174: yukikaze :2018/10/27(土) 16:14:22 HOST:185.227.150.220.ap.seikyou.ne.jp
取りあえず扶桑型完成。当初案と比べると大分おとなしめにしています。

扶桑型戦艦

排水量 常備:19,000トン
全長 165m
全幅 25.2m
機関 宮原式石炭・重油混焼水管缶16基+艦本式直結タービン2基4軸推進
最大出力 28,000 shp
最大速力 22ノット
航続距離 18ノット/2,700海里
燃料  石炭:2,300トン 重油400トン
乗員  士官、兵員:933名
武装  30.5cm(45口径)連装砲4基
     15.2cm(45口径)単装速射砲10基
装甲  舷側:229~272mm(水線部)
     甲板:76mm(主甲板)
     主砲塔:305mm(前盾)、203mm(側盾)、76mm(天蓋)
     主砲バーベット:254mm(甲板上部)、102mm(甲板下部)
     副砲ケースメイト:203~254mm
     司令塔:292mm(側盾)、51mm(天蓋)

同型艦 『敷島』『秋津島』『八島』『瑞穂』『大和』
※ 砲塔配置や全体シルエットは、史実金剛級に近いもので想像してください。

(解説)
1898年度海軍拡張計画において、日本海軍が建造した戦艦。
艦名が日本の別称で統一されていることから、海外からは『扶桑=Japan』の頭文字を取って、『J級戦艦』と呼称されることが一般的である。
世界初の単一口径巨砲による武装と蒸気タービンによる高速艦であり、全世界のそれまでの戦艦を一夜にして旧式艦にしてしまったことで、海軍の戦力バランスを崩壊させるなど、日本海海戦の圧倒的な戦果もあって、海軍史に名を残す艦となっている。

日本海軍が、初めて近代的な装甲艦を自力で建造したのは意外と遅く、1890年であった。
もっともそれは、大政奉還以降の中央集権国家体制構築の為に、各種製鉄所や造船所と言った周辺施設を整備することを急務としていたからであり、彼ら自身はその手の艦を無用としていた訳ではない。
事実、日清戦争に間に合った『富士型』装甲巡洋艦は、史実サン・ジョルジョ級装甲巡洋艦に近い性能であり、清国海軍相手に完勝をするなど、日本の技術力の優秀さを証明している。

そんな中、日本海軍の相手として浮上してきたのがロシア海軍である。
史実と違い、英国も日本寄りではなく、最悪の場合は、英国黙認のもと、露独仏の3ヶ国海軍が攻め込んで来るという可能性に慄然とした日本であったが、彼らにとって救いがあったのは、英国よりは幾分遅れたものの、史実と比べると半世紀近く速く産業革命が起きており、工業と資本の蓄積が進んでいたことにより、転生者の技術チートを効率的に使える土壌ができていたことである。
どれほど先進的な技術を考えても、それを製品として量産できるだけの工業力と資本力がなければ、良くて研究室レベル、悪ければ実現を断念するしかないのである。
そして、維新を成し遂げた日本の指導者層は、その事実を十分理解していた。

1898年に策定された帝国国防方針は、名指しこそしなかったものの、対ロシア帝国を意識したものであった。
陸軍は17個師団、3個騎兵旅団、3個重砲兵旅団の整備を早急に進めることにし、海軍は、順次就役している富士型装甲巡洋艦だけでなく、新型戦艦8隻の就役を、1908年までに終わらせるというものであった。
この時、海軍が発表した戦艦の想像図とスペックであるが、実際に就役したそれとは似ても似つかぬものであった。
この時発表されたそれは、史実薩摩型戦艦に近い内容であり、他国からは富士型装甲巡洋艦の拡大改良型として見られていた。(新型戦艦の中間砲が、富士型の主砲)
主砲についても、13インチ砲(32.5㎝)砲と、列強が就役させつつある戦艦よりもやや大きい主砲であり列強は、「設計内容は無難であり、主砲口径を幾分大きくすることで、ロシア海軍に対して質的優位性を保とうと考えている」という評価をくだしている。

もっとも、「比較的手堅いとは思うが、2万トン近い大艦を日本人が独力で作れるかは不明だし、そもそも出来たとしても、質的に欧米の戦艦相手に戦えるかは不明」という意見が大勢を占めており(彼らは、日清戦争で、ドイツ製装甲艦が叩き潰された事案を『清国海軍の能力が低い』で認識を止めていた。)日本海軍が、新型戦艦の進水式や就役について禄に宣伝もしなかったことから「日本海軍は新型戦艦の建造に失敗したか、あるいは重大な欠陥を抱えている」という憶測が『事実』として定着することになる。

