496: yukikaze :2019/08/04(日) 13:10:39 HOST:252.228.242.49.ap.seikyou.ne.jp
それでは地味に改変作業に入った豊臣夢幻会の戦艦第一弾を。
なお、ネタスレにある『ワシントン体制下の英米戦艦群ラインナップ』『山城型戦艦』『翔鶴型航空母艦』『妙高型重巡洋艦』『高雄型重巡洋艦』『キングジョージ五世級』は、改変確定となりますので、新規投下がされて以降、旧来版は公開停止にしていただく予定です。(編集者の方本当に申し訳ありません。)

リバタビア級戦艦

排水量 23,000トン(常備排水量)
全長 170.5m
全幅 27.9m
機関 宮原式石炭・重油混焼水管缶18基+艦本式直結タービン3基3軸推進
最大出力 36,000 shp
最大速力 23ノット
航続距離 10ノット/6,000海里
燃料  石炭:2,300トン 重油400トン
乗員  士官、兵員:950名
武装  34cm(45口径)連装砲4基
     15.2cm(50口径)単装速射砲16基
     7.6cm(50口径)単装速射砲8基
装甲  舷側:229~305mm(水線部)
     甲板:76mm(主甲板)
     主砲塔:305mm(前盾)、203mm(側盾)、76mm(天蓋)
     主砲バーベット:254mm(甲板上部)、102mm(甲板下部)
     副砲ケースメイト:203~254mm
     司令塔:292mm(側盾)、51mm(天蓋)

同型艦『リバタビア』『モレノ』(トルコに売却され『カーヌーニー・スルタン・スレイマン』)

(解説)
1907年12月のアルゼンチン海軍拡張計画において、日本に発注された戦艦である。
扶桑型の主砲である30.5cmを上回る34cm砲を搭載したことから、海外では『超J級戦艦』
なお、当該艦の建造により、ブラジル海軍は、発注していたリオデジャネイロをキャンセルし、更なる巨砲艦建造を求めるようになる。

アルゼンチン海軍は、1906年度に巨砲を混載する準弩級戦艦の建造を計画したが、隣国ブラジルが1906年にイギリスに弩級戦艦「ミーナ・ジェライス級」を発注した情報を知ると、計画方針を弩級戦艦建造に変更した。
その際、アルゼンチンが発注先として選んだのが、J級戦艦を生み出した日本であった。
一部にはアメリカに頼んではどうかという意見もあったのだが、アメリカの中南米政策に対しアルゼンチン国内で反米感情があったことと、「世界で最初にJ級戦艦を作った」という実績は大きく、最終的には満場一致で、発注先を日本とすることになる。

さて、アルゼンチン側が日本側に向けて付けた条件は以下のとおりであった。

1 ミーナ・ジェライス級を凌駕する攻防性能を持つこと
2 独力で敵巡洋艦を確実に排除するため、副砲を片舷8門備えること
3 独力で敵水雷艇を確実に排除できるようにすること
4 3軸推進とし、10ノットで5,000海里以上あること

1はまあ当然であった。ミーナ・ジェライス級戦艦より弱い戦艦など意味がないからだ。
2と3については、アルゼンチン海軍の寒い懐事情の問題であった。
列強海軍のように、艦隊に付随できる充分な数の巡洋艦を保有できないため、独力で敵巡洋艦や敵水雷艇を確実に排除できる砲が必要であったのである。
4については、2基4軸推進よりも、3基3軸推進の方が、巡航時には中央軸のみで走れる為に燃費が良く、低速時には舵の効きがよい利点が重視されたからであった。

この条件に対し、日本側は「技術的に可能」であるとして快諾。
アルゼンチン側に対して「予算がきちんと支払われれば、1908年までには起工し、1911年までにはお渡しする」と、アルゼンチンに逆提案し、ミーナ・ジェライス級に危機感を強めていたアルゼンチン海軍は、予想よりも早い竣工時期に喜ぶ一幕もあった。

497: yukikaze :2019/08/04(日) 13:11:22 HOST:252.228.242.49.ap.seikyou.ne.jp
以下性能について解説する。

主砲については、新開発の1907年型 34cm(45口径)砲を採用している。
同砲は、当初、次期戦艦主砲として計画していた30.5cm(50口径)砲が、無暗に高初速化を図った設計により砲身寿命が短くなった上、主砲のブレが大きくなり命中率が低下するなどの欠点が見られたため、大口径化による砲弾重量のアップにより威力の増大をはかって開発されたものである。日本海軍にすら、実際にはまだ搭載されていない艦砲を搭載したことで、口さがない者には「アルゼンチン艦は実験艦」と貶すものもいたが、重量555kgの砲弾を最大仰角12度で14,500mまで届かせることが出来、毎分2発撃てるこの砲は、当時世界最強の艦砲であり、アルゼンチン海軍は「これでブラジル海軍に勝てる」と、狂喜することになる。

