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日米枢軸ルート改訂版第31話

大西洋でイギリス海軍とドイツ帝国海軍が戦いを繰り広げていた一方、西部戦線では年が1915年よりついに化学兵器までもが使用され始めてしまう。

始めに化学兵器を投入したのはドイツ帝国軍であった。

1915年になると、度重なる攻勢の失敗と積み上がった被害の大きさから、これまで鼻息を荒くして攻勢を主張していた強硬派達ですら西部戦線では無理に攻勢に仕掛けてもイタズラに被害を増やすだけだと認識を改めざるを得なくなっていた

国内の反対派が認識を改めたことで、ようやく西部戦線のドイツ軍はファルケンハインの主張通り持久戦を戦略の軸とし始めた

一方、東部戦線では話が違った。
タンネンブルでプロイセンに侵攻してきたロシア帝国軍を寡兵でもって叩き潰せたことから東部戦線のドイツ軍はさらなる攻勢を望み、救国の英雄となった英雄とヒンデンブルクとルーデンドルフさらなるロシア軍への大規模攻勢とそのための戦力の増強を強固に主張していた。

ファルケンハインを筆頭とした西部戦線を重視する軍人たちからしたら寝言は寝て言えと言いたくなるような主張である。
しかし、東部戦線のドイツ軍人達はタンネンブルやその後の東部戦線での戦いの経験から、ロシア帝国を叩き潰すことはそう難しくないと考えていた。
西部戦線の突破が難しいのなら、まずは二正面状態を解消するために東部戦線を片付け、その後全軍をもって英仏を叩き潰せば良いと彼等が考えるのもある意味で仕方ないことだろう。

西部派と東部派の意見が食い違うなか、両者に挟まれたドイツ帝国政府とウィルヘルム2世は、両方の意見を共に受け入れるという最もやってはいけない選択肢を取ってしまう。
そして、東部派が希望した規模より遥かに小規模ながらもファルケンハインら西部派の反対を押し切って東部戦線への兵力移動が決められた。

西部戦線から少なくない規模の部隊が東部戦線に移動させる必要に迫られたファルケンハインは、英仏に西部戦線の戦力減少を気づかれないよう西部戦線での限定的な攻勢を計画する。
いくらかの検討を経て、攻勢地点は西部戦線において唯一の突起部でありドイツ軍の半包囲化に置かれているイーペルに決まる。

1915年4月22日、ドイツ帝国軍はイーペルにて攻勢を開始。第二次イーペル会戦が幕を上げる。

当時のイーペル周辺にはベルギー軍3個師団、フランス軍2個師団、イギリス軍6個師団の計11個師団が展開していた。
対するドイツ軍側の戦力は10個師団を中核とする第4軍のみで数の上では劣っていた。

数の劣勢を補うためにドイツ軍は砲兵やゴーダG.LXXV、ファルツD.LXVIなどの爆撃機を用いて戦線規模でCS-15化学弾頭弾による攻撃する。してしまう。

CS-15化学兵器弾頭は強固な護りを誇り塹壕陣地から敵兵を追い出すために、フリッツ・ハーバー博士やヴァルター・ネルンスト博士の提案を受けて実用化された兵器で、弾頭内には殺傷能力を持つ塩素ガスが充填されていた。
ドイツ軍参謀本部はこの化学弾頭弾を塹壕陣地を突破するための切り札として第4軍に集中的に配備していたのだ。

化学兵器の使用は当時の戦時国際法を定めた1907年ハーグ陸戦協定に明確に反している。
だが、永世中立国を蹂躙し、ボリモフの戦いでは催涙ガスを大々的に使用したドイツ帝国内に今さらこのことを気にする人間はいなかった。

CS-15はドイツ軍が期待した以上の成果をもたらす。
当初のドイツ軍はあくまでも協商軍部隊を塹壕陣地から追い出す程度の効果しか期待していなかった。

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585 : ホワイトベアー sage 2023/06/24(土) 20:15:44
しかし、実際には協商軍戦線ではいつも通りドイツ軍からの砲撃や爆撃が始まったかと思うと黄緑色の煙が充満し、少しすると付近の兵士達がもがき苦しみながら次々と死んでいくという地獄のような光景が広がった。

