171: 弥次郎 :2018/10/31(水) 20:46:29 HOST:p2729046-ipngn201308tokaisakaetozai.aichi.ocn.ne.jp
【前史】日仏ゲート世界 夢幻衆は島津との戦いをさっさと終わらせるようです
いつもの如く集まっている夢幻衆の面々の顔色は優れていない。
大友征伐がいとも簡単に終わってしまい、戦災被害からの復興計画やら荒れた神社仏閣の再建計画やら、論功行賞についての検討が始まったりしているなかでも、織田家のブレインあるいは相談役である夢幻衆は次を考えて行動を移していた。
即ち、大友征伐の間は大人しくしていた島津家への対処である。
「戦わないわけにはいかないのかな?」
「無理無理、相手は戦う気マックスだし…受けて立たないと」
「殴り合って勝たないと天下に示しがつきませんからね……本音いえばやりたくないですけど」
「消化不良で終わるとこっちにも不満が残りますよ。戦国の風紀って奴ですね…」
揃ってため息をつく彼らは、しかし、そんな理不尽もしょうがないと受け入れる程度の度量はあった。
だが、あの島津を相手にして一戦交えて勝利を勝ち取るというのがいかに難しく、また危険をはらんでいるかよく理解しているのだ。
指揮官狙いの奇襲や強襲など、織田家や夢幻衆にとっても鬼門ともいえる戦術であるし、撤退したふりをして待ち受けて反撃という釣り野伏せは、侵攻側に当たる織田家にとってはまさにクリティカルな戦術と言えるだろう。勿論夢幻衆はその事を知っているので周知を徹底すればいいのだが、命令の伝達の難しさや勢いに任せた先走りなどで暴走してしまって被害を出してしまう可能性もあった。
しかれども、織田家の武勇ここにあり、と満天下に示すには島津に勝利する必要がある。
ハイリスク・ハイリターンのこの戦いは、避け得ないものだという意見で一致しつつあった。
「一応搦め手からも圧力をかけておくべきだ。あくまで優位がこっちにもあるということを示さないとな」
「そうですねぇ…今すぐ降伏すれば三州は安堵する。戦闘や降伏が遅れるほど日向の土地を削る、と脅してみましょうか?」
「それもありだな。三州制覇はしたからここで満足すべきという論調を呼べるかもしれん」
「あと関白の近衛を通じてアプローチをかけてもらうか、あるいは仲介役を務めてもらうという手もあります。
朝廷を引っ張り出してこの九州平定を行っているので、最後まで付き合ってもらうのもいいかと思います」
「でも、正面激突は避け得ないんですよね?」
「まあね…逆に言えば、秀吉の九州平定に倣って進めて行けば、直接的な激突は根白坂の戦いになる。
そこで勝利して追い立てれば、どっちが上であるかなどはっきり示せるさ」
「なるほど…確かに時期こそずれているが、大殿と殿がそれぞれ史実で豊臣軍が通ったルートを侵攻して、豊臣軍と同じように城の攻略などを進めて行けば、史実に乗っ取った場所で戦えるのか」
「確率論にはなるけど、わけもわからない土地で戦うよりかはマシだし、そこに火力を集中投入すれば勝てるだろう。
島津が戦に強いと言っても、別にスーパーマンが揃っているから強いわけじゃないしな」
ともあれ、夢幻衆ができることは島津への対処法をマニュアル化することや、如何にして島津を屈服に追い込むか、それを考えて、提案することであった。
さて、夢幻衆が会議を重ねて、各所で行動を開始している間にも戦局は動く。
織田信長の九州到着を嗅ぎ取った島津義久は戦線の後退を選択し、前線を下げていく。織田による大友征伐があっけなく終わり、支配権が織田家に移り、領土復興がなされていると織田家が自ら朝廷を通じて発表していた事が原因だ。
この状態で旧大友領やその周辺で戦闘を行ったり、あるいは戦闘を行うと勘繰られるような行動をとれば、それに難癖付けられて攻撃を仕掛けられる。
また、織田家を迎え撃つにあたっては切り取ったばかりの領地よりも自分達の領土に引き込んで戦う方が地の利を活かせるなど、自軍にとって優位な状況であるため、その前線後退というのは悪くない選択肢であった。織田軍は遠征であり、長距離を進めば進むほど疲弊するのだ。
自軍の陣地に引き込むことで疲弊させ、ひとまとめに叩く。数の不利を悟る義久の戦略は至極単純であった。
172: 弥次郎 :2018/10/31(水) 20:47:25 HOST:p2729046-ipngn201308tokaisakaetozai.aichi.ocn.ne.jp
織田軍の方はといえば、島津が放棄していった城や砦を順次攻略し、輸送路や伏兵などがいないかなどの調査を行い、進軍に備えていた。
いや、進軍だけならばどれほど楽であったか。前線では島津の動きに目を光らせ、後方では大友領の復興を行いつつも、