副砲についても、新型の50口径15.2cm砲を採用している。
同砲は、後に砲塔化され、日本海軍の軽巡洋艦の主装備となったのだが、45kgの砲弾を最大18,000mまで撃てたことから、防護巡洋艦相手には十分な打撃力を有することになる。
一方、水雷艇用の砲として、50口径7.6cm砲を搭載したものの、搭載箇所は最上甲板程度でしかなく、アルゼンチン側からも「唯一の欠点」と言われることになる。(ただし実用上問題はなかった)

防御構造については、扶桑型の拡大改良型である。
舷側装甲が、技術革新から305mmにまで増厚されたくらいであるが、当時としては最も堅い防御構造であり、水平防御が薄い事を除けば(それでも他国と同等か上である)問題はない。
なお、扶桑型と違い、3基3軸にしたことで、その部分の改正には苦労することになる。

機関についても、扶桑型の改良と言ってもいいが、アルゼンチン側の要望を受け、機関出力をデチューンすることで、機関の耐用年数を長めにとっている。
これは、アルゼンチン海軍の予算が、決して潤沢という訳ではなく、維持費用に直結する機関の管理費用を少しでも安くあげたいという願望によるものであった。
それでも、同艦は23ノットに近い速力を出すことができ、これは大抵の同型戦艦よりも速度は上であった。

なお、艦型は扶桑型と同じく長船首楼型を採用していたことから、艦内容積も十分に取れると共に、凌波性能も優れていた。

同艦は、日本海軍への約束通り、1908年に1番艦の予算が振り込まれ、2番艦についても、満額ではなかったが半分は振り込まれ、1909年までには必ず振り込むという約束から、横須賀と呉の海軍工廠において起工され、1909年には揃って進水まですることになる。
しかしながら、南米でのアルゼンチンの軍事力強化及び日本の影響力増大に警戒心を強めていた英米の思惑から2番艦への代金支払いは遅々として進まず、日英米の板挟みにあったアルゼンチン政府は、2番艦については他国への売却を表明。日本の最新鋭技術が含まれていたことから、売却には日本が認めた国に限るという制約のもと、最終的にはオスマン・トルコに売却されることになる。
1912年の第一次バルカン戦争で大敗を喫していたオスマン・トルコ海軍にとっては、同艦の存在は干天の慈雨であり、古参の海軍将校は『この艦さえあれば、ギリシャごときにデカい顔をさせられなかったものを」と、悔しがったとされる。

最後に、この2隻のその後の運命について記述する。
『リバタビア』については、演習以外でその主砲を響かせることなく、アルゼンチン海軍最強の艦として、1960年代の退役時まで、同国海軍の象徴として君臨することになる。

一方『スレイマン』については、姉とは違い、激闘の連続であった。
日本海軍の好意により、1年間の猛訓練を施され、充分な練度を身に着けた『スレイマン』が、祖国に戻った時、欧州は第一次大戦勃発後であった。
この時、イギリス海軍は、自国の戦力向上の為に、トルコ海軍が発注し、代金も支払っていた『レシャディエ』を一方的に接収してしまい、トルコ国民の憤激を買っている状況であった。
後世の歴史書において『戦艦一隻の為に、敵国を一国増やした』と、当時の海相であったチャーチルの判断の拙さを批判されることになるのだが、そうした状況の中での『スレイマン』の帰国は、日本が誠実に契約を履行したこともあいまって、トルコ政府の反英感情を後押しさせることになる。

498: yukikaze :2019/08/04(日) 13:12:09 HOST:252.228.242.49.ap.seikyou.ne.jp
トルコがドイツについて連合国に宣戦布告をした時、トルコ海軍が所有するJ級戦艦は『スレイマン』と『ヤウズ・スルタン・セリム(元ドイツ海軍巡洋戦艦『ゲーペン』)』の2隻であった。
ドイツ海軍提督のスション少将は、2隻を合同で運用しようとしたが、『スレイマン』に座乗していたアフメト・ジェマル・パシャ中将は「スレイマンとセリムの速度には差があり、共同した運用は、却ってセリムの快足を殺すことになる」として拒絶。結果的に、両艦は別々に運用され、『セリム』は地中海側に『スレイマン』は黒海側の担当となった。(なお、日本側が格安で売却していた防護巡洋艦『新高型』の2隻『ブルサ(旧名:宇治)』『エディルネ(旧名:淀)』も、黒海側に配備されることになる。)

