97: 弥次郎 :2018/10/28(日) 22:04:43 HOST:p2729046-ipngn201308tokaisakaetozai.aichi.ocn.ne.jp
【前史】日仏ゲート世界 夢幻衆は大友征伐をさっさと終わらせるようです






西暦1586年、九州平定の前段階として、まず九州全体に向けて発布されたのが九国停戦令であった。
朝廷をも動かして発布されたこれは、平たく要約すれば「九州の戦乱は朝廷のお墨付きを得た織田家が調停するから、大名たちは直ちに争いをやめるように。やめなきゃ織田家が相手をするぞオラァ」といった感じの命令であった。
この命令において、大友家及び九州のキリシタン大名が名指しで批判の対象そして討伐の対象となる旨が記されており、「朝敵」と明言こそしなかったが「九国の惨状甚だ悪し、その元たる大友らを討つべし」とされていた。
だが、嫌がらせの如くそれを匂わせる文言を含ませたことで、これを受け取った大名は、特に大友は、絶望の淵に立たされたことは間違いない。
史実においては織田家との関係を強化することで島津氏との和睦を検討していた宗麟は、信長が生存していることに一縷の望みを託していたのだ。
その信長が自分の首を狙って迫って来ることが明らかになったのであった。事此れにいたって家中の分裂はもはや止めようもないものとなる。


また、朝廷の名で各大名は侵略を自粛するようにとの命令書が送られ、この惣無事令に乗っかって大友を攻めんとする島津を牽制。
邪魔をしたり、新たな争乱を引き起こせば討伐の対象とすると明言していた。史実と異なり平家の末裔を称した信長が、本流たる朝廷の許可を得て発した命であったために、源氏嫡流を称した島津も流石に動くに動けない状態となった。
とはいえ、織田家も、夢幻衆も嫌々ながらも島津を相手にドンパチやることは最初から計算のうちに入れており、島津家も島津家でこれまで得てきた九州の土地をタダで手放すことなどできるはずもないため、戦争の準備は双方で進められていた。
島津にとっての運の無さは、宗麟の本拠たる臼杵城が織田郡のターゲットに選ばれてしまったことであろう。
そこを抑えれば、残りの大名たちも反抗の芽が出ることはなくなり、あとは九州全体についてはどうとでもなると踏んでいたのだ。
だが、そこに割って入られた。いや、どちらかといえば九州平定を目指していた自分達の戦いが実質的に露払いになってしまっていたのだ。
島津義久が和睦に応じる構えをみせつつも戦争の準備を続けていたのも、これに立腹していたことも要因とされている。

さらに織田家は先んじて余計なことをしでかしそうだった征夷大将軍の足利義昭を出家に追い込み、史実のように九州太守の地位をうっかりでも与えるのを阻止した。これはどちらかといえば夢幻衆の入れ知恵であったが、少なくとも島津の持つ大義名分の一つを奪うものであり、先んじて行われていた交渉も織田家優位に進んでいた。

そして、西暦1586年10月、九州平定並びに大友らキリシタン大名の討伐の先鋒として毛利輝元を大将とする軍が九州に上陸。
さらに島津へのけん制として長曾我部元親らを大将とする軍もほぼ同時期に九州へと上陸、展開した。
これらはあらかじめ決められていたことや、文官制度を夢幻衆が十分に整えていたこともあってスムーズに進行。
各地に斥候を放ちつつも現地に陣地を設営。また、今回の平定にあたって味方勢力となりうる反カトリック勢力との接触を図った。

98: 弥次郎 :2018/10/28(日) 22:05:16 HOST:p2729046-ipngn201308tokaisakaetozai.aichi.ocn.ne.jp
さて、これに対して大友宗麟が具体的な手を打つことが出来たかと言われると、Noであった。
まず織田家と朝廷から突き付けられた書状で自分達が朝敵認定一歩手前ということで家中がさらに割れてしまったのである。
ついで、辛うじて維持されている領内でも同様の立札が立てられてしまい、反カトリックの機運がここぞとばかりに高まり、一揆まがいの暴動が各地で起き、さらにはそれに乗じた犯罪まで増加する有様で、領土防衛どころか領内をまとめることさえ危うくなりつつあったのだ。
これも織田軍の先鋒が放った斥候や諜報の人間の仕込みであり、これを以て大友の後方攪乱を行っていたのだ。
まあ、もともとの時点ですでにガタガタであった大友に対してはこれ以上の追い打ちは不必要だったかもしれない。
だが念には念をということで、彼等は解き放たれていた。
さらにその間にも島津による侵攻は続いていた。島津家が発布されていた停戦令を無視してでも進めたのは、しかも織田家と大友家を交えた交渉の間も侵攻を続けていたのは、織田家本隊が到着する前までに九州平定を自軍の手によって成し遂げ、
九州の実効支配を各個たるものとして確定させ、それを承認させる目論見があったとされている。