この光景は無事だった協商軍兵士の士気を打ち砕き、広域での化学兵器による攻撃を受けた協商軍は師団規模の死者を出した上に恐慌状態に陥ってしまう。
とくに真っ先に攻撃を受けたフランス軍にいたっては、統制を失った状態で全ての装備を放棄して逃亡するという醜態を見せてしまうほどであった。

一時的とは言え組織的な抵抗力を失った協商軍がドイツ軍の攻勢に耐えられるはずもない。
ドイツ第4軍はこれまでの激戦が嘘だったかのように安々とイーペル各地で防衛線の突破に成功していった。

協商側にとって不幸中の幸いだったのは、ドイツ軍の目的はあくまでも東部戦線への兵力の移動を隠すことであったことだ。
第二次イーペル会戦においてドイツ軍第4軍は十分な戦力も積極的に攻勢を行う意欲も持ち合わせていなかった。

そのため第4軍の動きは遅く、そこに第1カナダ師団やイギリス軍第23師団、元海軍大臣であったウィストン・チャーチルが指揮する王立スコット・フュージリアーズ連隊所属第6大隊などの短時間のうちに統制を取り戻した幾つものイギリス海外遠征軍部隊が全滅を覚悟で抵抗や反撃を実施。莫大な犠牲者を出しながらも5月8日までにドイツ軍のさらなる前進を防いだ。

西部戦線での戦いは夏になると両軍共に再編や補充のために攻勢をしたため一旦落ち着きを取り戻したが、1915年の秋になると英仏はシャンパーニュ地方にて大規模な攻勢を開始する。

後に秋季攻勢と呼ばれるこの大攻勢に際して英仏は航空偵察による事前攻撃目標の制定を行い合わせて45個師団、2,000両近くの戦車、航空機1200機を用意した。
事前攻撃では5,100発を超える塩素ガス弾頭弾や6桁を超える通常砲弾を第二次イーペル会戦の報復と言わんばかりにドイツ軍に叩きつけた。

いくら強固な塹壕陣地を有するドイツ軍といえどもこれほどの攻撃を受けてはひとたまりもないだろうと英仏の誰もが思った。
実際、協商軍は大した被害もなくドイツ軍防衛線の最外郭を突破する。

しかし、ドイツ軍は協商軍の動きをある程度把握しており、第2防衛線に主要な砲兵部隊を配置していた。
ドイツ軍第2防衛線は協商軍砲兵部隊の射程範囲外にあったため、本来ならこれらの砲兵は航空攻撃で事前に排除する予定であった。
だが、協商軍航空部隊はドイツ軍戦闘機部隊によるインターセプトを受け、砲兵部隊の排除に失敗。
無防備同然な状態でドイツ軍砲兵の全力火力投射を受けた英仏軍は、短期間のうちに大損害を出し上に攻勢開始地点まで押し戻されてしまう。

攻守を入れ替えるように今度はドイツ軍が協商軍に対して攻勢を実施。
今回は第二次イーペル会戦とは違い西部戦線の突破を目指した大攻勢であったが、英仏も伊達に長年列強の座に座っていたわけではない。

この時には英仏は簡易的ではあったもののガスマクスを始めとした化学防護装備を主要な部隊に行き渡らせており、化学兵器による攻撃を受けてなお防衛線を維持。
第一防衛線の突破に手こずるドイツ軍に対して、フランスが世界に誇る砲兵隊の全力阻止砲撃を実施し攻勢を撃退した。


第二次イーペル会戦と秋季攻勢以後、西部戦線では両軍問わずが化学兵器を積極的に使用されていくことになる。
しかし、化学防護装備の発展や化学兵器の使用が既知となったことで十分な効果を発揮した第二次イーペル会戦ほど効果を発揮することは終ぞなかった。
西部戦線ではこれまで以上に莫大な死体の山が築かれることになりながらも両軍ともに戦線を維持し続け、膠着状態が続いていく。

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586 : ホワイトベアー sage 2023/06/24(土) 20:16:18
一方、東部戦線では1915年春より西部戦線から増援を受けたドイツ東部軍が攻勢を開始した。

