日米枢軸ルート 第32話(改訂版)

一部を除く欧州で激しい戦火が繰り広げられているなか、中立国である日本やアメリカでは欧州の戦乱を無視して大戦景気と言うべき好景気にあった。

開戦時はイギリスの海上封鎖によってドイツへの輸出ができなくなるなど、戦争による対欧州貿易の悪化による一時的には景気の悪化も懸念されていた。
しかし、予想に反して日米両国の経済は大戦の勃発後も悪化することはなかった。
それどころか大戦勃発後、日米から欧州やその植民地への貿易量は増加の一途を辿り、それを起爆剤にする形で日米の経済は空前の好景気を迎えていた。

欧州列強の名は伊達ではない。
イギリスやフランス、ロシア帝国、ドイツ帝国などの世界大戦に参戦した欧州列強諸国はその名前に相応しい強大の工業力を有する、人類史上でも有数の大国達であった。
そんな欧州列強をしても、総力戦というブラックホールの前では戦争に直接的に寄与しない物資の生産を削減し、直接的に戦争で使用する兵器の生産に集中しなければならなかった。

国内の工業力の大半を兵器の生産につぎ込む以上、従来国内で生産されていた民需品の生産量が低下するのは当然のことである。
近代のサプライ・チェーンというは非常に微妙なバランスで構築されている。
民需品の不足は国内の生活水準を下げるのみならず、軍および軍需・産業経済の一部にとって必要とされる関連した製品の不足を招いてしまった。

戦争遂行に必要な資源や物資の生産に必要な物資が不足するが、直接的に戦争に関わらないそれらを自国で生産する余力は存在しない。
そんなジレンマに悩まされた欧州列強が見出した解決手段はある意味で簡単なものだった。
自国で生産する余裕がないのなら、他所から輸入すれば良いのだ。

幸か不幸か、協商・同盟双方は不足する物資を補ってくれる存在がいた。
現存する中では世界最古にして人類史上最長クラスの歴史を有する帝国たる大日本帝国と、もっとも新しい成功した人工国家にして新大陸のローマたるアメリカ合衆国の2カ国である。
僅か2カ国で協商と同盟すべてを凌駕する圧倒的な国力を有するアジアと新大陸の覇者達からしたら、欧州列強が求める量の物資や資源を供給するなど容易いことだった。

これら2カ国はその国力に裏打ちされた強大な軍事力を有する列強でもある。
戦線が膠着状態に陥った今、未だ大戦に参戦していない大日本帝国とアメリカ合衆国が何処に付くかで世界大戦の流れが大きく動くのは誰が見ても明らかだ。


協商は言う。
ドイツ帝国の野心を挫き、国際社会の平和を回復するためには日米の力が必要だと。

ドイツ帝国は言う。
世界には新たな秩序こそ必要であり、そのためには日米独が協力してこそそれは成し遂げられると。

両陣営からラブコールと共に莫大な量の発注書を受けた日米両国は、ノラリクラリとそれを躱しながら協商には戦前に構築していたアーシアン・リングを用いて、同盟にはオーストリア・ハンガリー帝国を介する迂回ルートを構築した上で莫大な量の物資や資源を輸出していった。

日米は欧州本国に莫大な量のメイドインジャパンやメイドインUSAとラベルのついた商品を流し込むのと同時に、欧州からの供給が途切れた欧州列強の植民地にも必要な生活物資を輸出した。
戦争に必要な物資の生産に工業力を集中させる欧州列強の植民地でも、本国と同様に日米製品がその市場を席巻する。

『ハートリプールの悲劇』や『第二次イーペル会戦』でのドイツ帝国の蛮行が発覚すると大日本帝国とアメリカ合衆国の世論は反ドイツ帝国に傾くが、それはそれとしてオーストリアを隠れ蓑()にした中間貿易をやめることはなかった。

日米の民需品が協商・同盟を問わず輸出されたのに対して、兵器などの純軍事用物資の輸出は例外こそあれど世界大戦勃発後は実質的に協商国のみに絞られていた。。
というのも日米はドイツの一方的なベルギー侵攻に対しては表向きは協商国を支持し、ドイツ帝国を非難する立場を取っていた。
そのため完成した兵器類など日本政府が指定した一部物品に関しては、他国への転売を禁止する条項を持ち込むことで事実上同盟陣営への禁輸を実施。
日米の対ドイツ貿易は一度オーストリアの企業に売り、その後オーストリアの企業がドイツ帝国に売るという所謂転売方式を取っていた。
そうであるからこそ同盟側への輸出品は民需品や資源のみに抑えていた。

