607: yukikaze :2018/07/16(月) 00:16:49
ひゅうが氏ネタをちと補完してみる。
所謂『安政の大地震』は文字通り江戸幕府を消滅させた。
安政元年11月に起きた2つの地震は、商都大坂及び御三家筆頭が治める名古屋に壊滅的な被害を与え、これだけでも幕府の屋台骨に打撃を与えるのに十分であったのだが、それに止めを刺したのが翌年の浅間山噴火と江戸地震であった。
特に後者の影響は絶大という言葉すら生ぬるいもので、起きた時間が夕食時であったこともあって、地震だけでなく各所で火災が発生。しかも夕暮れ時で且つ大風が吹いていたという最悪の状況により、死者だけでも20万名を超える日本史上でも最大規模の災害になっている。
徳川にとってもはや踏んだり蹴ったりと言っていい状態であったが、悪いことは続き、この地震と地震で起きた火炎旋風により、江戸城や大名屋敷が多数倒壊したのみならず、夜により避難でごった返したなかで火炎旋風が襲ったことで、主だった幕府の要人のみならず、江戸にいた大名や江戸家老達の多くが鬼籍に入ることになった。
この大地震により、江戸幕府の統治機構は完全に崩壊した。
何しろ将軍を筆頭に、老中も若年寄も大半が死ぬか重傷、有力親藩や譜代大名も以下同文。
権力の空白を解消しようにも「誰が旗を振ればいいのか」すら分からない状態なのである。
後に明治政府が、不便であること覚悟の上で、官公庁の分散や権力の継承順を事細かに記したのも、この時の教訓を基にしたものであったが、統治機構が完全にマヒしたことにより、江戸近辺は完全に無法地帯と化すことになる。
この江戸の混乱は、地方にとっても他人ごとではなく、江戸の現状が分からないが故に、各藩とも現状が分かるまで動くことができず、やっとのことで分かった情報が、藩主や世子が死去乃至は行方不明という最悪な結果に至った大名家も数多く、結果的に浅間山噴火による天候不順及び流通網の混乱から生じる飢饉に対して適切な行動が取れずに、更なる混乱を生じさせるという悪循環を齎すことになる。
こうした中で、攘夷運動が勃発したのも無理はないことであった。
国学者たちを中心に湧き起っていた攘夷運動は、今回の一連の地震を『祖法による鎖国を止めたが故』とし、朝廷に対して『条約の破棄及び異人排斥』を声高にアピールしだしたのである。
これは、田沼時代以降、蘭学や洋学が持て囃され、国学者の影が薄かったことに対する彼らの暗い怨念もあったのだが、効果は絶大であった。いや・・・ありすぎた。
地震によって焼け出され、しかし行政機構が崩壊したことで寒空に投げ出された被災者たち。
天候不順による凶作と、流通機構の大混乱により人為的に発生した飢饉の被害者たち。
声だけはデカい国学者や在野の浪人達(彼らは自らを志士と呼んでいたが)が、冷静な判断を失い且つ感情的になっていた公家達のお墨付きの元、そう言う面々に対して扇動したらどうなるのか?
