527: yukikaze :2019/08/10(土) 00:29:21 HOST:117.82.0.110.ap.seikyou.ne.jp
ようやっとできたぞ長門型。
しかし攻龍の旦那の長門のハードル高すぎて、えらい苦労した・・・
長門型戦艦
排水量 39,800トン(基準排水量。常備排水量では41,500t)
全長 218.0m
水線長 208.0m
最大幅 32.4m
吃水 8.92m
主缶 ロ号艦本式重油専焼缶 12基
主機 技本式オール・ギヤード・タービン 4基4軸
出力 92,000hp
最大速力 25.5ノット
航続距離 16ノット/5,500海里
乗員 1,800名
燃料 重油:5,500t
兵装 45口径42cm連装砲×2、3連装砲×2
50口径15.2cm連装砲×6(片舷3基づつ)
40口径7.6cm単装高角砲4基(片舷2基づつ)
装甲 舷側 305mm(ヴァイタルパート部。15度傾斜)
甲板 120mm
主砲防盾 305mm(前盾)152mm(側盾)152mm(天蓋)
同型艦 『長門』『陸奥』『薩摩』『加賀』『北海』『播磨』
(解説)
『新六六艦隊計画』において日本海軍が建造した扶桑型代艦である。
当時の日本において持てる技術を全て注ぎ込んだ戦艦であり、同艦の就役により、英米両国は海軍軍縮条約締結に舵を切ることになる。
1915年以降続々と就役した山城型戦艦は、各国海軍にとって脅威の的であった。
当時世界最大の艦砲である45口径38センチ砲を9門備え、防御力は、当時の主力戦艦と互角以上更には速度は、当時の巡洋戦艦並みという化物を目にすれば、脅威を覚えない方がどうかしているのだが、だからこそ、英米海軍の行動は極めて迅速であった。
まずイギリスであるが、こちらはまだ15インチ砲と高馬力機関の製造にめどがついていた分、マシであった。
1912年に4隻建造する予定であったアイアン・デューク級は、2隻のみの建造で打ち切られ、15インチ砲搭載のクイーン・エリザベス級戦艦6隻に切り替えられることになる。
もっとも、同級では、山城型よりも速度が2ノット遅かったため、対山城型としては見劣りがしており、山城型及びドイツで計画されていた新型巡洋戦艦(マッケンゼン級のことである)を確実に凌駕する巡洋戦艦として、アドミラル級巡洋戦艦6隻の建造も併せて推進されている。
これにより、クイーン・エリザベス級戦艦の次に計画されていたR級戦艦は完全に消滅することになるのだが、イギリスにしてみれば瑣事と言って良かった。
この時期、イギリスにある巡洋戦艦は、ライオン級4隻を除けば、12インチ砲搭載の6隻しかなく、山城型はもとより、ドイツの巡洋戦艦相手でも苦戦する代物であった。
「当たらなければどうということはない」と嘯くフィッシャーならともかく、当時のイギリス軍人にしてみれば「当たったらどうするんだ」という不信感は強く、イギリス海軍は史実よりも1年以上早く、アドミラル級6隻の建造に着手している。
彼らにとっての悪夢は、日独が手を組んで暴れまわることであったことを考えればやむを得ない事ではあったのだが、その結果、垂直防御は日本に倣ったものの、10インチ程度で良しとされ、水平防御も3インチでしかなかった。(排水量は、史実と原案の中間である3万8千トンであった。)
彼らはその見通しの甘さを、ジュトランドで盛大に支払うことになるのだが、神ならざる彼らには知る由もなかった。
528: yukikaze :2019/08/10(土) 00:29:56 HOST:117.82.0.110.ap.seikyou.ne.jp
もっとも、山城型に対抗できるだけの材料が曲がりなりにもある分、イギリスはまだマシであった。
絶望的な表情で太平洋の向こう側を眺めていたのはアメリカ海軍であった。
砲自体は50口径14インチ砲3連装砲の開発に目途が立ちつつあったのでマシであった。
問題は機関であった。
この時期のアメリカ海軍は、機関馬力の高出力化に手間取っており、しかも重量が若干重いものの燃費がよく、後進や回避運動が素早く行えることや費用が安いことが優れているとしていたターボ電気推進システムを次期機関として推進していたことで、高馬力化に制約がかかっていた。(推進モーターでの変換ロス等もあって、通常形式よりも馬力が落ちることになる。)