日米がオーストリアを経由してドイツに物資や資源を供給している事実は協商側も把握していた。
しかし、日米は自主的に兵器類のドイツ輸出を禁止することで一応は協商よりの立場を見せてはいる。

さらに協商諸国にとって日米は物資の供給先というだけでなく、戦時国債を大量に買い取ってくれるスポンサーでもあった。
協商諸国が今後も戦い続けるには日米の協力が必要不可欠なのは自明の理である。

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6 : ホワイトベアー sage 2023/07/09(日) 22:05:27
そうであるからこそ英仏もあからさまに文句も言えなかった。
彼らにできるのはせいぜいが日米が黙認する北海封鎖によって直接的なドイツへの物資の流れを断つことのみで、オーストリアを経由した日本とドイツ帝国の貿易は遮断する事ができなかった。

むろん、協商側としては何としても日本から同盟陣営への物資供給を止めたい。
少なくともオーストリアからドイツに日本からの石油などの重要資源が流れ込む事は避けたいと思っていた。

さらに未曾有の消耗戦となったヨーロッパでの戦争を前にしたら日米の持つ圧倒的な軍事力は、『国境の戦い』や『海への競争』などで大きな被害を負っていた非常に魅力的なものである。
これらの目的を果たすため、協商国は日本とアメリカに対ドイツ宣戦布告と大軍の派兵を求めていた。

協商国の暗号を解読していたことや、外務省や軍、インテリジェンス組織による情報収集とその分析によって、日本とアメリカは協商国の思惑を十二分に理解していた。

両国は協商からさらなる譲歩を引き出すべく同盟国側からも参戦を打診されていることを匂し、協商を揺さぶりながら派兵要請をのらりくらりと回避しながら交渉を続けていった。
しかし、そんな日米や協商にとって許容できない結果をもたらす事態が1916年2月に発生する。
そう『ヴェルダンの戦い』だ。この戦いが今次大戦に大きな影響を与え、それまで異常がなかった西部戦線に重大な異常を生み出す事になる。


1916年、ドイツ帝国陸軍参謀総長であるファルケンハインは、世界大戦のこれまでの戦いを士気旺盛、武装良好でかつ数量が同等な敵に対する突破の企図は成功の見込みが少ないことを十分に理解していた。
日本という変数もあって自動車部隊や戦車部隊など史実よりも大規模かつ組織的な機械化部隊を有していたが、未だ攻者の戦力の大多数は徒歩で前進するのに対し、防者は鉄道を利用して多くの場合突入された戦線に戦力を集中できる。
また、被攻撃正面部隊に退却の判断を任せたなら突破口の閉鎖は簡単で、これを妨げることはほとんど不可能であると考察した。
ファルケンハインは自らの考察に基づいて、突破ができないのであれば敵を消耗させて屈伏させるほかないと考えていた。

その上で彼は、東欧で相対しているロシアは人的資源が豊富であり、国土もシベリアなど極東まで広大で攻めれば攻めるほど補給に負担がかかる。
ロシア帝国を主敵とした場合、ロシアが消耗する以上に自軍が消耗してしまう以上、屈服させる候補から削除するしかなかった。
同じくイギリスもイギリス海軍があるかぎりイギリス本土は無事である。
艦砲射撃や航空戦力によるイギリス本土攻撃で戦意を削ぐことが不可能な事が証明された以上、イギリスを屈服させることも不可能だとして候補から削除した。

そうなれば自ずと攻撃対象が決まる。
そう、フランスである。

この時のフランスは協商国の西部戦線の中核であり、開戦以降もっとも多くの損害を出していた国家でもあった。
それゆえにフランスを消耗戦に追い込み、その戦意をへし折ることこそ戦局に大きな影響を及ぼせる唯一の手段とファルケンハインは考え、フランスを相手に攻勢をかけることを計画する。

そして攻撃地点としてフランス軍が必ず固守するであろう場所を選定した。

その地こそヴェルダンである。

ヴェルダンは古くからフランスとドイツを結ぶ街道上にある交通の要衝であり、ドイツからパリを守る城門として機能していた。
それゆえに19世紀から堡塁や砲台によって強固な防衛を誇る防衛線が整備されてきた。
第一次世界大戦直前にはヴェルダンを中心にドォオモン堡塁やヴォー堡塁など多くの堡塁が建設され、それらを有機的に配置した要塞帯となってるほどフランスにとってはこの地は重要であったのだ。

