157: yukikaze :2019/03/03(日) 13:20:46 HOST:101.82.0.110.ap.seikyou.ne.jp
多分、これは絶対に避けては通れない案件だったと思うのですよ・・・
象徴論争
象徴論争とは、帝国憲法制定時において、天皇の権能を規定する条文に『象徴』という文言があったことによって生じた大論争のことである。
当初は、内閣と天皇側近による考え方の総意による争いであったのだが、これに幕末以来冷や飯状態であった旧公家や政党政治家及びマスメディアが介入することによって、事態は豊臣内閣の倒閣運動にまで発展。
最終的には、豊臣慶秀への暗殺未遂事件にまで発展したことに、旧幕臣や豊臣系の官僚や軍人が、天皇側近を「君側の奸」として実力行使で排除する動きが公然化することになり、天皇と内閣との間で「機務六条」が結ばれる事によって、事態は収束に向かうことになる。
経緯
徳川家茂による大政奉還後、新政府による近代化プランは、1878年には概ねその成果を達成するに至っていた。
最大の懸案であった廃藩置県についても、徳川家、豊臣家、島津家、前田家、伊達家といった有力諸藩が進んで受け入れたことによって、内戦という最悪の展開は免れ士族達の不満についても、基本的には雇用維持されたことから(但し、石高と給与の説明には一悶着あり、政府は苦労することになる。)、大規模な騒乱へは発展しなかった。(高知と萩での反乱は、新政府での無条件での栄達を否定されたが故の暴発であり、全く波及しなかった。)
こうした中で、新政府が次の目標として掲げたのが、憲法制定と議会開設であった。
近代国家を形成するうえで避けては通れない案件であり、新政府がこの2点にどれだけ注力したかというと、政権有数の実力者であった豊臣慶秀が、このプロジェクトの最高責任者であったことからも伺える。
実際、有力諸侯の中でも『もっとも開明的』と評されていた慶秀以外、相応しい存在は他におらず(英国や米国に留学していたもののうち、西郷は、斉彬死去後に喪に服して郷里の鹿児島に帰り、大久保は地方行政改革で忙しく、橋本左内は司法改革で手いっぱい、伊藤は威が足りないという状況である)、この決定に関しては、どこからも苦情は出ることはなかった。
しかしながら、この時点で、これ以降の論争の萌芽は生じてはいた。
この時期、明治天皇の側近を中心に、天皇が統治に関わるべく天皇親政運動が本格化することになる。
そして、明治天皇の側近として信任を得ていた元田や佐々木と言った面々は、憲法や議会の必要性は認めつつも、それはあくまで天皇親政の為の論理形成であり、輔弼機関でなければならないと考えていたのである。
この時期の彼らの日記を読むと、「憲法=天皇が理想的な君主となるための教訓書」「議会=天皇の諮問機関」という認識であったことが読み取れる。
厄介なことに、元田や佐々木が天皇親政を望んだのは、自己の栄達というよりも「儒学を基本理念とした名君による理想的な統治」が正しい姿であるという、イデオロギーによるものであり、だからこそ妥協不可能な論争へと発展していくことになる。
158: yukikaze :2019/03/03(日) 13:21:40 HOST:101.82.0.110.ap.seikyou.ne.jp
1883年。憲法制定委員会による帝国憲法草案が出されることになるが、この草案に対する評価は様々であった。
まず、国会開設に先立ち憲政会を設立していた江藤新平と大隈重信は、憲法において議会の役割が比較的大きいことに着目し、その点については評価をしたものの、更に推し進めて完全な政党内閣制にするべきであると主張している。
幕末に出遅れてしまったが故に、新政府内での栄達に限度を感じ、下野した彼らにしてみれば、今回の一件はまさに鴨が葱をしょってきたようなものであった。
官界については、議会という存在に面倒さを感じながらも、やむを得ないと考えていた。
大久保や橋本、伊藤と言った海外へ留学した面々にしてみれば、民衆が政治への疎外感を感じてしまったら、行き着く先は暴力革命でしかないのである。
「国民国家」という概念を考えた場合、民衆の代表を議会に押し込めることによって、取りあえずのガス抜きは必要であろうと考えたのである。
そしてそれは軍も同様であった。
マスメディアは百家争鳴であった。
彼らは部数を稼ぐために政権批判を行いがちであったが、その政権の重鎮が、議会に対する配慮を憲法で示したのである。
