179: yukikaze :2019/09/07(土) 15:56:08 HOST:100.82.0.110.ap.seikyou.ne.jp
ようやくできたよ『妙高』型。
なお、wikiの『妙高型』及び『高雄型』については、これを以て上書きとなります。

妙高型重巡洋艦

排水量 11,500t(公称1万トン)
全長 203.6m
最大幅  22.4m
吃水 7.6m
主缶 ロ号艦本缶大型缶8基
主機 艦本式ギヤード・タービン4基4軸
出力 152,000hp
最大速力 34.5kt
航続距離 18kt/8,000浬
燃料  重油:2,250 t
乗員  944名
兵装  50口径20.3cm3連装砲塔2基
     40口径12.7cm連装高角砲5基
     70口径40mm4連装機銃8基
     70口径20mm単装機銃12基
     61cm5連装魚雷発射管4基(次発装填なし)
装甲 舷側:100mm(弾薬庫部分は145mm)
    甲板:35~60mm
    主砲防盾 200mm(前盾)70mm(天蓋)
搭載機 水上機2機
    カタパルト2基

同型艦 『妙高』『足柄』『那智』『羽黒』『高雄』『愛宕』
    『摩耶』『鳥海』『古鷹』『青葉』『衣笠』『十勝』

(解説)
第二次大戦前に日本海軍が建造した最初で最後の重巡洋艦である。
戦後においても、ミサイル巡洋艦として改装されており、1960年代後半まで日本海軍護衛部隊の中核を担うことになる。

1920年代において、日本海軍は、汎用軽巡洋艦である『球磨』型軽巡洋艦の整備を終えて以降は、一旦、巡洋艦の建造を休むことになる。
これは、今後の巡洋艦の使い道をどうするのかという方向性を決めかねていたことや、1910年代に海軍予算を使いすぎていたため、関係各所からの視線が冷たかったことも影響している。
特に、1923年の関東大震災の発生による帝都再生計画及び国土強靭化計画は多額の予算を必要としており、海軍としても『自主的に予算を差し出す』ことで、政治的な貸しを作ることになる。

余談ではあるが、この時の一大インフラ事業は、第一次大戦後、景気が低迷しつつあった日本経済への起爆剤となっており、欧州の長い低迷とは裏腹に日米ロにおいては、高度経済成長が続くことになる。
特に、アメリカで徐々に顕在化しつつあった生産供給の過多が、日ロ市場に吸収されたことは、アメリカにとっても福音と言っていい状況であり、アメリカは日ロへの投資を強めると共に、日本の内需拡大政策を参考に『ビッグ・ディール』と呼ばれるインフラ政策を進めていく。
なお、後世の経済学者は、この両方がなければ、過剰生産と裏付けのない金融バブルの末の、アメリカ発の大恐慌が起きたとしている。

さて、そんな日本海軍が、久しぶりに巡洋艦を建造したのは、1928年のことである。
彼らがこの時期に巡洋艦建造を決めたのは、上述した帝都再生計画及び国土強靭化計画が回りだし、国内のあらゆる分野に金が還流したことによる景気の回復が鮮明になり、海軍予算使っても文句言われなくなったことが大きいのだが、同時にこの時期に新たな海軍ドクトリンが固まったことも大きかった。

実用的と言ってよい28式艦上攻撃機(史実96式艦攻)や27式艦上爆撃機(史実94式艦爆)が実戦配備され、29式陸上攻撃機(史実96式陸攻)の実戦配備もまじかになったことで、日本海軍は「航空戦力を主戦力とし、水上艦艇は、航空攻撃で打撃を受けた敵部隊の被害を拡大させる戦果拡大役」という新たなドクトリンを正式に決定する。

180: yukikaze :2019/09/07(土) 15:56:51 HOST:100.82.0.110.ap.seikyou.ne.jp
無論、このドクトリンの構想自体は、1920年代前半から研究されてきたのではあるが、この時期はまだ航空機の性能が不安定であり、主力足りえるかの懸念が大きい時期でもあった。
多くの海軍軍人にとっては、航空戦力は海の物とも山の物とも分からない物であり、このドクトリンを研究していたのが、真野元帥でなければ一笑に付されていたであろう。
後に連合艦隊司令長官、統合幕僚長となる米内光政大将は、この時の真野の研究会の参加者であったが、米内の「ひとつの問題に対して自分が納得が行くまであらゆる角度からアプローチをかけ問題を解決していく」姿勢が、真野の理論を実用化にまでもっていったとされており、真野は「功績は自分ではなく米内に」と、死ぬまで言い続けたとされる。
(これまた余談ではあるが、酒好き、女好きでもあったせいか、真野を通じて知り合ったアーネスト・キング海軍元帥とは、無二の親友となり、キングが第二次大戦後、自らの性格やらで不遇の晩年(家族にすら絶縁状態であった)を送った際には、「転地療養」として、日本に呼んでもてなすなど、米内死去時まで交流は続いている。なお、両名の酒好き、女好きに対して、真野は「程々にしなさいよ。古来より男がしくじるのは酒と女だ」と、注意し、さしもの両名も、恐懼して控えたとされている。)