しかも、この時期のアメリカ海軍の上層部は、他国と同様『巡洋戦艦』を『装甲巡洋艦』の延長線上にしか考えていなかった。
彼らにとって巡洋戦艦とは、装甲巡洋艦の火力強化型であり、高速戦艦ではなかったのである。
結果的に、彼らの巡洋戦艦計画は迷走に迷走を重ねることになり、1915年計画と1916年計画で、舷側装甲をやや減らす代わりに、機関馬力を45,000馬力とし、速度を23ノットにまで上げたニューメキシコ級6隻(外観としては史実テネシー)の建造推進位しか決まらなかったのだが、この初動の遅れは最後まで祟ることになる。
さて、この英米の狂乱(独はカイザーが何やらわめいており、仏伊露は他人事として放り投げていた)を尻目に、日本海軍は次のステージへと足を踏み入れていた。
日本にしてみれば、日露戦争の一件で欧州勢力への不信感が強く、また大陸勢力についても、少しでも甘い顔見せたら何しでかすかわからんという程度には信用していないことから、自らの盾と矛を鍛えるのを怠る訳がなかった。
特に今は、欧州諸国が見事なまでの自爆行動起こしている状況なのだから、ここで余計に差をつけるのは当然であった。
そうでもしなければ、戦争が終結した後に、欧州の連中がどんな難癖を付けに来るかわかったものではないからだ。
普通ならば、開拓に勤しんでいる瑞穂半島(旧朝鮮半島)や台湾への投資に資金を出すべきところを1916年度と17年度に6隻もの戦艦建造に、国民がゴーサインを出したのも、日本国民の欧州や大陸への不信感がいかに根強いものであるかが見て取れる。
以下、長門型戦艦の性能について解説する。
主砲については、当時の日本において生産できる最大の艦砲である45口径42センチ砲を搭載している。そしてそれを連装砲と3連装砲の混在にして、10門備えることにしている。
この混在方式は、他国で行くと
アメリカのネバダ級戦艦や、オーストリアの未成戦艦モナーク代艦位であるが、砲塔配置については、安定性を重視し、ネバダと同様の配置となっている。
攻撃力の向上と防御力を高いレベルで両立するための苦肉の策であったのだが、「斉射(交互一斉打ち方)」の面倒さは山城型を上回ることになり、艦隊側から「一刻も早く斉発を満足いくレベルで出来るようにしてほしい」と、苦情が出される状態であった。
これについては、1930年代の大改装まで待たなければならなかったのだが、大改装後は問題なく運用でき(艦隊側が慣れきったとも言う)、斉発では30秒前後の砲撃が可能となっている。
また、主砲の揚弾薬機構も変化し、山城型までは砲弾と装薬を一気に上げでいたが、長門型からは、砲弾と装薬を別々に砲塔まで上げる方式にし(これは独米と比べるとやや遅れていた)、砲塔被弾からの誘爆爆沈という危険性を可能な限り下げるようにしている。
副砲については、50口径15.2cm砲を連装砲塔にして、片舷3基づつ装備している。
当初は中心線上に2基設置し、片舷8門撃てるようにする計画もあったのだが、ヴァイタルパートがその分長くなることと、主砲弾薬庫と副砲弾薬庫が近い為、副砲弾薬庫に引火すれば、主砲弾薬庫にまで誘爆しかねない危険性から断念している。
砲塔タイプにしたことにより、防御のしやすさ及び命中率や給弾能力などの向上など、艦隊からは上々の反応を示されたのだが、逆にこの砲塔配置が災いして、対空火器の設置に苦労する羽目になり、一時期は副砲を両用砲化する計画もあったのだが、改修の手間暇の割には効果がないとして、大改装時に取り払われることになる。
529: yukikaze :2019/08/10(土) 00:30:26 HOST:117.82.0.110.ap.seikyou.ne.jp
防御については、山城型からさらに進化した形になっている。
傾斜装甲については変わりはないが、装甲の厚さは305mmと山城型を上回っている。
また、山城型まであった逆傾斜装甲も廃止し、イメージとしては、史実モンタナに近い防御構造になっている。これは、山城型の『基本的には外側で砲弾を止めるが、内部に来ても被害を局限する』から、『外側で砲弾を確実に食い止める』方針に変わったからでもあるが、水平防御も120mm(NVNC鋼105mm+バックプレート15mm)と、増厚している。