言うまでもない。暴徒と化した面々による大騒乱祭りの開催であった。
半ば野獣と化した暴徒の群れは、国学者たちの扇動の元『尊王攘夷』の旗を掲げて、外国との貿易港を目指して突き進んでいった。
『異人を入れたことで荒廃したのだから、異人を追い出せば元に戻る』
という、シンプルすぎる御題目は、そうであるが故に暴徒に受け入れやすかったし、ついでに言えば道中で略奪をする際にも『尊王攘夷』というお題目を唱えることで、邪魔をする者は『夷敵に通じた者』とレッテルを張ればいいのだから、怖い者なし以外の何物でもなかった。
そして彼らの暴走を後押ししたのが英仏露であった。
彼らにしてみれば、清への進出拠点として日本は絶好のロケーションであり、統治機構が天災によって消滅したということは、神の思し召しであると判断したのである。
彼らは本国に諮ることなく、半ば独断で既成事実の積み重ねを図ろうとしたのだが、それはあまりにもタイミングが悪すぎた。
608: yukikaze :2018/07/16(月) 00:17:36
横浜に上陸した英国。神戸に上陸したフランス。長崎に上陸したロシア。
彼らが『統治機構が消滅したのだから、この地は無人の地である』という宣言の元、領有をしようとしたまさにその時、飢えた暴徒たちが襲い掛かったのである。
当初は、碌な武器も持たないみすぼらしい格好をした彼らをあざ笑い、狩猟まがいに攻撃した3か国であったが、それも飢えと寒さで理性を完全に失っている暴徒の勢いに、1時間後には、沖合の艦艇に悲鳴交じりに艦砲射撃を依頼するも、無残な最期を遂げる羽目になっている。
この騒乱により、英仏露の先遣部隊はそれぞれ100名以上の死者を出すことになるのだが、日本側も3都市が艦砲射撃等によって灰燼となり、数千人近い死者を出す結末になっている。
この事件は特に
アメリカで反響を呼ぶことになる。
実のところ、アメリカも横浜で相応の被害を受けているのだが、アメリカの居留民にしてみれば、イギリス側が国際法を完全に逸脱して暴走したが故に起きた事件であり、完全にとばっちりと言っていい代物であった。
何よりアメリカ人にしてみれば、現地の人間が、独立を守るために、粗末な武器であっても勇敢に戦う姿を見るのは、かつての父祖を見るかのような気分に陥っており、北部の州が政治的に反英感情を煽っていたとはいえ、天災で打ちのめされながらも、独立維持のために立ち上がる日本に対して好感情を抱くことになる。
これは彼らに対して義捐金や食料の援助を申し出る声が後を絶たず、この時期漸く政権立て直しに奔走していた松平春嶽が、アメリカに対して心からの礼を表明したことで、少なくとも日米関係が政府レベルで悪化することは防がれている。(対英仏露が酷すぎたという点が大きいのだが)
一方で、被害を受けた英仏露においては、日本に対する報復の声もあったものの、現地部隊の独走という問題と、アメリカ側からの英国側の行動が明らかになるにつれて、政府に対する批判の方が強まってしまい、それ以前に英仏露とも、力を入れていたのがトルコと清への進出だったこともあって、奇跡的にこの一件が全面戦争に発展することはなかった。
もっとも、この騒乱の爪痕は、松平春嶽をして「天は徳川を見離したか」と、絶望に浸るレベルであった。
暴徒の通った後は、略奪と暴徒から蔓延した流行り病によって大打撃を受け、貿易港3つが壊滅。
幸いにも3国が賠償金云々を言うそぶりは見せていないものの、地方の混乱は沈静化するどころか東北での地震により、米所の仙台まで被害を受けたことで、万策尽きることになる。
1856年3月。
安政から文久に改元されたその年。
将軍代理として政局を担っていた松平春嶽は、朝廷に対して大政奉還を宣言することになる。
降ってわいたようなこの事態に、朝廷は「ちょっおま!!」となったものの、春嶽からは「幕府に何の相談もなしに国学者どもと結託して暴徒を使嗾されるようなところの面倒など見れません」という事実上の絶縁状を叩きつける有様であった。
勿論、統治能力などとうの昔に無くしている筈の朝廷側にしてみれば、この最悪の状況に責任を負えるはずもなく、かといって有力諸藩を頼ろうにも、東北は地震で大被害を受け、関東も以下同様。尾張や紀伊も同じで、土佐も宇和島も広島も余力がない。
長州は藩主と世子の死去というダブルパンチにより混乱が続き、筑前と肥前は長崎の騒乱の責任を取って自主的謹慎中。
頼みの綱は薩摩であったが、斉彬からは「英仏露の侵攻を考えて防備を固めねばならぬので参画は致しかねる」と断られたことで万事休すであった。
一部には国学者の登用を求める声もあったが、仮にそんなことをした場合、春嶽との関係が修復不可能なレベルに拗れるのである。
朝廷としては、国学者にホイホイ追従した公家達を処罰すると共に、改めて春嶽に対して政権に参与するよう勅を出す以外になかった。