また、ヴェルダンはこの時、ドイツ軍の支配下にあった主要鉄道から20kmしか離れておらず、その反面、協商側にとってはフランスの鉄道網かた孤立しており、パリとヴェルダンをつなぐ鐵道一本しかないという地形的な理由もこの地を攻撃の目的としてドイツ軍が選んだ理由のひとつであった。

ドイツ軍はこの地に攻撃を仕掛けることでフランスの反抗を誘発し、大量の犠牲者をフランスに生ませることでフランスの人的資源を失わせ、それらを持ってフランスの戦意をへし折る事を目的とした作戦を皇帝ヴィルヘルム二世に上奏する。
ヴィルヘルム2世も停滞する戦況を打開するにはこれまでとは違った視点での作戦が必要だとしてファルケンハインの作戦を承認。
許可を得や参謀本部は攻撃をドイツ皇太子ヴィルヘルム中将指揮下の第5軍に対してヴェルダンへの総攻撃を命令した。

この時の第5軍は11個師団から編成され、ヴェルダンの戦いにはその全てが第一線に配備されていた。

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7 : ホワイトベアー sage 2023/07/09(日) 22:06:16
2月21日、ドイツ軍は1000門、野砲800門をもって猛烈な砲撃を開始、ヴェルダンの戦いの幕は揚がった。

攻勢にあたりドイツ帝国軍は奇襲性を失わせないようにするために事前砲撃時の精密射撃を辞め、地帯射撃を採用することによって照準を簡略化していた。
わずか九時間と言う従来と比べると圧倒的に短い準備砲撃であったが、ドイツ軍は重砲天文学的な数の砲弾をヴェルダンに撃ち込んだ。
そして、準備砲撃が終わるのと同時に戦車部隊を先頭に歩兵部隊が突撃を開始する。

当時の西部戦線の戦闘推移としては数日にわたる準備砲撃の後に部隊が突入する形が一般的であった。
そうであるがゆえにドイツ軍の砲撃を察知したフランス軍はこれまで通り塹壕内に退避する。
だが、今回のドイツ軍の準備砲撃は短時間の内に終わり、ドイツ軍部隊は突撃を開始。
フランス軍部隊が防衛配置に着く前にフランス軍陣地”だった“場所を突破し、脆弱なフランス軍の防衛を食い破り、作戦開始からわずか4日で第二防衛線まで陥落、前線はドーモン堡塁に達していた。

ヴェルダン要塞は攻撃を受けると即座に援軍を要請していた。
しかし、この時のフランス軍最高司令官ジョゼル・ジョフル将軍は要塞を護ることよりも的野戦軍の撃破を優先していたため援軍の派遣を却下、ヴェルダン要塞には現地戦力での防衛を命じた。

ジョフルの判断に慌てたのがフランス軍参謀総長カステルノーであった。
彼はフランスが大きな被害を受けてもなお戦意が保てているのは一重にパリが健在であるがゆえだと考えていた。
逆に言えば、パリが陥落してしまえばフランス国民の戦意は折れてしまうだろうと。

だからこそ、パリを護る最後の盾であるヴェルダンの陥落は絶対に赦してはならないとして、彼はジョフルに直談判に出る。

彼の説得やジョフルの師であったジョゼフ・ガリエニ将軍の生前の言葉もあって、あってジョフルはヴェルダンへの援軍の派遣を決断。
カステルノーに文字通りヴェルダンを護るために必要な全ての権限を与え、彼を現地へと派遣する。

これこそがドイツ軍の目論見だと気がつかずに。

ヴェルダンに到着したカステルノーは現地を視察し、ヴェルダン防衛の為に指揮系統を1つにまとめるためにフィリップ・ペタン将軍を現地司令官にすることをジョフルに要求する。これを受けたジョフルもこの人選には納得し、即座に手配、ペタン将軍と大量の予備軍をヴェルダンに派遣する。

そうしている間にドイツ軍は『ビッグ・バーサ』の異名を持つ42cm榴弾砲を投入してドーモン堡塁を陥落させる。
堡塁の陥落により防御陣地の加護を喪ったヴェルダンでは血で血を洗う壮絶な消耗戦が繰り広げられていく。

