
それでも、機動力・防御力等は両車共に同等で有意な差異は無かったが、攻撃力においてはやはり57mm砲や同軸機銃を採用した夢幻会案が優れていた。
しかし、どちらも要求重量をオーバーしていたことから再度要求内に納まる試作車両の製造が指示される。
翌1935年11月。
完成した試作車は要求通り7t以内で納まった両案の増加試作車両の試験が行われ、
最終的に、転輪の肉抜きをして重量を抑えた史実案の第2次試作車と、
規定重量内に納まるよう再度製造し直した夢幻会案の改修型試作車による模擬戦が行うことで採用を決めることとなった。
模擬戦はウィッチ用に使用されるペイント弾を流用し、機銃による撃ち合いで、先にどちらかが全滅するかの殲滅戦で行われた。
結果としては1人乗り砲塔を採用した史実案車両は、指揮・射撃で隙を生じ、
2人乗り砲塔を採用している夢幻会案は、装填手を兼任する車長が、指揮に専念したことで有利に進み、
夢幻会案が勝利する結果に終わった。
こうして、勝利した夢幻会案が九五式軽戦車として採用され、直ちに渡満し、寒冷地試験を受け、翌1936年より量産が開始された。
185: ham ◆sneo5SWWRw :2018/01/08(月) 23:46:20
主砲には史実九七式中戦車で使用された18.4口径57mmの九七式五糎七戦車砲に準じた九五式五糎七戦車砲を装備している。
夢幻会としてはネウロイ戦に備え、装甲貫通力の高い砲を使用したかったが、この当時、世界的に対戦車砲は開発段階であったことと、
要求性能7t以内で収まる回転砲塔の戦車では、搭載できる対戦車砲はせいぜいが47mm級のもので、貫通力もたかが知れているため、
予定されている九七式中戦車の八八式七糎半高射砲を転用し、和製マルダーモドキを開発したほうが良いと割り切った。
この砲は、八九式中戦車の九〇式五糎七戦車砲と砲弾を共有しつつ、
初速向上や後座長短縮、駐退器防護、照準眼鏡の明度改善等の史実の改良に加え、
移動目標用目盛付与等の対移動目標(対戦車)能力を付与した機能性及び抗甚性を大幅に改善したものとなっている。
また、砲弾は八九式中戦車のものと共通であるが、それとは別に対戦車擲弾(和製パンツァーファウスト)開発の派生で成形炸薬弾も開発しており、
史実九七式五糎七戦車砲よりは対移動目標戦闘に対応した砲となっている。
車載機銃には史実の九七式車載機関銃に相当する九四式車載機関銃を主砲同軸で装備している。
九七式車載機関銃は、開発に際し紆余曲折したのだが、
夢幻会の暗躍により、早期にオストマルクから史実で参考にされたZB26のストパン世界版の機関銃を輸入していたことから、
史実の紆余曲折が無くなったため、史実より早く開発できていた。
また、従来は砲塔後ろに設置していた機銃を主砲同軸にしたこともそれまでの扶桑軍戦車と一線を画している。
というのも、今でこそ当たり前の同軸機銃は、この当時は採用されているほうが珍しかった。
史実の旧日本軍では、対歩兵戦時には砲塔を180度回転して機銃を前に回して使用しており、扶桑軍でも同様であった。
本車では、初めて同軸機銃を採用することで、砲塔の半回転する作業を無くし、着弾修正するためのスポッティングライフルを備えたことで、史実でも高かった命中率の向上にさらに寄与した。
表記されている装甲の傾斜角度は90度に対してである。
7tの重量制限が掛けられているため、砲に対しては弾片防御程度とし、小銃弾には耐えられるようにしている。
砲塔前&側面は1枚板の装甲板を、上から見ると背面を底板とした蒲鉾状の形に曲げ加工しており、背面の装甲板の左右両端に溶接している形となる。
砲塔装甲厚は16mmと、史実九五式軽戦車より4mm厚く、小銃弾程度では容易く撃ち抜けないようになっている。
加工にしやすさや量産性から、砲塔装甲は一律10度としている。
車体は前面は60度であるが、側面と背面は30度で一律とし、加工が容易になっている。
車体前面は12mmを、側面と背面は10mmの装甲が張られており、史実の九五式軽戦車や九八式軽戦車とは装甲厚はほぼ変わらない。
史実の九五式&九八式軽戦車の前面においては、操縦席部で段差が有る形状だが、本車では段差の無い完全な一枚板の傾斜装甲となっている。
186: ham ◆sneo5SWWRw :2018/01/08(月) 23:46:53
エンジンは史実九八式軽戦車と同じ統制型発動機の一つ、空冷直列6気筒型を使用している。
このエンジンは後の九七式中戦車の採用に際し、予てから提唱された規格統一による生産効率化のために統制型が採用された際に、軽戦車用として選択された。
馬力は130馬力を発揮し、出力/重量比では16.25hp/tと、九五式軽戦車と同等、あるいは若干優れている。
エンジンは九八式軽戦車のように横置きとすることで、シャフトを車体左側方に寄せ、戦闘室の底板を上げずに済んでいる。
また、車体前後長におけるエンジン容積を抑え、車内容積を出来得る限り確保している。
転輪は九八式軽戦車と同様に九五式軽戦車にさらに2個増えた6輪となっている。
サスペンションは日本戦車特有のシーソー式を採用している。
内部容積を確保するため、サスペンションの配置は外装式となっている。
また、史実の九五式軽戦車では御辞儀をしながら走ると称された上下動がなかなか減衰しない現象に対処するため、ダンパーを装備したりと可能な限り改善の努力をしている。
履帯幅は300mmが確保され、九五式軽戦車の250mmよりも広いことから、接地圧を大きく下げており、不整地走破性を高めている。
1次試作車での重量オーバーから、やはり誘導輪や起動輪の肉抜きなどの軽量化作業が行われている。
量産された本車は、憂鬱世界でも統一規格の概念の社内で広めていた倉崎翁によって部品が規格化されていたこともあり、ハイペースで生産が行われた。
また、翌年に扶桑海事変を控えていることを知っている夢幻会の後押しもあり、その生産ペースは平時であるにも関わらず、戦時を思わせるほど必死さがあったと当時の一般工員は語っている。
本車が量産化された後、倉崎内では転生者たちにより派生車両としてマルダーモドキや四式15cm自走砲モドキなどの多くの史実の車両をベースとした対戦車自走砲及び自走重砲タイプが自主的に設計された。
このため、扶桑海事変時には、これら設計案・魔改造案が多く軍に提出され、没になったり、少数で終わったものも有るが、
自走砲タイプの九七式中戦車と共に、撤退戦で大きく活躍することになった。
事変後もその汎用性から派生車輌共々生産が続けられ、
第二次ネウロイ大戦でも自走砲タイプに改造された本車が各地で奮戦し、
本土では多くの戦車兵を育成する訓練車両として愛され、
扶桑陸軍で幅広く使われることとなった。
以上です。
最終更新:2018年02月23日 10:45