黒海側に配備された『スレイマン』は、その由来となった提督も満足するであろう暴れぶりを発揮する。
1914年11月5日に行われたサールィチ岬沖の海戦では、変針が遅れたロシア巡洋艦「パーミャチ・メルクーリヤ」を、露払いと言わんばかりに轟沈させ、前J級戦艦5隻との撃ち合いでは、霧とロシア艦隊の射撃管制官の距離の見誤りによって、『スレイマン』と『エフスターフィイ』のみの撃ち合いになり、最終的に、練度が変わらないことから個艦性能の優越により、『エフスターフィイ』を撃沈。
指揮官を失い混乱したロシア海軍の戦艦部隊に痛撃を与えて、最終的には『パンテレイモン』を自沈させている。

この大勝利は、トルコ国内を大いに沸かせ、1915年4月のボスポラスの海戦においては、サールィチ沖の生き残りであった3隻の戦艦のうち、2隻を中大破させ(うち、1隻は自沈)、ロシア黒海艦隊主力を壊滅状態に追い込んだことで、アフメト・ジェマル・パシャ中将は、ガリポリのケマル准将と並んで救国の英雄として、トルコ国内で絶大な支持を得るのだが、僚友であるエンヴェル・パシャとの対立から、これ以降、『スレイマン』で指揮をとることはかなわなくなるのだが、その積極果敢な指揮ぶりと戦術能力の高さから『アフメトの剣』と呼ばれていた『スレイマン』艦長アリー・イッゼト・パシャは、アフメトから指揮権を受け継ぐと、解き放たれた猟犬の如く黒海を所狭しと暴れ狂い、ロシアの通商路をズタズタに引き裂いている。

この『スレイマン』戦隊の通商破壊は、1916年初頭に、ロシア黒海艦隊の希望とも言うべき、インペラトリッツァ・マリーヤ級戦艦2隻が配備されたことで終わりを迎え、以後、両艦隊の睨みあいとなっていたのだが、『インペラト
リッツァ・マリーヤ』が、1916年10月に謎の爆発事故を起こし(共産党員による破壊工作という説が有力)、1917年2月にロシア革命が起きたことによる黒海艦隊の混乱を受けて、アリーは攻勢を発動。
1917年10月には、ケフケン島沖にまで出撃した『スヴォボードナヤ・ロシア』を補足し、『スヴォボードナヤ・ロシア』の内部混乱(ボリシェヴィキの扇動により、スヴォボードナヤ・ロシアの一部の水兵が士官らを押し込めて艦をセヴァストーポリに引き帰らせようとしていた)もあって、同艦を撃沈し、黒海の制海権を完全なものにしていた。

第一次大戦後、休戦条約に伴い『セリム』ともども連合国側の監視下に置かれたが、希土戦争勃発により、アンカラ政府を支持していたアリーは、連合国の監視を振り切って出撃。
完全に油断しきっていたギリシャ海軍の『キルキス』を撃沈している。
この時アリーは、軍事物資が満載していた輸送船も拿捕しており、ケマルからは「我らがカーヌーニーは、最高のプレゼントを持ってきてくれた」と、称賛の言葉を得ている。
この『スレイマン』戦隊による通商破壊により、劣勢だったギリシャ軍の士気は崩壊。
イズミルからの総撤退に対し、『スレイマン』戦隊は追撃を行い『レムノス』を沈めることに成功している。

499: yukikaze :2019/08/04(日) 13:12:40 HOST:252.228.242.49.ap.seikyou.ne.jp
なおこの時アリーは、輸送船団を補足したものの、この輸送船団には多くの難民が乗船していた。
輸送船団の一隻である大連東和汽船の「東慶丸」からその情報を受けたアリーは、砲撃を望む部下たちに対し

『素手の民間人を虐殺しても何の自慢にもならん。更に言えば、我らに事実を告げたあの船は、この船を作り、我らを教えてくれたサムライの国の船だ。彼らには恩がある。』

そう言って『航海の無事を祈る』と、返電した後、海域から去っている。
仮にここで難民を多数犠牲にした場合、トルコに同情的であった国際世論の流れが変わる可能性もあり(イギリスはそれを望んでいた)、アリーのこの個人的感情から出た決断は、結果的にトルコを救うことになる。

トルコ共和国が建国された後、国庫の問題から『スレイマン』と『セリム』のどちらかを廃艦にしないといけなくなった時、満場一致で『スレイマン』が残ったのはある意味当然のことであった。
J級戦艦1隻、前J級戦艦5隻を沈めた武勲艦を廃艦にするなどと決定した場合、成立したばかりのアンカラ政府の支持が木端微塵に吹き飛ぶのは火を見るより明らかであった。
まさしく『スレイマン』は、トルコの海の守護神であった。