そしてこれこそが、春嶽及びそのブレーン達の賭けであった。
彼らはこの非常事態に対して、朝廷からの委任状を獲得するために、大政奉還を行ったのだ。
朝廷から委任状を獲得した春嶽は、間髪入れずに有力大名に招集をかけると、かねてからの手筈通り動くことになる。
609: yukikaze :2018/07/16(月) 00:18:13
1856年4月 『列候会議』発足。幕政の最高決定機関であり、外様大名も参画が可能になる。
1856年7月 『五箇条の御誓文』発布。幕府が名目上終焉し、以後、『内閣制』になる。
1857年1月 『版籍奉還』内閣に参与する諸侯による内閣への領土と人民への返納。
混乱に疲れ果てていた大多数の藩も同意。
1857年3月 『府県制』発令。全国を47府県に分け、中央集権化を図る。
人材が全くと言っていいほど足りなかったことから、各藩の人材を効率的に
確保するためであり、短期的には混乱するも、概ね受け入れられる。
同月には『枢密院』が作られ、旧藩主達が交代で参画することになる。
1858年1月 松平春嶽、内閣府首座を、島津斉彬に譲り引退。
1861年3月 島津斉彬、病により、内閣府首座を伊達宗城に譲り引退。
1863年8月 伊達宗城、内閣府首座を鍋島直正に譲る。以後10年、鍋島時代になる。
1867年1月 孝明天皇崩御。明治天皇即位。鍋島、王政復古の大号令を発布。
(内閣制と朝廷との合一)
1873年1月 鍋島直正、内閣府首座を、肥後の横井小楠に譲る。列候による支配体制終焉。
以後、日本は、アメリカとの関係を緊密にしつつ、近代化への道を猛然と駆け上がることになる。
611: yukikaze :2018/07/16(月) 00:34:38
取りあえず最悪な状況の中でも幸運が入ったケースで考察。
大地震によって幕閣だけでなく有力大名の半数近くが鬼籍に入ったことを考えればこの時点で幕藩体制維持を図るのが無理になっているということ。
何しろ幕府の役人の何割かだけでなく、各藩の江戸詰の藩士も失っている訳ですから。
なので『災害により行政機構が機能しない』状態に藩を追い込んだことで、結果的に版籍奉還と府県制度を導入させる論拠としています。
まあ各藩の人間にも利益があって、上手くいけば中央政府の役人として働ける訳ですから特に若手藩士にとっては絶好の機会になったりしています。
英仏露については間違いなくちょっかい出すでしょうし、これだけの天災があれば尊王攘夷運動が勃発するのも必然でしょう。
アメリカに対しては、数々の誤解から政府間レベルの関係は良好で、民間でも、米国からの義捐金により、大漁のインディカ米を輸入して『アメリカからの義捐』としたことで『夷敵だけど礼を知る存在』として、関係は悪くはありません(英仏露が悪すぎたとも言えるが)
列候会議が開かれる以上、薩摩は春嶽との良好な関係を維持します。
長州についてはどうなるかわからんので、藩主父子を鬼籍に入れることで政治的に動けなくし吉田松陰や木戸孝允を政府に入れたことで、暴発を防いでいます。
内閣制のイメージは、横井になるまでは、どちらかというと大日本帝国時の内閣制
横井以降は、平成の再編以降の内閣制になります。(アメリカの影響あり)
まあこの後、すったもんだの末に、80年代に議会と憲法が開設され(ここら辺で木戸と大久保。それに橋本佐内が活躍)
90年代に伊藤博文が主役になる訳ですが。
西郷? 斉彬の遺命により、北海道で屯田兵鍛えて睨み効かせた後、橋本か大久保の勧めで、明治天皇の侍講になっているんじゃないかと。
西郷は、橋本と久坂については一目置いていたようなので、この2人のうちどちらかいれば何とかなるかと。
しかし・・・これも幸運に幸運を重ねたシナリオだよなあ・・・
615: yukikaze :2018/07/16(月) 00:54:50
ちなみに公家にとっての地獄は、まさにこの王政復古の大号令でしてこれによって完全に『公武一体』となったとされたのですが、「もう朝廷によって振り回される奴もおらんやろ」ということで天皇以外の権威を全て剥奪される羽目になります。
結果的に、政治家としても有能だった岩倉はともかく、それ以外は『名家』として生き延びましたがその程度でしかなく、家業を持っている公家を除いては、努力して軍や官界に入らない限り没落する羽目になります。
まあここら辺は旧大名家も似たようなもんなんですが、旧大名家が『枢密院』に交代で参画したことで、枢密院が人材のプールとして機能できていたのに対し、公家にはそういったのがありませんでしたので、大名よりもハードル高くなっています。
なお、どこかの誰かさんが華族制度の欠点を知りぬいていたためか、1880年代以降、学習院の改革が重要視されており、これに西郷が一枚噛むことになります。
最終更新:2018年07月20日 13:59