ヴェルダンに到着したペタンは予備軍の中では精鋭である第20軍団を前線に派遣、防衛線再構築の為の時間を稼ぐ。
この第20軍団は戦力の8割喪失と言う大きな犠牲を払いながらもこの任務を果たした。その間にペタンは補給線の再構築を開始。鐵道がドイツ軍の射程範囲内にしかないことから、日米から大量に輸入していた貨物トラックや国内のトラックというトラックを徴集して自動車による補給線通称『聖なる道』を確立させるのと同時に、ありったけの砲兵部隊をミューズ河西岸に展開させ、ドイツ軍に圧力をかけた。

この圧力を受けた第5軍は攻撃方針を改めミューズ川右岸のみの攻撃を廃し、両側を攻撃してヴェルダンを包囲することに方針を変えた。
そして4個師団が増強され、2日間の砲撃の後に攻撃を開始する。
しかし、もはや奇襲効果などあるはずもなく、フランス軍の増援部隊が到着し始めたこともあって損害ばかりが増えることとなった。

ミューズ河両岸においては仏独両軍の執拗な消耗戦が生じ、特にヴォー堡塁およびキュミエール=ル=モールトムでは惨烈極まりない戦いが展開された。
3月末、攻撃開始から約一ヶ月がたった頃になるとファルケンハインは自軍の損害の多さから作戦の中止を考え始めるが、皇太子の説得もあって攻撃続行を決意する。
ドイツ軍は目標をルモルトンの丘に転換し、5月に占領に成功。
ペタン将軍の防御重視の姿勢に不満を抱いていたジョフル将軍は彼をヴェルダンから放し、自らの子飼いにヴェルダンでの指揮を取らせるべくラングル・ド・カリー将軍の後を継がせフランス中央軍集団司令官に転出させた。
ペタン将軍の後任としてヴェルダン防衛軍司令官はニヴェル将軍が任された。

6月7日、ドイツ軍はやっとのことでヴォー堡塁を占領した。
これはフランス軍首脳部の大きな動揺をいざない、フランス軍総司令官であるフォッシュ将軍は撤退を考え始めた。

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8 : ホワイトベアー sage 2023/07/09(日) 22:06:49
その後、ヴェルダンの戦いを支援するためにイギリス軍を中心としたがソンムに攻勢に出た結果、ドイツ軍の攻勢は当初より勢いは一旦は弱まるが、
東部戦線では史実で同盟国陣営の疫病神であったオーストリア・ハンガリー帝国が実質的に参戦していないことから、ブルシーロフ攻勢は史実ほどの成果を出せず、ドイツ軍の攻勢は継続。

1917年1月29日にはついにフランス軍はヴェルダンからの撤退を開始。ヴェルダンはドイツ軍の支配下に入る。この一連の戦いによってフランス軍は782,300名近くの損害を出しながらドイツ軍に敗北、それまでもこれといった勝利がないことから、ついに一部を除いてフランスの戦意は折れかけてしまう(戦意が折れなかった一部の筆頭はフランス軍総司令官ジョゼル・ジョフルとフランス大統領レモン・ポワンカレ)。

フランス政府では大統領の大反発がおきていたものの、それでも戦意の折れかけているフランス国民の世論を受けてドイツとの和平をも考え始めた。
この情報は即座にイギリスやロシアといった協商国はもちろん、日本やアメリカと言った連合国の債務を持っていた国家にも伝わり、それらの国々に大きな衝撃を与えた。

イギリスやロシアなどの協商国主要国は勿論、日本やアメリカすらもは何とかフランスの戦争からの脱落と言う最悪の未来を避けるべくフランスの有力者と接触。彼らに戦争継続を説いていくが、その甲斐なく対ドイツ強硬派であったジョフル将軍が更迭されるなど、フランス国内では急速に和平に向けての体制構築が行われていった。

一方、ドイツ軍はこの戦いでヴェルダンこそ手に入れたが、死傷者546,800名という当初の予定を大きく上回る損害を出してしまい、さらに東部戦線では日本製の装備を有したロシア軍によるブルシーロフ攻勢(※1)によって、ドイツ東部方面軍が大損害を被ったことから東部戦線にさらなる戦力を送らなければならない羽目になった。

こうした理由によりドイツ軍はヴェルダンの戦いに勝利後、部隊の再編と防衛体制の構築のために進軍を停止、ヴェルダンの防御を固めることを優先する。

ヴェルダンの戦いが開始されたのと前後してドイツは協商に物資を届けさせない為に無制限通商破壊を再開していた。
通商破壊に出たドイツ海軍の攻撃目標は、中立国・協商国問わず協商国向けの物資を運ぶ民間艦船であり、当然その中には日米船籍の艦艇も含まれていた。
自国の艦艇と国民を攻撃された以上、日米も黙っている訳がない。
日米は報復として直ちに対ドイツ貿易を凍結、日米とドイツの関係は急速に悪化していく。