同艦は、1920年代後半に、大規模整備と近代化改装として日本に派遣。
日本側は、赫々たる武勲を上げた『スレイマン』来訪を『凱旋帰国』として歓迎し、改装を請け負った三菱造船所は、『先達たちの仕事に負けぬよう、完璧な仕事をさせていただく』と、機関換装や艦橋を塔型艦橋に改装するなど
している。
これにより、『スレイマン』は、射撃指揮装置の更新や対空攻撃能力の強化、そして直結タービンではなくギアードタービンへの改装等による機関出力の向上から、25ノットに近い速力を得ることになる。

改装後、『スレイマン』は、同国海軍の象徴として、黒海ににらみを利かせており、それは1954年に退役し予備艦になるまで変わらなかった。
同艦最後の航海は、1959年の日本国皇太子の結婚式への使者派遣であり、この時、使者として選ばれたアリー退役海軍大将は、強硬に『スレイマン』での派遣を主張。
困惑するトルコ政府に対し「『スレイマン』は、日本が心血を注いで作った艦であり、同艦によってトルコの海は守られた。同艦の機関が動くまでに、何としてもお祝いをさせてやりたい。これは『スレイマン』に対する、トルコ国民の義務だ」と述べ、それがトルコ国民に知れ渡ったことで、世論もアリーの言葉を支持し、晴れて『スレイマン』は、日本に派遣されることになる。

同艦のシルエットは、改装された山城型に似ていたことから、古参の海軍将兵は『山城型が元気に動いている』と、満足そうに眺め、多くの国民も『異国で活躍した我が国の船が祝いに来てくれた』と、祝賀ムードに花を添えたトルコの行動に大喜びであった。
それを示すように、極めて異例であったが、昭和天皇みずからが『スレイマン』に対し、答礼の訪問を行い、『スレイマン』乗組員は、大いに面目を施すことになる。

同艦は、記念艦として残す運動もあったものの、維持費の問題から、解体が決定。
海軍兵学校に、主砲と錨、そして第一次大戦当時に掲げられていた戦闘旗が大切に保管されている。

500: yukikaze :2019/08/04(日) 13:33:21 HOST:252.228.242.49.ap.seikyou.ne.jp
第一弾投下終了。
扶桑型と山城型の間を埋める為に『輸出戦艦』を登場させてみました。

当初は50口径30.5センチ砲連装5基(シルエットは史実天城型)にしようと思ったのですが、大体10年位は技術力進んでいること考えると、まあ34センチ砲までは確実に作れるよなということで、34センチ砲採用。
で・・・ここで34センチ砲作ることで、山城型にはこれ以上の大口径砲乗せられるフラグを作ると。(アメリカ艦のニューメキシコ以前の艦の価値低下させます。)

輸出戦艦については『アルゼンチン2隻、トルコ1隻』にしようとしましたが、それやると山城型の建造に影響出るのと、何よりアルゼンチンに34センチ砲2隻も売ると英米がうるさいので
『アルゼンチン1隻、トルコ1隻』に変更。
まあトルコは、仮に『レシャディエ』がそのまま配備された場合、主砲弾の問題が発生しますが、その場合は、日本に対して改修を求めた事でしょう。(実際、日本との間で交渉がされとりました)

トルコ海軍無双については、これもう日本海軍のサービスによる訓練の成果。
史実で全くと言っていいほど振るわなかった(セリムが前弩級戦艦5隻と殴りあって負けています)のは、ロシア海軍の練度の高さに対して、トルコ海軍(ドイツ地中海艦隊)の練度が低かった点が大きく、練度を同レベルにまで高めれば、後はもう個艦能力の優勢で押し切れます。

改装による速度向上ですが、まあ時代による缶の効率性とギアードタービンへの換装によって、普通に馬力が5万以上になっていますし。
なおこの缶と機関、日本海軍がロシア共和国への艦船用として発注し、キャンセル食らって宙ぶらりんになっていた缶と機関であったことから、割と格安価格での提供となっていました。

最後の航海については完璧に蛇足。
普通ならエリザベス2世の戴冠記念式典なのでしょうが、何しろエリザベスの旦那がギリシャ王家の出ですんで、トルコにしてみれば「うちへの面当てか」という気分でしょうから、『スレイマン』出す気もおきんでしょうし。

なおこの艦のスペック見て、イギリスはオライオン級以降の建造推進にかかり、アメリカもニューヨーク級の設計に取り掛かります。

512: yukikaze :2019/08/04(日) 22:33:41 HOST:253.228.242.49.ap.seikyou.ne.jp
あと一部『スレイマン』とするところを、当初予定していた艦名である
『バルバロッサ』のままにしている所あったなあ。
(>>497最後の段落二行目)

すいませんが『スレイマン』に修正していてください。

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最終更新:2019年08月08日 11:08