日米枢軸ルート 第33話 改訂版

1917年2月7日、日米の宣戦布告と同時にケプラヴィーク航空基地を飛び立った日本海軍の戦略爆撃部隊は大西洋上で28機ずつの部隊に別れ、それぞれポツダム、ケーニヒスベルク、ハンブルク、マクデブルク、ケルン、ドルトムントを目指して進路をとった。

2月7日午後22時30分、日本国籍マークが書かれた爆撃機はなんの妨害もなくドイツ帝国本土上空に到着。
手始めとしてドイツ帝国有数の港湾都市であったハンブルクに対して大規模な空襲が行われた。

日本海軍が無制限潜水艦作戦というナメたマネをしたドイツに差し向けた爆撃部隊は、その全てが日本海軍航空隊の『15式戦略爆撃機』で構成されていた。
『15式戦略爆撃機』は日本軍初のジェットエンジン搭載爆撃機である『10式戦略爆撃機』のデータを踏まえ、来る欧州列強との全面戦争の際、自国の勢力圏内から欧州列強本土を直撃できる『大陸間爆撃機』として開発された最新鋭の超大型戦略爆撃機である。
その性能は約16,000kmと言う極めて長い航続距離と約14,000mと言う当時の爆撃機を遥かに越える実用上昇限度を有し、最大爆弾積載量は驚愕の約24.5トンを誇っていた。

参考までに満州戦争時の日本軍主力爆撃機にして最大の爆撃機でもあった『92式戦略爆撃機』の爆弾搭載量が、短距離爆撃任務でも3.6トン程度であった。
すなわち『15式戦略爆撃機』は1機で『92式戦略爆撃機』6機以上の攻撃力を誇っていたのだ。

対するドイツ側であるが、世界大戦初期に行われたハートリプール襲撃後から協商・同盟双方ともに都市爆撃を行っていた。
そのため、ドイツ帝国の主要都市では防空陣地と航空部隊による厳重な防空体制が構築されていたが、それらはあくまでもイギリスやフランスを相手として構築されたものである。

ドイツ軍の防空網は『15式戦略爆撃機』が規格外な程の高高度を飛行していたことや夜間と言うこともあって早期対処に失敗。
日本軍戦略爆撃機部隊はハンブルク上空まで何の妨害も受けずに到着してしまう。
目標の上空まで到達すると『15式戦略爆撃機』は爆弾倉を開放。無防備な姿をさらすハンブルグに対して爆撃を実施した。

この時、ハンブルクに襲来した『15式戦略爆撃機』は1機辺り250kg爆弾と焼夷弾を合わせて108発搭載していた。
すなわちハンブルグには短期間のうちに3,000発以上の大型爆弾が降り注いだのだ。

寝静まっていたところを突然の空襲によって叩き起こされた市民達は絶えず鳴り響く爆発音と迫りくる炎にパニックに陥る。

ハンブルグ市民にとって不幸だったのは、来襲した『15式戦略爆撃機』には通常型の航空爆弾の他に、最新鋭爆弾であるMk.4B特殊焼夷弾が搭載されていたことだ。
Mk.4B特殊焼夷弾は主燃焼剤に粘着剤を添加したいわゆるナパーム弾で、親油性ゆえに水をかけても消火ができず、10分前後も燃え続けることができる凶悪な兵器であった。

日本軍は今回の爆撃を前に高高度偵察機である参戦前から爆撃候補に上がるだろう都市を念入りに偵察していた。
さらに重要都市に関してはわざわざ日本本土やアメリカ本土にレプリカの街を造り、どのように爆弾や焼夷弾を投下すれば効率的に都市全体を焼けるかまで研究していた。

その成果は今回のハンブルグ空襲で十分以上に効果を発揮してしまう。

焼夷弾を防げる頑丈だった施設群や消防施設、橋梁はまっさきに通常爆弾で吹き飛ばされ、主要な大通りには付近の建物を吹き飛ばして瓦礫で障害を造り出した。
ただでさえパニックによって混沌としていた状況下でのこうしたハラスメント攻撃は、ハンブルク市民の避難をより困難にした。

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325 : ホワイトベアー sage 2023/07/17(月) 18:05:29
そして、通常爆弾による攻撃によってハンブルクの機能を大きく低下させると日本軍は焼夷弾による攻撃を開始。
あらゆるものを焼き尽さんと1,000発を超えるナパーム弾が悲鳴と混沌で覆われたハンブルクに投下された。

その後にハンブルクで顕現した光景は、ハートリプールの惨状すら生易しいと表現できる地獄そのものだった。
何しろ泥縄式で行われたハートリプール砲撃とは違い、今回の爆撃は如何に効率的に、徹底的に、合理的に、多くの人間と施設を焼き尽くせるかを徹底的に研究して行われたものだ。
その被害規模は比べものにならないのは致し方ないだろう。

都市部で連続的かつ強力な爆発が多発したことでようやく敵の存在に気づいたドイツ軍は、遅まきながら迎撃要綱に基づいてただちに高射砲による攻撃や迎撃戦闘機の出撃などを実施する。

