536: 透過の人 :2019/09/07(土) 11:28:34 HOST:softbank126077075064.bbtec.net
日墨ルート 英国面、アフリカを駆ける
鉄道。どこの国でも主要交通機関として活躍しているこの交通機関には時折変わり種も存在する。
ポルトガル領アフリカに敷設されたユニラインもその1つだった。
第1次世界大戦後、ポルトガルはカタンガ地方を含む旧ベルギー領コンゴ南部を得てかつての悲願であった「バラ色計画」を実現したのだが、
ポルトガルにはその広大な土地におけるインフラ整備をするだけの余力はなく、不安定な政治がさらにそれを難しくしていた。
1927年にアントニオ・サラザール教授が財務大臣に就任すると1932年のジュネーブ国際軍縮会議までにスベインを越えることを目的とした軍備拡張を計画していた軍と真っ向から対立し、
ジュネーブ軍縮会議が流産したことで対立が長引いたためまるでインフラ整備など進まなかった。

そうしている内にポルトガルは第2次世界大戦に連合国側での参戦を余儀なくされる。主にアゾレス諸島、カーボベルデといった植民地を警備するために兵力を増強し、
ベネズエラと戦うブラジルには2個師団を派遣するなど連合国としてのポルトガルを積極的にアピールした。
しかし、それでも第2次世界大戦でポルトガルがえたものは何もなかったといっても良かった。
こうして、ポルトガル領アフリカのインフラは旧ベルギー領のものの方がマシなレベルになってしまう事となり、それは鉄道も例外ではなかった。

もちろん、こうした状況に総督府がなにも対策をしなかったわけではないのだが、アンゴラとモザンビークを陸路で結ぶアフリカ横断鉄道もコストがかかりすぎるという結論になってしまった。
そんなときイギリス、ブロックハウス社から1つの提案がされた。同社が開発した貨物用の新システム、ブロックハウスロードトレイン、通称ユニラインを導入しないかという提案だった。
これは 案内軌条を持つタイヤ式の列車のようなものだが、フランス帝国が植民地で走らせていたミシュリーヌやそれに対抗して作られたイギリスダンロップ社とフランスフーガ社の共同開発した車両と異なり、
この列車はレールの上を直接走るのではなく、レールはあくまで案内用であり、通常の道路を走ることができるのが特徴だった。
これならば敷設するのは案内用のレールを敷設するだけで良くコスト低減も可能として採用されたのだが、
運搬するのがブロックハウス社の想定を超えた量の鉱石や更には貨物用として売り込まれたにも関わらず人間までも乗せようとして設計変更がなされたため大型化を余儀なくされ、
結果として、本格的な道路舗装をせざるを得なくなり、コストが跳ね上がってしまった。

こうして、ユニラインは早期に廃止されたが、ユニライン用に整備された道路は現在でもアフリカ横断道路として活用されており、無駄ではなかったのかもしれない。

537: 透過の人 :2019/09/07(土) 11:31:12 HOST:softbank126077075064.bbtec.net
とりあえず思いついたもの投下終了、
本編を進めなければ思いつつ、本編より外伝的なやつの方が進んでしまうという…

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最終更新:2019年09月12日 09:05