予想よりも開明的な内容(自由権や社会権、表現の自由すら認められていた)に対し、好意的に評価する新聞社もあれば、とにかく政権批判だけやりたがる新聞社もあるなど、バラバラであった。
明確にこの草案に激怒したのが天皇側近達であった。
確かにこの憲法では、天皇を国の元首と明確に規定されていたものの、その草案を読むと、天皇の国事行為については「内閣の助言に基づき行使される」としており、内閣を無視しての行動が一切できない状況に置かれていた。
更に言えば、行政権や立法権の実質的な権能は内閣や議会にあることも明記されていた。
元田達にしてみれば、この草案は明らかに、天皇親政を否定する行動にほかならず、彼らはすぐさま「天皇を傀儡にしようとする不忠の極み」とキャンペーンを張ることになる。
そしてこの元田達の動きに加わったのが、公家の岩倉具視とジャーナリストの巨頭である福沢諭吉であった。
幕末期に全く役に立たず、結果的に埋没しきっていた中~下級の公家達にとって、天皇親政は自身の栄達に繋がる最後のチャンスであり、そうであるが故に今回の行動を奇貨とした岩倉と、同じく、マスメディアの中心人物として、政界への影響力を増大させようとする福沢とが手を組むのは必然であった。
とはいえ、彼らは元田の如く真正直に論理立てて攻め込もうとは思わなかった。
はっきり言って、大衆というものにそんなもの突きつけても「はあそうですか」で終わるのである。
こういった場合は、とにかく何らかのキーワードを以て、その一点で押し切った方が効果がでるのである。
後世『マスゴミ』と評されることになるやり口は、この時代でも健在であったのだが、その中で岩倉と福沢が着目したのが『象徴』という文言であった。
実のところ、この文言そのものは、条文を読むと全く問題がない代物であった。
『天皇は国家の元首にして、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である』
要するに『国家の代表であり、日本国=天皇であり、国民統合の要よ』と言っている訳だが彼らはこの『象徴』という部分と、前述した「国事行為は、内閣の助言に基づき行使される」を以て、現政府は天皇を傀儡にしようとしている根拠としたのである。
牽強付会としかいいようがない根拠であり、この批判のキャンペーンを見た豊臣慶秀は「バカじゃないのか」と、心底呆れ、江藤や大隈ですら「いや・・・これはアカンやろ」と、眉を潜めたのだが、岩倉や福沢にしてみれば、牽強付会でも何でも、ワンフレーズで批判ができるのだから、それこそしつこいくらいこの件をがなり立て、そしてそのフレーズだけで判断した粗忽者が更にがなり立て政権批判をするという流れに持っていったのである。
159: yukikaze :2019/03/03(日) 13:22:59 HOST:101.82.0.110.ap.seikyou.ne.jp
特に土佐出身者で作った自由党に参加している面々は、これまでの新政府への恨みと、党勢拡大を図って、首相官邸前に集まって騒ぎ立て、警察が逮捕すると「不当逮捕」「天皇を傀儡にする証拠だ」と、志士気取りで暴れ、そしてそれを福沢系の新聞が好意的に記して、世間の同情を誘うようにするというマッチポンプを行っている。
そしてこの行動を見て焦った憲政会の非主流派も同じことをするに及んで、もはや江藤や大隈ですら手が負えない状況にまで騒ぎは拡大することになる。(事実、「バカなことをするな」と叱りつけた江藤や大隈は、慶応義塾出身者の面々に難詰され、声望を失い、党首を解任されることになる。)
こうした事態に、豊臣慶秀は辛抱強く説明を行い、少なくとも元田や佐々木達天皇側近は、慶秀の判断を私利私欲のためではなく、失政が起きた際に、皇室に累を及ぼさないための配慮であるという点は受け入れてはいた。
だが、仮に慶秀の主張を受け入れたとしても、内閣に失政が起きた場合、それは首相を任命した天皇の見識にも直結する問題であり、最終的な責任論は変わらないではないかという元田達の主張との隔たりは最後まで埋まることはなかった。
そして岩倉や福沢、それに国士気取りの自由民権派崩れの面々は、そもそも聞く耳を持っておらず、説明は全くの無駄であり、徒労感が増すばかりであった。
遂には、憲法草案に携わっていた司法省の課長がノイローゼになって自殺し、それを「豊臣慶秀の被害者」とキャンペーンをはるに及んで、さしもの慶秀も堪忍袋の緒が切れる寸前になっていた。