やらかした勢力の取り調べや尋問などを行う。さらに後方から続々と集結する物資や人員を捌き、必要なところに必要な分だけ振り分けて、余剰が出れば回収して他のところに回すなど、大わらわだったのだ。特に事務方である夢幻衆や石田三成らなど史実ネームドは酷使され、まさに修羅場の様相を見せる後方拠点で必死に働いていた。
西暦1587年7月21日。ようやくひと段落付いた織田家率いる九州平定軍は、南方、島津領への進軍を開始した。
予め使者を通じて島津に対し「早く降れば三州は安堵、遅れるか、戦闘を行えば日向の領土を削る」といった旨の書状を送っており、さらには関白である近衛前久にも義久に対して降伏を迫る書状を書かせて送り付けるなど、前段階から切れるカードを切っていった。
また、九州の宗教勢力の手も借りて「織田に降れば、反抗しない限り乱取りなどはしない」と通達。麾下にいる武将らにも、現地調達を徹底して禁じるなどして、大義名分が揺らぐことが無いようにしていた。
布陣としては、東九州を織田信長を総大将とする軍が、西九州を織田信忠率いる軍がそれぞれ南下する形であり、進軍に合わせて島津が放棄した城や砦を中継点とする連絡体制の構築と水軍による海上輸送及び海上封鎖の準備が進められた。
ここを敢えて簡単に言えば、豊臣秀吉による史実の九州平定に非常に似通っているものであった。
島津側はこれを撤退しながらも適宜伏兵などを用いて迎撃し、織田軍の数を減らし、疲弊を狙う先鋒に出ていた。
残念ながら地の利を生かしてくることを前提に深追いや無理な追撃などを禁ずる命令が不徹底だったことや、勝てる相手になぜ逃げる、と、やや暴走気味に追撃した部隊が釣り野伏によって壊滅的な被害を受けてしまうなど、島津の本領発揮ともいえる小規模戦闘がしばらく続いた。
しかし、人間慣れるモノであり、そういう手を使って来る分かってしまえば、その被害を徐々に抑えることが出来た。
織田軍も「島津の策侮りがたし」と大軍ゆえの慢心や大友征伐での戦勝の浮つきが排除されるのに十分なショックを受けていた。
夢幻衆としてはこれらを抑えるべく行動していたのだが、被害は存外大きなものとなってしまった。これはこれで、自分達が優位に進め過ぎた結果生じた慢心の結果であり、それが抜けるまでのコラテラル・ダメージと割り切るしかなかった。
そして織田軍の進軍は進み、夢幻衆の思惑通り、8月30日には耳川を渡って山田有信の守る日向高城を包囲し、救援に向かって来るであろう島津の軍勢を迎え撃つべく根白坂に砦を構築し、迎撃態勢をとった。
そこに構築された---言うなれば根城坂砦は、夢幻衆が全力を挙げて兵站を維持して、物資を惜しみなく運搬したことで構築された、一種の殺戮兵器といっても言い有様であった。即ち、前線を固める空堀や馬防柵や木杭、土塁あるいは石垣を敷き詰め、足場を劣悪な状態にする。そして、そこに飛び込んでくる軍勢を歓迎するのが、これまた膨大な数の鉄砲と野砲、ロケット兵器である火中車であった。
さらにそこにはカタパルトや大型のバリスタまでも動員しており、二重三重と歓迎の準備を整えていた。
突破せざるを得ない島津の軍勢を迎え撃つために徹底した優位をとる---嘗ては長篠の戦いで披露されたそれは、時代を経てさらに洗練されていた。
ここに機関銃を放り込めば、もはや日露戦争やWW1に登場してもおかしくないような時代の最先端を行く防御陣地であった。
生憎と機関銃が無いので、鉄砲の数を揃え、かわるがわる争点と発射を繰り返すことになるのだが、まあ、凶悪さに対して差があるわけではない。
斯くして、織田軍およそ90万人と島津軍およそ30万人の激突の場は整った。
173: 弥次郎 :2018/10/31(水) 20:49:18 HOST:p2729046-ipngn201308tokaisakaetozai.aichi.ocn.ne.jp
両軍の激突は自然と激しいものとなった。
中央突破を狙いつつも、側面を狙う島津。そしてそれを迎撃する織田。白兵戦問よりは銃撃戦であり、織田軍の持つ物量を容赦なしに生かす、徹底したメタ戦術。勿論島津側からの応撃も織田軍を襲うのであるが、すぐさまそれの補完が行われ、攻撃が続行される。
が、悲しいかな砦や城塞にこもっている側とそれに攻撃を仕掛ける側では同じように撃ち合ったところで防げる量というものが違う。
負傷兵がすぐに手当てを受けやすく身を隠す場所も多い織田軍に対して、織田軍が足止めに作っていた空堀や土塁や石垣などに隠れ、這うようにしていくしかない、負傷兵がまともに治療も後退もできない島津軍。これではダメージレースでどちらが不利かは明白だ。
無論真正面からではなく側面からも攻撃を仕掛けた島津側であったが、その程度のことは織田軍も想定している。
正面ほどではないが火力を集中投入し、兵力という壁を以て後方の指揮官を狙う島津兵を受け止める。
