755: 弥次郎 :2018/10/16(火) 18:40:37 HOST:p2729046-ipngn201308tokaisakaetozai.aichi.ocn.ne.jp
日仏ゲート世界SS「サロンで一勝負」
アンリ4世の治世下に置いて、とある催しが産声を上げていた。
カトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌが始めた「サロン」である。
彼女はフランス人へと帰化したイタリア人であり、そのルーツ、あるいは根底にはルネサンスやローマの風紀が存在していた。
語学をはじめとした学問や芸術に通じ、身のこなしやその着こなしなどは宮廷内でも優れており、衣装係を任されるなど才能を発揮していた。
さて、このカトリーヌ夫人はフランス人に帰化した後も、アンリ4世の宮廷の在り様に不満を抱いていたのである。
最先端を行っていたルネサンス・ローマに親しんでいた彼女には、ほんの少し前まで戦争が続き、国土だけでなく、人の心や文化・風紀までが荒んでいる状態のフランスにはなかなかなじむことが出来ずにいた。
そこで、秩序と風紀が優れた、優雅さのある空間が必要だと判断し、初めて「サロン」を主催したのである。
服装・振る舞い・喋り方などはこれまでの宮廷のそれとはまた違ったものが求められ、互いに不快感を与えず、快適に過ごせるように振る舞う---粗野な世の中、粗野な宮廷だからこそ、規範となるような空間が求められたのだった。
これらが貴族そのものの在り方に大きな影響力を及ぼしたことはいうまでもない。
このサロンは、単なる集まりというよりは、あらゆる分野の人々が垣根を越えて集まり、階級に気兼ねすることなく、おのれの持ちうる知識や技能を社交の場で披露め互いに刺激し合い、評価し合うという一種の学問的な要素を含むものであった。
実際、彼女の主催したサロンには国王家から名門貴族、文人、詩人などが集い、文学についてや演劇について議論が交わされたとされる。
さて、このサロンへと異国から---ゲートを通じて交流が始まった日本からもたらされたのが、卓上演戯であった。
仕切られた個室あるいは空間を必要とするとはいえ、ダイスとメモと筆記用具、そしてルールブックなどがあればできるこれらは、それぞれに割り当てられた役割(ロール)を如何に知的に、そして如何に楽しんで演じられるかが重要であり、サロンに求められていた要素がピタリとはまるものであったのだ。
当時の日本は織田幕府統治がある程度安定を見せたころであり、一般の庶民が楽しめる娯楽というものが求められた頃であった。
卓上演戯そのものは軍事的な図上演習や将棋などの発達と反比例して衰退していた頃であったのだが、新たな娯楽を求めた文人たちが、過去の記録、特に盛んに卓上演戯が行われていた平安後期の頃の資料を調べ、再度体系化を図ることで急速に復興が進んだ。
その復興は、これまでの図上演習などとはことなり、特定の目的を目指してプレイヤーどうした協力を行う物やプレイヤー同士がライバルとなって競い合う対戦型、あるいはゲームマスターの即興ネタを盛り込む趣味レーション型など、数多くの種類が生まれ、爆発的な勢いで派生型が生まれて行った。この人気の発生の原動力には、手ごろにルールを学べる演戯則本(ルールブック)やプレイの顛末を記録してまとめた演戯録本(リプレイ)を貸本として広め、不特定多数の人間の興味を引き、たとえ参加できなくとも卓上で繰り広げられた熱戦を楽しめるようにしたことも影響しているとされる。
フランスへと伝来した具体的な時期については諸説あるのだが、少なくとも交流開始から十数年内には既にフランスに持ち込まれ、この世界最初のサロンへと持ち込まれたことから、1600年代から1620年代のおよそ20年ほどの間のこととされている。
丁度この頃織田幕府の統治下にあった
日本大陸においては長らく続いた戦乱からの復興で、その反動ともいえる庶民文化の発展があったこと、さらに織田家の天下統一事業で各所に散らばっていた資料が集められて編纂が行われたころと一致するため、ほぼこの時期であると確定されている。
756: 弥次郎 :2018/10/16(火) 18:41:19 HOST:p2729046-ipngn201308tokaisakaetozai.aichi.ocn.ne.jp
さて、この卓上演戯であるが、フランスに持ち込まれた後は独自の発展を遂げていた。