もはや事態は、いつ慶秀が政治的悪名を帯びること覚悟の上で爆発するか、あるいは何もかも投げ捨てて下野するかの二者択一にまでなったのだが、そうした中で起きたのが、自由民権派崩れによる暗殺未遂事件であり、この男の行動を『草莽の志士の義憤』とマスメディアが報じたことで、最後のトリガーが引かれることになる。
前述したように、国会開設と憲法制定に対し、官界や軍は消極的な賛成であった。
だが、一連の流れを受けて、官界や軍において『大衆に議会や憲法はまだ時期尚早』という声が出るのはある意味当然であった。
岩倉や福沢は看過していたが、ワンフレーズによる批判は、確かに印象に残りやすい反面、よほどうまく使わなければ、雑な批判に堕するのが常であった。
帝国でも有数のエリート集団である彼らにとって、国会と憲法という、国家運営においても極めて重要な題材に対して、このような雑な議論しかできない面々と付き合わなければいけないというのは、とてもではないが耐えられるものではなかった。
また、元田達の論理も、この時代の官界や軍では通用しなかった。
ある意味当然の話で、つい20年前までは、幕府が存続しており、天皇は将軍に政治を委任して国を統べていたのである。
言うなれば、権威と権力が別々であった訳で、彼らにしてみれば、わざわざ権威と権力を同一にするということは、天皇側近が権力を振るうことを目的としていると判断せざるを得なかった。
特に自殺者まで出た司法省では、元田達の事を公然と「君側の奸」と呼ぶなど、天皇側近への反感が凄まじいことになっており、そしてそれは一歩間違えると、側近を御すことができないとして、明治天皇への不信感にまでつながりかねなかった。
実際、旧豊臣家の面々や幕臣達は、裏で糸を引いているのは明治天皇ではないかという猜疑心すら芽生えている状況であったのだから、その懸念も故なきことではなかった。
(明治天皇の母方の祖父であり、孝明天皇から勅勘を受けた中山忠能が、この問題にしゃしゃり出ていたことも、彼らの印象を悪くしていた。)
もはや血で血を争う政争になりかねない所まで発展しかねなかったこの問題であるが、この事態に危機感を覚えていたのが、宮中顧問官であった三条実美であった。
幕末での行動から、政府の要職には就けなかったものの、温和な性格と進取を好む性癖、家柄の良さなどから、宮中と内閣との間の調停役としての役割を担っていた彼であったが、そんな彼にとって、現在の元田や岩倉の行動は、明らかに火薬庫で火遊びをしているかの如き振る舞いであった。
幕末の長州で地獄を見てきた分、三条は、宮廷内部での抗争で収まらなかった場合の危険性をよく理解していたし、しかもその抗争に皇室を巻き込むなど絶対にあってはならないことであった。
事件発生直後に、彼が明治天皇に慶秀のもとに勅使を派遣し、ねんごろに見舞うように進言したのもある意味当然の帰結であったろう。
160: yukikaze :2019/03/03(日) 13:23:46 HOST:101.82.0.110.ap.seikyou.ne.jp
「皇室を滅ぼしたいんか、あんたは」
岩倉家に乗り込むや否や、突然の来訪にあっけにとられる岩倉に対して、日頃の温厚さをかなぐり捨てて、怒鳴り声を上げたあたり、三条の怒りがどれほど凄まじかったかを物語っていた。
勿論、岩倉は弁明をするのだが(特に暗殺未遂に関しては完全に岩倉はシロであった)、それも三条の「あんたがどう思うかなんてむこうが気にするかいな。むこうにとってあんたはもう、大将の命を狙った敵や。そしてあんたは帝までまきこませようとした。本気で怒った武家がどうするか、後鳥羽院や御醍醐院の終わりがどうなったか知らんとは言わさんぞ」と、突きつけられたことで勝負はつくことになる。
その上で、三条は、明治天皇及び元田達宮中側近に対し、現状を突きつけたうえで、彼らに選ばせることにした。
「帝。皇室丸ごと滅ぼす覚悟で政府と抗争するか、政府と融和するか、どちらかお選びください。
どちらをとっても、三条はおつきあいします。分からないことがあれば臣が説明をいたします。
ですが、選ばれるのは帝です。」
何かしら言い募ろうとする元田達を「麿が帝と話をしているのじゃ。地下人は黙っとれ」と、一喝すると、彼は、明治天皇からの質問に答える以外は、じっと天皇の決断を待つことになる。
事件が発生してから5日後。
明治天皇の名において、「機務六条」が出されることになる。