恐らくではあるが島津家久も義久も、そして参戦していた島津家の兄弟たちもやりにくさを感じ取っていたに違いない。
島津の打つ手を悉く先に潰し、自軍の優位な状況を作らせずにいるのだから。また、兵力差がおよそ3倍もあり、しかも数の優位のある織田が徹底して防御に徹していることからその優位はさらに増していると言っていい。
陣地を力押しでいくつか落としはしたのだが、逆に言えばそれで精一杯。犠牲が余りにも多く、根本的不利は覆せない。
そして、戦闘開始から5時間余りたったころ、乾坤一擲の突撃が織田の前衛部隊によってなんとか打ち破られ、後退を強いられる前に銃火の嵐に消えた時、義久は撤退を決断。これ以上の損害は認められず、また高城の救援も不可能と判断したのだ。
織田家の兵力何するものぞ、と侮りが無かったわけではない。だが、相手は自分達の上を行った、それだけである。
他方の勝者となった織田軍は、すぐには動かず、斥候を放ち、島津の逆襲を警戒した。この頃になると諸侯も島津のやり方を理解しており、迂闊な行動をとろうとする将兵はいなかった。この戦いが勝利で終わったというのに、思わぬケチがついては恥となる。
迂遠であろうとなんであろうと、勝利を盤石にするためには臆病なほどの慎重さが求められたのだ。
斯くして、後に根城坂の戦いと呼ばれる織田軍と島津軍の戦いは織田軍の勝利で幕を閉じた。
負傷兵や死亡した兵が余りに多くに及んだ島津軍はこの後は抵抗をあまり行うことなく撤退を重ねていき、織田軍は悠々と追撃を敢行。
島津側の兵力を押し返していく。また、西九州から進軍する織田信忠らも順調に島津軍を各個撃破し、現在の福岡を支配下に入れた。
西と東での勝利をもぎ取った信長は改めて島津久義に降伏を迫った。織田軍にも被害はあったが、島津軍の被害はそれ以上であり、また織田軍とあまりにも長く戦い続けることで、いずれは出てくるであろう切り札--朝廷には流石に島津も抗えなくなる。
そも、織田家は九州平定という大義名分という点で既に島津を圧倒しており、何度も降伏を迫っていたのだ。
流石にこれ以上の抵抗をした場合、三州の安堵も危うくなり、また、場合によっては不利な条件をのまされるかもしれない。
島津家家中も流石に戦術的にはともかくとして戦略的に敗北を重ねている状態に加え、いよいよ朝廷まで出張って来ると現実味を帯びてくると、冷静さを取り戻す家臣の方が多くなっていった。斯くして、島津家当主島津義久は織田信長に対して降伏の受諾を伝え、全軍の戦闘行為の停止を命じた。
それは、ついに織田家による九州平定が成ったことを示すものであった。時に西暦1587年11月12日の事であった。
174: 弥次郎 :2018/10/31(水) 20:51:30 HOST:p2729046-ipngn201308tokaisakaetozai.aichi.ocn.ne.jp
以上wiki転載はご自由に。
ざっくりと簡単にまとめました。
これにて戦争は終わり、あとは戦後の後始末を少し書いて九州平定は終わりにしようかと思います。しかし、なんかこう、
淡々とし過ぎていて面白みに欠けるような気がしますねぇ。過去編ですから仕方がないのかもしれませんけど、
もうちょい華を添えたいですね。次回はもうちょっとそこら辺を工夫できれば…
ネタとしては戦国DQNこと政宗君相手にはちょっとばかりを思いついているので是非とも形にしたいですね。
183: 弥次郎 :2018/10/31(水) 21:43:22 HOST:p2729046-ipngn201308tokaisakaetozai.aichi.ocn.ne.jp
誤変換修正を
173
×迂遠であろう都南であろうと、
〇迂遠であろうとなんであろうと、
修正お願いします
182: 名無しさん :2018/10/31(水) 21:39:41 HOST:FL1-203-136-226-169.tky.mesh.ad.jp
乙です
史実通り、歳久の養子忠隣が根城坂で死んでるんだろうなぁ、この惨状だと
歳久くんも史実に秀吉にやらかしたようにノッブにやらかして死にそう(小並感
てか、あれやね島津降伏が1587年11月12日ってことは、そんときは家久は既に死んどるな(史実では1587年7月に病死)
184: 弥次郎 :2018/10/31(水) 21:46:33 HOST:p2729046-ipngn201308tokaisakaetozai.aichi.ocn.ne.jp
182
忠隣
多分史実通りかなと
文字通りの大激戦ですからね、長篠の戦いに匹敵するほどの…
家久
マジで…?と思ったらマジでした…!
どうしよう…ま、まあ根城坂の戦いの時まではちょっとしたバタフライエフィクトで長生きしたってことで…(汗
最終更新:2018年11月07日 12:48