ドイツ軍の対応は実用上限高度が7,000m程度の英仏軍爆撃機であったのなら一定の効果を出せたかも知れない。
しかし、夜間で索敵能力に大きさ制限が加えられている上に相手は高度14,00m以上を飛行する『成層圏の要塞』である。
大多数のドイツ軍部隊はそもそも日本軍戦略爆撃機部隊を発見することすらできなかった。
少数ながら存在した発見に成功した部隊も、圧倒的な高度差によって運用する戦闘機や高射砲では有効な対応を取ることができず、悠々と空から爆弾を降り注ぐ怪鳥の姿を指を咥えて見ていることしかできなかった。

これまで協商軍を相手に十分に機能してきたドイツの防空網は、大日本帝国が送り込んできた『成層圏の要塞』を前にしては障害物競争の障害にすらならなかったのだ。

ハンブルク空爆だけでも大事件であるが、僅か一時間以内に同様の光景がポツダム、ケーニヒスベルク、マクデブルク、ケルン、ドルトムントの5ヶ所でも発生。これらの空爆でも日本軍はわずか1機の損害もなく作戦を完遂した。

ドイツは日米の宣戦布告から12時間も経たずに6つの都市に壊滅的な被害を受けただけでなく、爆撃を終えた航空部隊に何の行動もできずにケプラヴィーク航空基地への帰還を許してしまったのだ。

一連の爆撃によってドイツ首脳部が受けた衝撃は筆舌に尽くしがたいものだった。

上記で述べた様にそれまでも西部戦線に近い都市は連合軍による爆撃を受けていた。
それに対抗する為にドイツ帝国は少なくない数の高射砲をそれぞれの都市に配置し、迎撃機も攻撃をうけしだい直ぐさま飛び立てる様にするなど執れうる限りの処置を全て取った防空体制を整えていた。
しかし、それらの対策が今回の爆撃機では何ら意味をなさなかった。
すなわち、日本軍がその気になれば何時でも他の主要都市も焼き払う事ができる。

また、この時のドイツ首脳部はケーニヒスベルクへの攻撃はロシア領から行われたと推測した。
この攻撃によってそれそれまで安全と考えられていた東部方面の都市や前線も今後は戦略爆撃の対象となりうることが明らかになったのだ。
西部のみならず東部でもこれまで以上の爆撃対策を施さなければならない。

これらの事実はドイツ上層部を震え上がらせるには十分であった。

当然、本土防衛の役割を担い本来ならドイツへの空からの攻撃からドイツ本土を護る責務を負っていたドイツ陸軍航空隊の面目は完全に潰された。
彼らは防空体制の刷新を急務として行うのと同時に、高高度を飛ぶ協商軍の新型爆撃機に対抗可能な機体の開発に精力的に取り組んでいく。

今回の事を重く見たドイツ陸軍参謀本部の説得もあって、ドイツ内務省も重い腰を上げた。
彼らは爆撃によって一気に工業力を失う事を防ぐために工業力の分散化・疎開を開始すると同時に、一時的に各戦線に派遣していた工兵すら呼び戻してドイツ全土の各主要都市への防空壕の作成も開始するなど爆撃による被害を減そうと行動を開始する。

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326 : ホワイトベアー sage 2023/07/17(月) 18:09:58
ドイツ国内で動きがの慌ただしくなる一方、日米では翌日の3月8日に斎藤総理大臣とタフト大統領がそれぞれ首相官邸とホワイトハウスにて今回の爆撃の成功を発表する為に記者会見を実施した。(無論、時差の関係で同時にとは行かなかったが)

記者会見内で両国はドイツ軍の混乱を誘発するために、ケーニヒスベルクを爆撃した航空隊の発信地は蓬莱島(Hourai Island)、西部方面を爆撃した航空隊の発信地を桃源郷と発表する。
これは完全なるブラフであったが、それを知らないドイツは中立国経由で流れてきたこの情報を基に海軍や陸海航空隊を動員してこの蓬莱島や桃源郷の捜索を開始、爆撃対策と合わせて貴重な時間や物資を無駄に浪費させられてしまう。

日本およびアメリカはこの爆撃で大々的な戦果を収めたが、流石に住民ごと都市を焼き払うという手段に眉を顰める国民(有権者)も多くいた。
今回のように報復としての都市部への爆撃であったらまだ何とか許容できるかもしれないが、ドイツの工業力を削り、戦争を遂行する能力を奪うためだけに都市部への無差別爆撃を実施するのは国外の目線的にも絵面が悪いし、何よりも国内の賛同を得にくい。

余裕があり余っているがゆえに国内の世論や対外的な印象も気にできる日米上層部は、人道に配慮して爆撃対象を輸送インフラに切り替えて爆撃を実施していく事を決定。ドイツ国内の鉄道網や橋梁を爆撃目標とするなど制限が加えられた。