175: yukikaze :2018/10/27(土) 16:15:08 HOST:185.227.150.220.ap.seikyou.ne.jp
余談であるが、この件については帝国議会においても問題視されており、首相であった豊臣慶秀や、兵部大臣であった大山巌は野党の矢面に立つことになるが、慶秀の「帝国海軍の戦艦は既に就役しており、戦力発揮の為に日夜奮闘しております。内容については、時節柄軍機とさせていただきます」という回答をする傍ら、野党党首に対しては、「もはや戦争を避けることは困難であり、技術的奇襲を最良のタイミングでかける為にも、一般公表は差し控えさせてもらう。ガス抜きの為の批判は矢面に立つから」と、根回しをすることにより半ば出来レースとして乗り切っている。

結局、同艦が国民の前に公開されたのは、バルチック艦隊を撃滅した後になるのだが、政府の説明を受けた日本国民は「まあそういう事なら仕方ないわな」と、納得する一方で、他国の海軍軍人からは「日本人ふざけんな!!」と、怒鳴りつけられることになる。
特に、世界最大の海軍国家と見なされていたイギリスは、扶桑型戦艦の就役によって、これまで保有していた戦艦全てが旧式化の烙印を押され、当時の第一海軍卿が責任を取って辞任をするなど、海軍戦略どころか国家戦略の根底が崩壊する程のダメージを受けることになる。(他の列強も大同小異である。)

同艦の技術的特徴であるが、端的に言えば『最高の防御、速力、火力を現実的な大きさとコストにおいて実現させた化物』であった。
単一口径巨砲と直結タービンが取りざたされるが、防御の面でも、水線部分の厚い装甲帯と1層ないし複数層の装甲甲板とに集中させた装甲を備え、加えて船体内には、副砲、火器管制装置、指揮装置、対魚雷防御などが組み込まれているように、攻防走全てのレベルで、これまでの戦艦とは一線を画していた。
そして、特筆すべきは射撃管制の一元化であった。
従来、砲塔ごとによる個別管制であったのを、射撃方位盤室と射撃指揮所の設置に伴い、統一した射撃を行うことが可能になったのである。
日本海海戦において、命中率に4倍近い差を付けられたことは、同装置の開発配備に尽力した日本海軍の姿勢が完璧に正しかったといえる。

なお、同艦は、計画上は8隻建造の予定であったが、7番艦と8番艦は開戦により起工が取り止められ、それ以降も復活することはなかった。
これは、日露戦争及びそれ以降の半島への開拓等にとにかく資金が必要であった為であり、海軍も、当面は扶桑型6隻で守りえると判断したことによるのだが、事実、英米両海軍が、扶桑型に対して質的にも量的にも対応可能になるのは1912年頃まで待たざるを得ず、しかも翌年には、日本側は高速戦艦である山城型を完成させていることから、何ら問題を生じることはなかった。

同艦の内、『扶桑』はワシントン海軍軍縮条約により記念艦として横須賀に保存される事に。
『瑞穂』と『大和』は、第一次大戦で『カナダ』が沈んだことで、踏んだり蹴ったりのチリにたいして格安で売却され、『敷島』については、練習戦艦兼兵装実験艦として余生を過ごすことになる。

178: yukikaze :2018/10/27(土) 16:31:10 HOST:185.227.150.220.ap.seikyou.ne.jp
と・・・言う訳で、史実1910年程度の技術開発能力に抑えた上で、扶桑型をリニューアル。
2万2千トン級で12インチ連装砲5基10門も間違いなくできるのですが、流石にそうなると予算の問題やら何やらで、他国から絶対にばれるでしょうから、あえて控えめにすることに。
(これですら結構綱渡りでしょうが)

扶桑型自体が戦ったのは『ウラジオ艦隊追撃戦』と『日本海海戦』。
太平洋艦隊については、史実アメリカ海軍のF級潜水艦をアレンジした潜水艦により太平洋艦隊そのものが出撃できず、旅順陥落と同時に自沈して消滅。(黄海海戦なし)

ちなみに扶桑型戦艦は、本文にあるように徹底的に機密が図られていたため、日本海海戦前までは一切写真にも出ず、ついたあだ名が『幽霊艦隊』
ただしこれほどの機密を受けたのは、同艦を除けば原子力潜水艦位でした。

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最終更新:2018年11月12日 15:35