ロシア軍も全力でこれに反撃するが、ドイツ軍はこの攻勢の事前準備として前年より東部戦線全域における大規模な航空殲滅戦を仕掛けており、このときの東部戦線におけるロシア軍の航空戦力は壊滅状態にあった。
さらに地上戦力でもドイツ東部方面軍が完全編成の機甲師団を含む34個師団を有していたのに対して、前年までの戦いで大敗を続けたロシア軍の戦力は、極東軍の移動や多くの部隊の再編が間に合っていないこともあって実質的には30個師団に満たなかった。

ただでさえ戦力で劣る上に制空権も奪われていたロシア軍は、毒ガスなども使用したドイツ側の容赦ない攻撃によって、最終的には大撤退と呼ばれる事になる戦略的撤退を実施する事になる。
ドイツ軍はこれに追撃をかけたか無傷の状態にあったオーストリア国境方面のロシア軍部隊が殿についたこともあって、ロシア軍は包囲される前に軍の撤退を完了させ事なきを得る。
しかし、負け続けな上に国境まで押し戻されたという事実はロシア軍の士気を大いに下げる事になった。

大撤退に際してオーストリア方面に展開していたロシア軍のほぼすべての戦力が撤退支援に駆り出され、オーストリア・ロシア国境地帯はほぼガラ空き状態になった。
東部戦線を崩す大きな隙を手に入れたドイツ軍はオーストリア・ハンガリー帝国に部隊の受け入れと共同での攻勢を要求する。

東部戦線での圧倒的な戦況を見たオーストリアの一部は本格的なロシア侵攻を声高に叫んでいたこともあって、ドイツの誰もがオーストリア・ハンガリー帝国がこの要請を受け入れると確信していた。
しかし、ドイツ側の無制限潜水艦作戦によって少なくない被害を受け、さらに無制限潜水艦作戦によってオーストリア・ハンガリー帝国最大の貿易相手国である日米の機嫌損ない、その回復のために本来なら必要のなかった外交的労力をかけたオーストリア・ハンガリー帝国はアレコレ言い訳を並べてこれを拒否する。

ロシア軍もオーストリアとの国境線上には形だけの部隊は残していたが、オーストリア・ハンガリー帝国軍のやる気のない姿勢と本国からのことを荒立てるなという命令もあって、これらの部隊に緊張感なんてものは存在しなかった。

そもそもの激戦が続く西部戦線や独露戦線とは違い、開戦時から奇妙な戦争が続くオーストリア・ロシア国境地帯では双方の上層部では不慮の事故に備えてホットラインが敷かれてた。
前線では双方の兵士たちが堂々と塹壕を出たうえでタバコや菓子を交換し合うような光景が日常と化し、敵前で日向ぼっこをしたり、サッカーや映画鑑賞に興じたりする姿が各地で見られる程度には『平和的』な『戦場』の姿があった。

そんな彼らを象徴するものとして、両軍の将兵たち自国の言葉や文化、料理などを教えてあう姿や両軍の兵士や将校が昼間から無人地帯にて共にワインを足しなんでいる姿が写真に収められている。

オーストリア・ロシア国境地帯の情報は双方が隠そうともしなかったためドイツ側も知ってはいた。
当然、ドイツ国民やドイツ軍は同盟国であるはずのオーストリアの行動に怒りを抱かぬはずがない。
だが、最悪なことに当時のドイツは消費する石油の大半を日米との貿易が続いていたオーストリア・ハンガリー帝国に依存していた。

西部戦線や東部戦線で大規模な戦闘を続けるドイツ軍にとってオーストリア・ハンガリー帝国を介した石油調達ルートは文字通りの生命線である。
このことを十二分に理解していたオーストリア・ハンガリー帝国がこれを外交的な武器としないはずがなかった。

同盟陣営ではドイツがオーストリアに『同盟国として誠実な行動』を求め、オーストリアがドイツに対してオブラートに包みながら石油の供給停止をチラつかせるという外交的暗闘が続いていくことになる。

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587 : ホワイトベアー 2023/06/24(土) 20:16:49
以上になります。
wikiへの転載はOKです

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最終更新:2024年05月24日 17:12