4月12日、アメリカからイギリスに向かっていた客船『コロンビア』が、6月18日には客船『モーリタニア』が、12月21日には輸送船『かいてん丸』が沈められ、1916年12月28日にアメリカ合衆国および大日本帝国はドイツとの国交を断然、国内にあるドイツ財産を全て凍結した。

これに焦ったドイツは外務大臣アルトゥール・ツィンメルマンの名の下にメキシコ政府と中華民国政府に同盟の締結と日米への先制攻撃の提案とそれを支援すると言う内容が書かれた電報を"日米の通信網"を利用して両国に送りこむという特大のオウンゴールをきめてしまう。

当然、この電報は日米のインテリジェンス組織も完全に内容を把握していた。
協商国の敗北を望まず、ヴェルダンの敗北を挽回するために参戦の大義名分を探していた両国政府はただちにこの電報を公表しようと考えたが、このような非現実的内容(※2)を公表しても国民の賛同は得られないと躊躇ってしまう。

日本やアメリカの悩みを解決したのは、意外というか当然というかイギリスであった。
アメリカや日本の通信を日頃から傍受していたイギリスは、ツィンメルマン電報の傍受にも成功していた。

ツィンメルマン電報の傍受はイギリスによってまさに天からの助けであった。
フランスの戦意が折れかけていることに危機感を抱いていたイギリスは、日本とアメリカを協商国側で参戦させることでこの危機的状況を打開しようとしていた。

当然、イギリスは直ちにこのことを日米国民に公表しようと考えるが、ただ公表するのではイギリスが組織的に日米の通信網を盗み聞きしていたことを公表するようなものだ。

どのような名分を付けてこの情報を公表しようか悩みに悩んだイギリスは、メキシコシティの公共電信局と南京の公共電信局から盗み出した電報のコピーと言う形で日米政府と両国のメディアにツィンメルマン電報の全文を公開する。

しかし、この電報は内容が内容な為、日米政府が考えたように両国の国民の大半はツィンメルマン電報を協商側の偽電であると考えてしまった。
さらにメキシコ政府、南京政府、ドイツ大使もツィンメルマン電報の存在を否定していたため、協商側の参戦工作の一環として終わるはずだった。

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9 : ホワイトベアー sage 2023/07/09(日) 22:07:21
……はずだったのだが、何を考えたのかドイツ本国がこの電報は本物と公表してしまう。
ドイツ外務省の発表は瞬く間に日米両国の本土にも伝わった。
両国国民の対ドイツ感情はそれまでのドイツの行い(無制限通商破壊)もあって一気に大爆発、両国の国内の世論はドイツ討つべしの大合唱となる。
世論の声は協商の敗北を望まない財界や政界の意見とも一致していた。

1917年2月3日に大日本帝国総理大臣 斎藤 弥三郎とアメリカ合衆国大統領ウィリアム・タフト(1916年の大統領選で三選を果たした)が大日本帝国布哇自治区の真珠湾海軍基地で会談を実施、そこでの合意内容に基づいて4日後の2月7日にニチベイ両国はドイツ帝国に宣戦を布告する。
同時にこれまでの無制限通商破壊による損害の報復としてアイスランドのケプラヴィーク航空基地に待機させていた最新鋭の戦略爆撃機である15式戦略爆撃機100機をドイツ帝国に向けて出撃させる。

日米の参戦によってこの戦争はついに本当の意味での世界大戦となった。


(※1)
1916年11月から開始されたロシア軍の大規模攻勢。
騎兵師団10個と歩兵師団54個が動員され、東部戦線のドイツ軍に大きな損害を与える事に成功している。しかし、攻勢途中であった4月に本国で革命が発生。以降、攻勢は止まり互いに塹壕を掘ってにらみ合いが続くことになる。

(※2)
この時のメキシコは革命によって政府軍と革命軍の間で内戦がおきており、中華民国でも南京の中央政府の力が弱く軍閥が闊歩している状態であり両国共に外に目を向ける余裕がないことは周知の事実であった。

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10 : ホワイトベアー sage 2023/07/09(日) 22:08:40
以上になります。wikiへの転載はOKです。

ちなみに余談ですが、外務省のやらかしを知らされたファルケンハインは、参謀本部にある自らの執務室で総統閣下をすることになりました。

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最終更新:2024年05月25日 11:13