このドクトリンに基づき、日本海軍は2種類の巡洋艦を建造することになる。
まず軽巡洋艦枠として建造されたのが『大淀』型軽巡洋艦であり、重巡洋艦枠として建造されたのが『妙高』型重巡洋艦であった。

もっとも、両艦の性格はだいぶ異なるものである。
『大淀』型が、別名『航空偵察巡洋艦』と言われるように、航空機運用を重視した艦になったのに対し、『妙高』型は、航空打撃戦力によって傷口を広げた敵艦隊に対して、追撃をかける戦力として位置づけられていた。

実際、この時期の日本海軍の艦艇については、今後必要とされる能力として、

  • 高い防空力(相手が航空主兵となった場合、自艦隊を守らねばならないため)
  • 高速の巡航能力(巡航速度が遅ければ敵艦隊に振り切られる)
  • 敵艦隊に止めを指せる打撃力(当然の理である)

が求められており、故に日本海軍は、山城型戦艦及び長門型戦艦の高速力化(山城型:27ノットから30ノット弱。長門型25.5ノットから28ノット弱)を進められ、『球磨』型軽巡洋艦の後継艦についても、研究がスタートされている。

以下、本級について解説していく。

外観としては、史実オレゴン・シティをベースに、艦橋と二番砲塔との間にあった高角砲及び第三砲塔を廃止し、艦後方上甲板に、片舷5連装魚雷発射管2基づつ備えている。
なお、史実通りのままだとトップヘビー気味になることから、艦幅を幾分増やすことにより、比較的マシなレベルに抑えている。(それでも荒天時の航洋性にたいして『やや不満』とされている。)

砲撃力については、新設計の50口径20.3㎝砲を3連装砲にしたものを採用している。
これはアメリカ海軍の重巡洋艦と比べると、砲身長が短い分、威力が落ちるという意見もあったが、重量軽減及び、本級の砲撃は、敵護衛部隊戦力の強行突破用に使われるものであり、必然的に1万メートル付近での殴り合いが多くなることから、50口径で足りるとされている。
なお、当初は、前部及び後部に主砲塔を1基づつ備え、高角砲については、オレゴン・シティと同じように、亀甲型の配置とした方が良いのではという意見も根強かったのだが、追撃戦において、正面の砲撃力を最大にすべきという意見が勝ち、上記のような配置になっている。

高角砲については、大淀型と違い、砲塔形式として、給弾能力の向上に努めている。
当初は、2番砲塔と艦橋の間にも高角砲を設置すべきという意見もあったのだが、主要防御区画の圧縮及びトップヘビーの軽減から、やむなく断念されている。
その一方で、新開発の70口径40mm4連装機銃を大々的に採用しており、空いている後部甲板において、この40mm4連装機銃が4基備えられており、共産空軍をして『同級への後方からの攻撃は絶対不可なり』という通知が出されることになる。

181: yukikaze :2019/09/07(土) 15:57:22 HOST:100.82.0.110.ap.seikyou.ne.jp
防御構造に関しては、史実利根型の装甲配置となっている。
これは、敵部隊への水雷攻撃を行う際、距離1万メートル付近での接近を行う必要があることから、魚雷発射地点に到達するまでの間で、敵巡洋艦部隊への砲撃に耐えうる構造を取る必要があったからである。
日本海軍艦艇には珍しいインターナル・アーマー方式を採用し、水中防御はそれをはさむ重油層で構成するという、複層型液層防御を取っているのが特徴である。

本級で特筆すべきは雷撃能力である。
61㎝魚雷発射管を後部に片舷2基づつ備えており、一回の雷撃で10発発射することになる。
しかも搭載する魚雷が、史実93式酸素魚雷の3型という素敵性能であり、一発でも喰らえば巡洋艦はもちろんのこと、戦艦ですら大打撃を受けるという代物であった。
彼らの正面への砲撃力を最大にしたのも、防御を強固にしたのも、全ては、敵巡洋艦戦力のバリアーを強行突破するためのものであり、彼らは、水雷部隊への露払い役及び、可能なれば敵戦艦群への雷撃を果たすことが求められていた。