これにより、天皇と内閣の関係を規定すると同時に、明治天皇が親政の意思を事実上放棄して、天皇の立憲君主としての立場を受け入れることを表明したことで、『象徴』問題は急速に収束することになる。
何しろ天皇みずからの判断によるものである。
元田達にしてみれば、天皇親政を訴えていた以上、天皇の命令に背くことはできず、この決定を受け入れざるを得なかった。(なお、元田達は、立場としては宮中顧問官として栄典されたものの、政治的な発言は三条が決して許さず、学問の師としての立場以上のものではなかった。)
福沢達はなおも足掻こうとしたが、中心人物の一人である岩倉はこの時末期がんであり、三条の叱責を受けたこともあって逼塞。
福沢に至っては、この当時、東京の人間の中で最も人気のあった勝海舟から、江戸っ子らしい歯に衣着せぬ罵倒を浴びせられただけでなく、暗殺未遂事件において、福沢の息のかかった新聞記者が煽ったことが判明したことから、慶応義塾の存続を認める代わりに、完全に政治の世界から追放されることになる。
(勿論、自由民権派の活動家集団や、福沢の尻尾として働いていたマスゴミ集団も、政治的に大打撃を受けることになり、江藤や大隈は、憲政会の立て直しに奔走することになる。)
最後に、明治天皇と豊臣慶秀の関係について述べよう。
儒教に基づいた東洋的な専制君主として教育を受けていた明治天皇は、この時期には政治的意欲に目覚めており、機務六条は、明治天皇にとって政治的敗北に近い物であった。
そのため、明治天皇と豊臣慶秀の仲は微妙なものになっており、慶秀は、天皇に対して立憲君主制など西洋の制度・文物を導入することが天皇の権威を損ねるものではないことを説く一方で、天皇が閣僚の仕事ぶりに疑問や不満を抱いた時にはその意向を閣僚に伝え、時には天皇と閣僚の仲裁にあたっている。
また、天皇の信頼する宮中側近を宮内大臣の管轄下の宮中顧問官に任じて天皇との直接的な関係を絶ったものの、漢学者として内外の信望の厚い元田を引き続き天皇の私的顧問として遇し、他の側近には爵位を与えて天皇と彼らの天皇への忠誠心を尊重する姿勢を示し、こうした中で、天皇も次第に慶秀の政策や方針を受け入れるようになっている。
もっとも、明治天皇はこれ以降も、要所要所においては君主としての判断を示すことがあり、決してお飾りの君主であった訳ではない。
そのため、両者ともにお互いに敬意を払いつつも、時には真剣に意見を戦わせるなど、決して馴れ合う関係ではなかったと言える。
161: yukikaze :2019/03/03(日) 13:47:08 HOST:101.82.0.110.ap.seikyou.ne.jp
これにて投下終了。
英国型の憲法(『君臨すれども統治せず』)を導入しようとするのなら絶対に避けては通れない案件であります。
なおこの問題凄いめんどいのが、元田達は、本心から「天皇親政こそが正しい姿」と信じて疑っておらず、自己の栄達目論んでいる訳ではないというのが。
何でこいつら教育者に選んだんだというのは、まあ宮中改革やっている余裕がなかったのと、元田達の学識と私心の無さは本物だったからとしか。
史実では、東洋的専制君主制を理想とする元田達侍補と、内閣との間でガチの争いが起き、元田達が敗北することになるのですが、これ原因は
大久保暗殺によるもので、この時代ではそういったのがないので、憲法制定時に爆発するだろうなと。
福沢のやらかしですが、以前も書きましたが、現代のマスコミの悪い所を全て網羅しちゃっている(この人に匹敵するの、読売の正力じゃねえかなあ。あと、だいぶ下がってナベツネ)方ですんで、まあ自分が動きやすい環境作るためにやるだろうなと。(明治14年の政変にも確実に関わっていますし)
岩倉については、和宮降嫁がなかったことでほとんど目立つことはなく、幕末でも「なんか動いていたな」程度でした。
結果的に、史実のような功績もなかったことから、中下級公家として埋没していました。
まあ最後の一発逆転狙っていたところですね。何気に余命いくばくもありませんでしたし。
明治天皇と豊臣慶秀の関係は、一番近いのはヴィルヘルム1世とビスマルクの関係ですかね。
まあ慶秀はビスマルクよりも大分マイルドでしたし、人間的に嫌いあうことはありませんでしたが、馴れ合う関係でもないし、明治天皇が西郷隆盛に見せたようなものでもないですし。
どちらかというと「水魚の交わり」関係だったのは、大正天皇なんですよねえ。<慶秀
最終更新:2019年03月07日 18:45