166: ひゅうが :2018/08/05(日) 01:50:07
「この者はなぜ跪かぬのか?」
――孝明天皇 京都御所にて
「陛下。おそれながらわが祖国におきまして跪くのは大逆の罪人が斬首と相成る場合においてのみでございます
しかしながら不跪の御不敬となるはわが祖国の恥。ゆえに衣冠束帯にて御前にまかりこしてございます」
――マシュー・ペリー 京都御所にて
――近代の大日本帝国とアメリカ合衆国の公式の接触は1855年1月15日となる
当時の大日本帝国政府は朝廷からの依頼を得て組織された臨時政府のようなものであった
それゆえ、全権委任を得ていたとはいえ国際条約の批准に関してはすべからく天皇の親裁を仰がなければいけなかったのである
そしてそこに大きな問題があった
当時の孝明天皇は朝廷の伝統にのっとり伝統主義者であった
つまりは国学者たちにとって都合のいい攘夷思想のシンパであるといってもよい
列島群発震災という非常事態であるがゆえに改革派が押し切ることができたが、そのための副作用もまた絶大であった。
具体的には、しぶとく京都へ戻ってきた公家たちが旧来の因習を引っ張り出し、洋夷の朝貢を要求してきたのである。
それは田沼時代以来、強力な幕府の手でおさえこまれていたそれは攘夷の最過激派の主張だった。
長崎および下田などの開港地に駐在しており江戸に比べれば被害をおさえられた幕府外交方が聞けば卒倒しそうな話である。
そして、このとき大坂湾に展開していた「御親兵」は朝廷が直率する北面の武士と同じとされており、朝廷の自由に動かせる義勇兵も数多く含まれていた(史実の天誅組)
ゆえに洋夷をひっとらえて京都まで連行せよという過激派公家からの命令が一時期は本気で実行されそうになったほどだった。
だが、これをおさえたのも寄り合い所帯であるがゆえに京都を過剰に警戒していた御親兵派遣組の各藩開明派たちだった。
その優れた知性で現場に出てきた過激派国学者どもを論破し威圧する中、英語を話せたがゆえにペリー一行に対し事情が説明され、そして一計が案じられた。
こうして1855年1月13日、無位無官であるために御所前の地べたに座らせようと手ぐすねひいていた公家たちは、「衣冠束帯姿の」ペリーおよび「洋装姿(幕府海軍大将正装)の松平春嶽」という二人を迎えることになったのであった。
インパクトは絶大であった。
何より、700年近くを京都周辺に閉じ込められていた天皇その人の興味をひいた。
鴻臚館の前例を持ち出してつけられた通訳 中浜万次郎がほぼ完璧に言葉を訳したこともあり、ほぼコミュニケーションに不自由はなかったという。
特に天皇を感激させたのは、特命全権というその概念だった。
権限においてこの異国の使者は、異国の首長と同権であってその決定には特段の事情がない限りあらゆるものが疑義をはさめないのだという。
となれば、目の前にいる者は外国の王と同じことではないか、と。
問答がはじまり、未知の知識が満たされるとともに孝明天皇は激怒した。
「この者がただの朝貢の使者などとはとんでもない。むしろ朕が地におり話をせねばならぬではないか。」
言を左右にする公家たちも、この異常事態においては後手にまわった。
このときこの瞬間において、孝明天皇は後醍醐天皇の建武新政に匹敵する絶大な権力をふるっていたといってよいだろう。
そしてそれは日米両国関係にとって極めてよい方向に作用した。
結局、昇殿をゆるした孝明天皇はその後1週間にわたって「ご説明」にきた新政府の学者(佐久間象山や宇田川興斎など在京のものが多かった)たちと共にペリーやついでに春嶽らと語らい、熱心な開国・親米派へと変じてしまったのだった。
帰国時には前代未聞の河内行幸を果たし、ペリーに対し官位を授けようとしたほどであった。
なおこの一件がもととなり、日本の勲章制度が設けられることになるのは余談である。
こうして、過激な国学者や公家たちは今度こそ完全に政治的命脈を断たれた。
以後13年間の孝明天皇は熱心な富国強兵・殖産興業の支持者となり、続く明治天皇の時代、復興を果たした日本は一気に列強の座へとかけのぼっていくことになる。
が、その前にはもうひとつの「産みの苦しみ」が必要だった。
167: ひゅうが :2018/08/05(日) 01:51:28
とりあえず書いてみた。
たぶんペリーさん、コスプレ的なノリだったのでしょう。
跪かずともよいというのはアヘン戦争前の清国宮廷でのやりとりを把握していた新政府側の出した条件だった模様
最終更新:2018年08月09日 15:02