一部には次発装填付の4連装魚雷4基にしてはどうかという意見もあったが、予備魚雷への被弾による大損害の危険性(酸素魚雷から過酸化水素魚雷に変わったが、取り扱いの危険性については変化はない)や、敵弾の飛び交う戦場で果たして演習のように次発装填を迅速にできるのかという問題から取りやめになっている。

機関については、この時期の日本海軍のハイパワーユニットと言っていい、艦本式タービン152,000馬力を採用している。
同艦のボイラーは、主力駆逐艦用のボイラーとして開発されていた蒸気圧力40キロ/平方センチ、蒸気温度370℃の高温高圧缶を採用しており、初期故障は発生したものの、配備されて1年後には問題なく利用されている。
日本海軍の戦艦や重巡洋艦が高速を発揮できるようになったのは、同機関の開発成功によるものが大きい。
ただし、排水量の問題で、同級においてはシフト配置が採用されておらず、水中防御能力については、アメリカ重巡洋艦と比べれば、幾分劣るものとなっている。

なお、本級は、主要防御区画を圧縮することで、防御装甲を増厚しつつ、可能な限り1万トンに近づけようとしたものの、結果的には1万トンを超過することになっている。
そのため、ジェーン年鑑では「本当に1万トンであるのかは疑問が残るところではあるが」と皮肉られていたものの、砲数が6門しかなかったこともあって、それ程問題視はされていなかった。
(むしろジェーン年鑑が注目したのは『大淀』型であった。

また、4個戦隊形成する為に、日本海軍の重巡洋艦としては最多の12隻を建造している。
これは今に至っても破られてはおらず(ただし80年代初めから建造している『金剛』型重巡洋艦によりこの記録は破られる見込みである。)、巡洋艦全体で見ても、『球磨』型軽巡洋艦乃至は1960年代から建造された7,000t級ミサイル巡洋艦である『筑後』型軽巡洋艦(計16隻)しかない。

本級は、当初の想定とは裏腹に、第二次大戦中に敵艦隊に向けて突撃する機会は殆どなく、もっぱら空母機動艦隊の護衛乃至は対地戦闘に明け暮れていた。
僅かに第六戦隊の『羽黒』『高雄』『愛宕』が、共産フランス海軍との海戦で、北アフリカへの護衛船団に向けて攻撃し、敵護衛部隊を叩き潰したものの、フランス海軍の軽巡洋艦が、第一次大戦中にフランス向けに建造し売却した『天龍』型(フランスでは12隻あったことから『12星座級』と称されていた)であったことで、同戦隊を指揮していた五藤中将が『何で異国の地で同じ日本生まれの艦が殺し合わなければいかんのだ』と嘆き、戦闘終了後、時間の許す限り、沈没艦の乗組員の救助を行っている。

戦後は、後部甲板が空いていたことや、隻数の多さから、全艦ミサイル巡洋艦にすることが決定。
史実ボストン級に近い改装となり、『筑後』型軽巡洋艦の数が揃うまでの間、貴重な防空戦力となっている。(新型軽巡洋艦であった『最上』型が、なまじ自動砲を搭載してしまった結果、コストの増大を招き、6隻で打ち切られたことも大きかった。)

なお、軍縮条約凍結以降、1939年には、同級の更なる強化型である『鈴谷型』の建造がされたもののこちらは早期に軽空母として改装が決定され、第二次大戦後は、ヘリ空母や通信中継艦として運用されることになる。

182: yukikaze :2019/09/07(土) 16:11:50 HOST:100.82.0.110.ap.seikyou.ne.jp
投下終了。
かつて投下した『妙高』型の役割を大淀型軽巡洋艦に。
『高雄』型をリファインしたのを『妙高』型重巡洋艦としました。

内容はもう読んでのとおり、防空能力を高めたカチコミ型重巡洋艦。
史実日重巡は、砲塔装甲に妥協する代わりに、砲門数増やして瞬間大火力で消し飛ばすだったんだけど、ここでは砲門数増大が不可能だったので、前面投影面積を最低限にして被弾確率を減らすと共に、前面投射能力を最大にして強引に突破する形式としています。

自分の作る艦こういうのばっかやな・・・
まあこうでもしないと後々の改装がめんどくさいんだが。

派手な水上戦がないのかと思われるかもしれませんが、まともな艦隊持っているの共産フランス位で共産ドイツは、まずは陸軍と空軍それに潜水艦という状況でしたので、派手な水上戦が起きえる可能性が低いと。
まあ共産スペイン海軍という存在もいることはいますし、場合によってはソ連義勇艦隊もありますが。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2019年09月12日 08:48