しかし、宣戦布告と同日中にドイツ本土を攻撃すると言う衝撃的な参戦をした日米は改めて航空戦力の有効性を認識し、航空戦力そのものの増強は実施。
アイスランドへ追加の15式戦略爆撃機部隊を配置すると同時に、フランスやイギリスへの大規模な航空隊の派遣すら開始する。

航空部隊の欧州進出も急ピッチで開始されるのだが、この際各種物資は艦船で運び、部隊の要員や機体は空路で運ぶと言う画期的な方法で欧州まで運ばれる事になった。
これによって日米の兵員や航空機は幾日も船に乗って欧州まで運ばれるのではなく快適に素早く欧州への展開を可能とした。
また、この方法を取ったことによって日米軍の将兵たちは潜水艦のよる被害を一切受ける事もな無事にフランスまで移動できた。

欧州に進出した日米軍爆撃機部隊は直ちにドイツ帝国国内への爆撃を開始した。
欧州に進出した部隊は基本的に満州戦争で活躍した旧式機の改良型から編成されていた。
さらに上記のように日米軍による都市部への無差別爆撃は参戦直後以外は行われなかったことで空爆による直接的な死傷者は少なかったが、輸送インフラには激しい攻撃が加えられたことでドイツ国内の物流は寸断されてしまう。

物流の寸断と日米からの貿易の停止はただでさえ悪かったドイツの食糧供給に致命的なダメージを与え、ドイツ国内では史実のカブラの冬よりもさらに酷い飢餓が発生することになる。

欧州で航空戦力がドイツ国内に激しい空襲を実施しているので一方で、大西洋ではドイツ軍潜水艦部隊と協商軍艦隊による激しい戦い(ジュウリン)が繰り広げられていた。

日米海軍はドイツの潜水艦から各種装備を運ぶ輸送船の安全を確保する為に護送船団方式を採用し、欧州に向かう船団には護衛空母や護衛駆逐艦、巡防艦(フリゲート)、海防艦(コルベット)などから構成される護衛が着くようになった。
さらに日本海軍は護衛空母を中心に丁型護衛駆逐艦、佐渡型巡防艦、奄美型海防艦などの対潜水艦作戦を目的に建造された艦艇群を主力とした潜水艦狩り艦隊(ハンター・キラー)を数多く編成し、大西洋に派遣。ドイツ潜水艦隊への対策を急速に整えていった。

日本海軍の護衛駆逐艦や巡防艦、海防艦などの戦闘艦には全てにアクティブ・ソナーやパッシブ・ソナーが装備されている。
さらに護衛空母に搭載されていた12式対潜哨戒回転翼機(SH-12)などの艦載機とあわせて護衛艦隊やハンターキラー部隊は極めて大きな戦果を発揮、ドイツ潜水艦隊の損害は日増しに増えていった。

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327 : ホワイトベアー sage 2023/07/17(月) 18:10:32
護衛船団方式の確率とハンターキラー部隊の出現によってドイツ潜水艦は狩る立場から狩られる立場へと追いやられていく。

また、対潜水艦部隊の他にアメリカ大西洋艦隊とノーフォーク海軍基地を母港とする日本海軍第3艦隊がイギリスに進出、イギリス大艦隊と共同で北海の封鎖を開始した。
経済的面でもそれまで見逃していたオーストリア・ハンガリー帝国からドイツへの物資の流れも規制させるなど対ドイツを鮮明にさせていく。

海軍部隊や航空部隊が次々と欧州(大西洋)に派遣されていく一方、青島の攻略こそ行ったものの大規模な陸上戦力の欧州への派遣は差し控えられた。

当初は陸軍の大規模派兵も計画されていた。
しかし、日米が欧州への大規模な出兵準備を行っている最中に日米の隣国であるロシアにて市民達の暴動が発生してしまったのだ。
ロシア帝国で発生した暴動は欧州方面で軍の部隊までもが次々と反乱をおこすまで事態が悪化し、後にロシア第2革命と呼ばれることになる革命騒動まで発展してしまう。
日米はこの革命への対策を名目に欧州への大規模な派兵は避けるべきと考えた。
とは言っても、ある程度の派遣は関係上必要であることには変わりなく日本からは18個師団+数個旅団が、アメリカからは28個師団が欧州へ向けて出発した。

日米の欧州派遣軍は同年の8月頃から順次フランスに到着する。
一部部隊は前線に展開するものの、この時のドイツ軍は改めて消耗戦を行うためにソンム川より撤退し、新たに構築していた防衛線、通称ファルケンハイン・ラインまで部隊を下げるなど守勢に回っていた。
また、日米の参戦後に日米英仏の首脳達の協議で来年に発動することが決定した大規模攻勢に備え、欧州派遣軍の大半は部隊は再訓練と武器弾薬の貯蓄に入った。
1917年の西部戦線は小規模な戦いこそあったものの比較的平穏に過ぎていく事になる。

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328 : ホワイトベアー sage 2023/07/17(月) 18:11:02
以上になります。
wikiへの転載はOKです

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最終更新:2024年05月25日 11:13