128: yukikaze :2018/10/24(水) 23:01:51 HOST:185.227.150.220.ap.seikyou.ne.jp
で・・・調子に乗って考えてみたロシア共和国建国史
所謂、ロシア共和国が生まれる萌芽となったのは、日露戦争であった。
日清戦争後の火事場泥棒として満州に居座ったロシアは、日本にトラウマレベルの敗北を喫し満州から叩き出されたのだが、勝った日本も相応の被害を受けており、新たな植民地経営を単独で行うにはいささか厳しいものがあった。
その為日本は、日露戦争で比較的日本に好意的だった
アメリカ(特にユダヤ資本)に、約束通り満州の共同経営を行うことを確約。伊藤暗殺という問題は発生したものの、概ねアメリカ側も納得いくレベルでの合意を結ぶことに成功する。
総帥を後藤新平、副総帥を鉄道王ハリマンとした極東鉄道株式会社は、両者の豪腕と、タフト新大統領によるドル攻勢をバックに、凄まじい勢いで路線を広げ、設立から5年後には、ロシアを札束で殴って、釜山から欧州まで繋げる『ユーラシア横断鉄道』まで成し遂げたのである。
無論、満州及びそれに連動する形での朝鮮半島の鉄道網の拡大、及び沿線都市の発展も進むことになり、アメリカの極東のフロンティアは、極東のドル箱へと昇華することになる。
それを嫉妬の眼で見ていたのが中華民国であった。
辛亥革命により清を倒した彼らは、自らの土地が化外の民によって好き勝手に発展していく様を見るのが我慢ならなかったのである。
勿論、彼らも日米両国相手に戦争を吹っかけるという自殺行為はするつもりはなかった。
彼らが狙ったのは、清とロシアが結んだ租借権25年の期限切れであった。
『革命外交』と称して、清と列強が結んだ条約を否定していた彼らであったが、彼らにとって都合の良い条項だけは順守する気満々であった。
無論、日米とてそのことをよく理解していたし、中華民国との条約延長を目論んでいたものの、そもそも相手がまともに交渉するつもりがない以上、なしのつぶてであった。
むしろ真面目に交渉すればするほど、中華民国の良いカモとされ、たまりかねたアメリカが、上海に逃げていた孫文と接触するも、中華民国政府以上に機械主義者である彼は、リップサービス以外のことをせず日米間の対立にまで発展しかねない状況であった。
そしてこの現状に激怒していたのが極東鉄道であった。
彼らにしてみれば、自分達が努力して築き上げた富を、本国の失策により、怠け者の漢民族にむしり取られかねないのである。老いてなお盛んな後藤と、ハリマンの死後、副総裁となった元アメリカ陸軍長官ヘンリー・スティムソンにとって座視すべきものではなかった。
そんな彼らにとって、ロシア革命は最大級の慶事であった。
彼らは、ロシア脱落による英仏の苦境を見極め、干渉戦争を極東の地で行わせることを画策。
日米の政財界のコネのフル活用&英仏をドルと円の札束で殴り飛ばして、満州に日米連合軍数万を駐屯させることに成功する。
そこから後はもう単純であった。対外的には『赤化思想を防ぐための緩衝国家建設』本音では『自らの既得権益確保』を、一気呵成に推し進めるだけであった。
ちょうど手頃な『白衛軍』もいれば、『地元優先の共和主義者』もいるのである。
日米両国は、ロシア皇帝家は嫌っているかもしれないが、共和主義者はまだ許容範囲内であったのだ。
1920年。極東全域を支配下に置いた白衛軍は、司令部を置いていたハルピンにおいて『ロシア共和国』の復活が高らかに宣言されることになる。
少なくとも2月革命には反対していなかった彼らは、欧米列強からは比較的行為に見られ中華民国を除いて、悉くが国家を承認することになる。
『一企業による人造国家の建設』と、後世、批評の的になる、極東第二位の国家の誕生である。
最終更新:2018年11月12日 15:26