既に平和というものを一部なりとも享受し始めていた
日本大陸と異なり、アンリ4世の治世を迎えていたフランスは未だに戦争の面影があった。
既に勲章や立てた武勲で競い合う時代が終わっており、その穴を埋めるようにして社交界、サロンが発達したのであるが、過去の、あるいは架空の戦場をモチーフとした卓上演戯というのは彼等にとっては懐かしき時代の面影を残す遊戯であったのだ。
勿論この時代にはチェスというものもあったのだが、チェスより複雑である代わりによりリアルな、不確定要素やランダム要素があり、運が絡んでくるという先の読めなさもあって人気を二分するほどの発展を見せることになる。
また、
日本大陸において最も古い部類の卓上演戯教則である「竜穴記」は、冒険を行い、竜や魔物を退治するという、ヨーロッパの人々にとってはなじみ深い伝説や叙事詩などに通じるものであり、プレイヤーが卓上の上とはいえ、それを再現し、挑戦していくという途方もない快楽をもたらしたのだった。
テーマは様々あった。シャルル・マーニュ伝説に始まり、アーサー王伝説、ギリシャ神話、シャンソン・ド・ジェスト、ミンストレル、トリスタンとイゾルデなどなど……所変われば品変わるの言葉通り、現地の、欧州の伝説や伝承を巻き込んで発展していった。
そして、これらの卓上演戯は貴族だけでなく、技術や道具の進歩、そして何より平穏が訪れたことで余裕が生まれ始めた庶民へも広まることとなる。
やはり市民同士の交流で持ち込まれた、という説が一般的であり、具体的な伝来の年は明確にされていない。
少なくとも1629年には当時のオルレアンにいた商人が日記に卓上演戯と思しき遊戯について記載していることから、貴族や王族とそう大差なく広まり始めたと思われる。
庶民向け、ということもあり、簡素なルールな卓上演戯が流行る傾向があった。
サロンという場に持ち込まれたために、サロンという規範に合わせて変化した貴族向けとは異なり、庶民が求めたのは手軽な娯楽であり、知識や経験というバックグラウンドを抜きに楽しめるものが楽しみやすかったようである。
その為、人生ゲームや推理ゲーム、あるいは身分を超えて立身出世する類のゲームが多く生まれて行った。
変わり種では、農場あるいは商店の営業シミュレーションという、働く側である庶民らしさも溢れるものもあった。
流石に個人で所有というのは難しかったためなのか、庶民向けのこれらは休息所や大きな商店、あるいは村の公共施設に設置されることが多かった。その為、ローカルルールやローカルシナリオも多数派生し、独自の改訂まで行われるほど定着を見せていく。
この庶民レベルでの普及というのは、思わぬ影響をフランスへともたらしていることをここに記しておこう。
まず、識字率の向上である。卓上演戯を楽しめるにはまず文字と数字を理解しなければならず、ルールブックを理解できなければ話にならない。
アンリ4世の治世下で一般庶民向けの初等教育というのは少しずつしか進まなかったのだが、むしろ庶民の側が学ぶ方向に進んだのである。
さらに、何とも飛躍しているんじゃないかと思われるが、徴兵される兵士の質が向上したのである。
これまた識字率とルールブックに従うというある種の慣れが、彼等の間には確立されていたのだ。
おまけに、少し余裕のある庶民の間では戦争シミュレーションが流行っており、一兵卒でありながらも地図を挟んで議論し合うという、他国では見れないような事態が発生していたことをここに記しておく。
卓上演戯。
たかが遊び、されど遊び。
フランスで大きく発展し、フランス独自の形へと変化を遂げた卓上演戯は、今日もどこかのサロンや街角のカフェで行われていることだろう。
あるいは電子上の、インターネットの上で、国境をまたいでプレイされているかもしれない。
小さな、しかし大きな影響力を放った遊戯は今日もプレイされ続けているのである。
757: 弥次郎 :2018/10/16(火) 18:42:03 HOST:p2729046-ipngn201308tokaisakaetozai.aichi.ocn.ne.jp
以上、wiki転載はご自由に。
ふと思いついたので、wikiを参考にしながら書いてみました。
私はTRPGとかやったことはないので何ともいえませんが、こんなことが起こってもいいんじゃないかな、とw
最終更新:2018年10月18日 10:39