さて、織田軍が上陸し、展開したころの島津軍は史実通り大友の有する鶴ヶ城を攻撃せんとしていた。
これに対して救援、というわけではないが、これ以上島津に領土切り取りを赦すわけにはいかない織田軍はこれに対処することになった。
戸次川を挟んで相対した両軍だが、織田軍は自ら攻撃を仕掛けることを良しとしないコンセンサスがとれていた。
というのも、今回島津軍と相対しているのはあくまでも時間稼ぎであり、島津軍と直接戦闘が目的ではなく、本隊が到着し、大友征伐を完了させることが目的であったためであった。

もし仮に戦闘が起こるとすれば、それは島津の方から戦端を開かれなくてはならない。
建前的に織田軍は九州の戦を止めるために来たのであって、侵攻を行うために来たわけではないからだ。
自分から仕掛けることは、その大義名分に背くことになる。よって、相手の動きをけん制し続けることが肝要だった。

これに対して島津家久は織田軍の目的と狙いを把握していたが故に、身動きがとりにくくなってしまった。
鶴ヶ城を別個に攻める必要があるが、それさえも織田軍は自軍への攻撃のきっかけとすることは間違いなかった。
つまり、自分達にできることはここに陣を張り続けて織田軍の動きを拘束し続けるか、それとも打って出るかであった。
勿論撤退というのも選択肢の中に含まれてはいたが、相手が高い確率で追撃してこないということも勘案しても選びにくいものだった。
これまでは交渉などの間ということでグレーゾーンではあったが、ここから先は完全に黒、アウトの領域である。
ここで無理にせめて仮に勝利したところで、あくまでも織田軍にとっては戦略的なレベルでの敗北とはならない。
確かに将兵を失うことにはなるのだろうが、最終的には島津に非があるという大義を与えてしまい、そのリベンジを果たされることが明白だ。
よって、家久はしばらく陣を構えたままのにらみ合いを指示。同時に後方、当主の義久の元に使者を送って状況を報告し、指示を仰ぐことにした。

その義久であるが、苦渋の決断ではあったが「織田方から攻撃を仕掛けてきたら反撃せよ、それまでは動くな」と命じるほかなかった。
事実上の大友領への侵攻の停止命令に等しい。二度目にはなるが、苦渋の決断である。だが、ことは政治が絡んでいるのだ。
殊更に、グレーゾーンで押し切れるリミットを既に通り越しているのだ。以降、島津の動きはほぼ停滞し、様子見へと移っていく。

99: 弥次郎 :2018/10/28(日) 22:06:18 HOST:p2729046-ipngn201308tokaisakaetozai.aichi.ocn.ne.jp
そうしている間にも、織田軍は前年のうちから整備を進めていた中国地方の街道や、史実よりも建造された大型船などを利用して進軍。
猛烈な勢いで九州目がけて軍勢を進めていた。事が事だけに織田信長自らの出陣も決まっており、その露払いは入念に行われることになっている。

また、織田軍は長期遠征になることを見越しており、兵站管理と構築に余念がなかった。
史実でさえも、秀吉は30万人分の兵粮米と馬2万匹分の飼料を1年分調達することを命じている。
さらにその過程で消費された物資のことも勘案すればそれ以上の量を秀吉は費やしたということである。
まして、この世界は日本列島ではなく日本大陸世界。動員可能な兵士の数や馬の数は倍どころの話でなく、必然的に消費される物資及び必要となる馬、船、その他道具類も膨大な数に及んでいる。

これは夢幻衆の予測も込みでの話であったが、九州平定は単なる戦だけでなく、九州の領地の割り振りの他、戦災復興やカトリック勢力のやらかしの後始末という面が残っているのだ。
最低でも3年以上は費やすことになるだろうし、今後の発展のためのインフラの整備や行政の取りまとめを含めればもっとかかる。
それが完了するまで滞りなく後方からの支援を続けなければならないのだ。

他にも、織田軍が兵站を重視し、過剰ともいえる量を持ち込んだのはもう一つ理由が存在した。
現地の勢力が合流したことによる、援軍の発生である。現地の協力者がいることに越したことはないのだが、流石に増えすぎれば織田家の兵站にも負担がかかってしまうし、指揮系統の混乱や行軍速度の低下も考えられる。
これは正直なところ、扇動が少し効き過ぎてしまった弊害とも言うべき現象であった。
まっとうなキリシタン勢力に反カトリック勢力、ここぞとばかりに点数稼ぎをしたい降伏済みの勢力、大友から抜けてきた武将など、織田家に味方する勢力が膨れ上がってしまい、その整理や戦力としての割り振りに追われてしまった。

だが、そのおかげもあってか、織田軍の侵攻計画はより具体性を増していった。
地形、砦、支城、城、後方となる地域、進むべきルート、野営に適した場所など、膨大な量の情報を得ることに成功し、偵察や斥候の情報とあわせることでもはや盤石と言っていい態勢であった。

