625: ひゅうが :2018/07/16(月) 01:56:15
日本列島は西暦1854年から1855年にかけてのごく短い期間に相次ぐ大規模地震に見舞われた。
それぞれ単体ですら巨大であったのに、地球からすればほぼ同時というべき時間差で日本列島を打ちのめしたこれらの大震災は未曽有の被害をこの弧状列島へと与えた。
当然ながら歴史に与えた影響もまた巨大であった。
首都圏といわれた関東平野一帯は2度の大規模地震とそれに伴う火災旋風におそわれ、さらに耕作地への降灰もあって完全な飢餓地獄と化した
商都大坂は大津波によって1000年前の住吉海に戻ったかのような状態になっていた。
当然ながら、旧石山本願寺の上に築かれた城郭は崩れ去っている。
尾張名古屋に至ってはさらに悲惨だった。
江戸と大坂をあわせたような被害を受けており、御殿はともかくとして名古屋城天守閣の焼失は「城でもつ」といわれたこの土地を精神的にもうちのめしていたのだった。
状況は東海道から南海道にかけての諸藩から、白河以北を薙ぎ払ったと称される大津波に襲われた東北諸藩もまた同様だった。
何より深刻だったのが、江戸幕府と呼ばれる存在が物理的に消滅していたことだろう。
早い話、日本列島はこの瞬間、無政府状態になっていたのだ。
このような状況を見逃すほど、いわゆるグレートゲームの渦中にある列強諸国は甘くはない。
香港駐留の大英帝国東インド・中国艦隊は直ちに出動。比較的被害の少ない瀬戸内海を経由し大坂へと向かう命令を受けていた。
外套と短剣を持った長い手は、幕府統治機構の消滅と共に京都と呼ばれる都市にある古代王朝の存在価値が激増したことを的確に認識していたのだ。
それに、クリミア戦争の只中、中立地帯として位置付けられた日本列島で生じた大規模天災に乗じて強欲なロシア熊が何をするのかわかったものではないというのっぴきならぬ事情も存在していた。
これに対し、オホーツク駐留の帝政ロシア太平洋艦隊もこの動きに呼応。日本海沿岸の対馬を占拠し、同時に比較的被害の少なかった新潟への海兵隊展開を既成事実化させようとした。
ロシア側にとっても、日本列島を大英帝国におさえられては極東はおろか赤字経営と化しているとはいえれっきとした自国領たるアラスカを失うことにもなりかねないのだ。
帝政フランスはいつものようにこれに追随しただけだった。
だが、いくらかの幸運も存在していた。
ひとつは、英露のトップが極めて理性的な人物だったことである。
英国側のジェームズ・スターリング提督は基本的に軍人然とした人物であり、香港総督の命となる「ロシアに日本列島を利用されないようにする」という独断の命令を律儀に守ろうとした。
ロシア側のエウゲーニィ・プチャーチン提督は温厚かつ人種的偏見の少ない人物であり、帝政ロシアの矛盾した一側面を体現したような男だった。
さらには、領土欲と功名心に燃える各艦長や植民地在住の山師に近い人々とは違って彼等の目的がいわゆる「保障占領」だったことも日本側にとっては大きな助けとなった。
要は、彼らにとっては「日本列島が敵に利用されなければそれでよい」状況であったのだ。
そして、このとき混乱を極める日本側に対して手を差し伸べた男がもう一人いた。
マシュー・ペリー
アメリカ合衆国海軍太平洋艦隊司令長官という肩書を帯びて来日しようとしていた彼の目的は、クリミア戦争下で緊張の度合いを増す極東情勢に鑑み、アメリカ側の縄張りと認識していた日本列島周辺に出没する英国艦隊への牽制であった。
そして彼の手の中にはウィンフィールド・スコット米国大統領の親書が存在していた。
宛先は「日本国天皇」。
彼は全権特使であったのだ。
地震発生3日前まで琉球王国へと滞在していた彼は、洋上から炎上する日本列島を望見するや事態を把握。
乗り込んできた熊本藩士(彼らは相模湾警備を命じられていた)の提案により、大坂へ向かうことになる。
彼の主君たる細川斉護は、福井藩主にして幕政参与の松平春嶽に正室を出していた。
こうして、歴史に残る「神戸談判」の幕は上がる。
ペリー艦隊は瀬戸内海を通ってやってくる英国艦隊の前に立ちふさがり、また同時に京都守護のために上洛した松平春嶽は朝廷から徳川家茂への将軍宣下とあわせ政府総裁職への勅許を得たのである。
その頃には、舞鶴を発した幕府海軍艦艇が対馬および新潟方面へと進出。
当初、幕府機能喪失にともなって国学者たちをあおりたてていた京都の公家衆は、英露仏の大規模艦隊が日本本土を占拠しようとやってきているという大幅に誇張された事実にあっさりと寝返りを打った。
かくて、にわか仕立ての日本政府の人々は福井藩に出仕していたある熊本藩士の示した提案を丸のみする条件を整えた。
「日米同盟」がその一手だった。
626: ひゅうが :2018/07/16(月) 01:57:53
とりあえず強引ですが、こんな感じにしてみました。
ごめんよ…東北諸藩はぶっちゃけ存亡の危機なんだ。
628: ひゅうが :2018/07/16(月) 02:05:56
とりあえず歴史的変更点
1.ザカリー・テイラー大統領は猛暑のワシントンDCでキュウリと牛乳をとるのをひかえたようです
2.カンザス・ネブラスカ法?あいつは死んだよ
3.ホイッグ党が早期に分裂!ついでに共和党、4年早く爆誕
4.フランクリン・ピアーズ?ああ、早すぎたオステンド・マニフェストと一緒に沈んだ(過去形)
5.合衆国の分裂を避けるのだ…(妥協)
629: ひゅうが :2018/07/16(月) 02:09:35
627
ああごめん。大阪城は地震で崩落ですね。ただし天守のみ
631: ひゅうが :2018/07/16(月) 03:40:34
630
いいえ。「一時的に危機は去った」というところですね
実は1850年に一度南部が分離しようとする「1850年の危機」を迎えております
ザカリー・テイラー大統領はよせばいいのに猛暑のワシントンでナマモノ食べてしんじゃったのですが、対南部強硬派でした
それが生き続けたために妥協的な対南部政策でかえって事態を悪化させることはなく、順当に危機感が高まり続けました
ここで史実で行われたのが奴隷州であるところの南部への大幅な譲歩となる「1850年の妥協」です。
史実ではこれで北部自由州の保守政党であったホイッグ党がグダグダとなって結局衰退、民主党と最悪の大統領といわれるフランクリン・ピアースに政権をかっさらわれることになりますが…
歴史変更によって、強硬政策に反発するホイッグ党の奴隷容認派が脱党するという事態が史実以上に早く発生
同時に、ホイッグ党の非奴隷派と強い連邦政府をおす旧連邦党の一部が合同し共和党が誕生するのも早まりました。
これによって、米国の国民的英雄であり陸軍総司令官だったウィンフィールド・スコット将軍が政権につくことになりましたが…
一応は南部へ一定の配慮を示しましたよ、という感じですね
なお、このスコット将軍は史実南北戦争で南部海上封鎖といわゆる「アナコンダ・プラン」を立案したように海上機動力重視という異端の陸軍将軍
そしてガチガチの反英派でもあります
最終更新:2018年07月20日 14:12