そうこうしている間に年も明けて1587年。
四国勢および中国勢を主力とする先鋒が遂に大友勢力と激突し、いい感じに押し込み始めたころ、遂に織田本隊が九州への上陸を果たした。
先鋒の戦闘が優位に進んだのもやはり降伏あるいは寝返りした勢力によって譜面上の戦力が増加し、遠征故の地理や情報の不足が無かったことで、
その足並みや進軍を妨げるものが無かったことに由来している。

大友家は、この段階でかなり軍勢としては疲弊状態にあった。
なにしろ島津との連戦で多くの家臣を失い、おまけに事実上の当主である宗麟が碌にかかわらずに引きこもり、朝廷の発した命によって士気はどん底という有様であり、最前線の地域に限らず武将や領民の織田側への離反が相次いでいたのだ。
むしろ、士気が低く蹴散らされることが多いとはいえ、遅滞戦闘や防衛が一応できる状態を保っているのが奇跡的ともいえる有様であった。

さて、戦争が継続されながらも両者の間で落としどころを探り合う交渉は当然のことながら行われていた。
交渉というよりも、織田家がつきつける要求を如何に大友家が飲むか、というレベルの強迫であった。
最低でも当主一族の身柄及び奴隷貿易に関与した人間の引き渡し、宗教的な虐殺及び破壊活動を行った分の補てんなどが。
さらに、朝廷からも誠意を見せ、尚且つ相応の詫びを入れるようにと要求がつきつけられていた。
これらをまとめて飲み込めば、異教狩りに加担した家臣および宣教師などを除けば目こぼしをしてやる、といった具合であった。

100: 弥次郎 :2018/10/28(日) 22:07:13 HOST:p2729046-ipngn201308tokaisakaetozai.aichi.ocn.ne.jp

大友家に、選択肢などある筈もない。
交渉の間にも織田軍は本隊が到着して快進撃を続けており、立花宗茂らの奮戦を以てしてもそれは止められずにいた。
頼りになれる勢力などあるわけもなく、また海路についても織田水軍が包囲網を構築しているために高跳びという手も取れない。
まさかこの状況で薩摩が自分達の味方をするはずもないし、宗教関連のつてを頼るとしてもそれはあまりにも望み薄いもの。
織田が名指しで奴隷貿易について明言して関係者を処断すると言っている以上、頼りにはできない。

「もはや致し方なし」

ここまできて、腹が決まらないほど大友宗麟および義統は愚かではなかった。
もはやこれまで。大人しく軍門に降る方が遺恨も残すまいと腹をくくった。
大友家の家臣団は、表にこそしなかったがほっとしていた。
おのれの主君が苦しんでいることは分かっていたし、かと言って晩節を汚すのを見ていられるほど彼らは薄情ではない。
取り返しようの無い罪を犯したのはしょうがない、だとするならば、無様に抗うよりも大人しく受け入れた方がよい。

西暦1587年4月23日。大友宗麟及び義統の連名で織田の軍門に降る旨を記した書が届けられ、織田軍は侵攻を停止。
翌月には織田信長と大友宗麟と大友義統がとある寺において面会し、改めて降伏条件の確認がなされた。
臼杵城及び残っていた大友方の城や砦の開城もスムーズに進み、武装解除と主要な家臣の身柄の確保も進んだ。
また、景教らの迫害および虐殺に関わっていた関係者、武将や宣教師、その他のカトリック教徒の身柄の拘束も進み、奴隷貿易についての詳細な情報の調査も進められることが決定した。
斯くして、九州を嘗ては二分して島津と争っていた大友家はここに終焉を迎えることとなる。
当主とその父親(事実上の当主)である両名は改めて剃髪の上で、宗麟についてはカトリックからの改宗を行い、近畿地方のとある寺に幽閉されることとなった。これを以て多くの罪を大友宗麟と義統らが被ることで、多くの武将は表向きはともかくとして実質的に無罪放免となり、織田家か、あるいは大友征伐に参戦した大名らに仕官することとなった。

こうして、織田家による九州平定はおよそ半分が完了。
北九州を中心にした地域が大友から織田家の支配地域へと切り替わり、直ちに荒れた領土の復興計画の推進が決定する。
そして九州平定は、カトリックの名のもとの虐殺や迫害を行っていた大友征伐から、その大友と争っていた島津との相対へと局面を移すこととなる。


101: 弥次郎 :2018/10/28(日) 22:08:24 HOST:p2729046-ipngn201308tokaisakaetozai.aichi.ocn.ne.jp
以上、wiki転載はご自由に。
ちょっと中途半端ではありますが、大友征伐完了であります。
さて、次は島津との決着を書きましょうかね。まあ、ざっくりと、ではありますが。
地味だなぁ…

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最終更新:2018年11月07日 12:23