本級が特に注意をしたのが水中防御で、山城型より艦幅が増えたことを利用して、3層の液層防御と、その後ろに細分化した水密区画を有しており、水密区画については山城型よりも多くしている。
また、史実サウスダコダ級に倣ったシフト配置を採用しており(山城型は時期尚早として断念された)魚雷への効堪性は山城型以上となっている。
機関については山城型と同じになっている。
これは、これ以上の大馬力機関となると、信頼性を求めるのならばツインエンジンしかなく、機関重量がかなり重たくなるのと、量産効果によるコスト圧縮もあって、同機関を選択することになる。
本来ならば26.5ノットでる計算であるのだが、ヴァイタルパート圧縮のために艦の全長を短くし、安定性維持の為に艦幅を増やした事から、速度が落ちることになる。
もっとも、当時の主力戦艦で25.5ノットは十分に快速であり、全く問題視はされていない。
長門型について語る際に外せないのが艦名選定問題である。
実は当初長門型は『越後』乃至は『摂津』と名付ける予定ではあった。
勿論、それは武家華族筆頭であり、大正天皇の良き補佐役である豊臣慶秀のこれまでの忠勤に対する天皇からの褒美(慶秀はこの時期度々体調を崩していた)であったのだが、内々に打診を受けた慶秀は
「いまさら幕末云々をいうても始まりませぬが、もし許されるならば、1番艦は『長門』としてはいただけませぬでしょうか。一方ならぬ苦労をし続けた山縣や児玉、乃木、異郷の地で最期を遂げた伊藤に報いていただければ幸いです」
と、返答し、「他ならぬ豊臣公の頼みならば」と、1番艦は『長門』に決まることになった。
2番艦『陸奥』、3番艦『薩摩』、4番艦『加賀』は、幕末で活躍した、伊達、会津松平、島津、前田の有力諸侯の領国であり、これもまたすんなり決まってはいた。
問題は5番艦と6番艦であった。
当初、5番艦は紀州徳川家から『紀伊』。6番艦は筑前黒田家から『筑前』とする予定であった。
だがこの提案に対し、紀州徳川及び筑前黒田家から「それだけは勘弁してくれ」という嘆願がでることになる。
まず、紀州徳川家だが、「宗家を差し置いてうちが先に名乗れる訳ねえだろ」という理由があった。
この時期、徳川家茂は「内戦を防ぐために若い命を散らした悲劇の大将軍」というイメージで固まっており映画や芝居でも盛んに主人公として持ち上げられていた。
そして家茂の実家である紀州徳川家でも、紀州家当主から和歌山県民に至るまで、この若者を尊崇すること一方ならず、故に徳川宗家を粗略に扱うなど暴挙以外の何物でもなかった。
彼らは「大変光栄だが、宗家より先に艦名を得る栄誉は得られない。『陸奥』は伊達家であり、『尾張』は熱田のお宮と言えるが、『紀伊』は申し開きができない。栄誉を返上するので宗家の領国にしていただきたい」と、兵部省に頼み込むことになる。
そして同じような事情は黒田家にもあった。
当主である黒田長成は、豊臣秀吉及び秀頼を尊崇することで有名な男であり、主家が遠慮したのに自家が栄誉を得る等、不忠の極みでしかなかった。
第一、紀州徳川家が大々的に頼み込んだのに、自分達がすんなり受け入れれば、それこそ黒田家の面子に関わることになるのだ。
この両家の行動に、豊臣家も徳川宗家も「気にしないで良いから」と、返答したのだが、却って逆効果であった。両家はますます「それだけはご勘弁を」といって、一歩も引かない構えであった。
530: yukikaze :2019/08/10(土) 00:30:59 HOST:117.82.0.110.ap.seikyou.ne.jp
こうした事態に、海軍も改めて艦名を決めようとするのだが、これが難題であった。
まず、幕末の有力諸侯となると、越前徳川家と肥前鍋島家であるが、越前は「紀州が断ってんのにうちが受け入れる訳ないだろうが」と言い切り、鍋島も「うちの息子の嫁が黒田家って理解しています? あと大隈が凄い顔で『殿様、それ受けたら世間に却って笑われます』と、諫言していますんで」と、速攻で断ることになる。
それではと、幕末での評価が低い『土佐』と『常陸』にすることで、そうした悪評を払しょくしようかという動きもあったが、それも高知と茨城の知事と県議会議長が「絶対に止めてくれ」と、兵部省に突入するまでであった。
幕末から半世紀以上過ぎたとはいえ、未だ江戸時代の生き残りがいた時代である。
高知にしろ茨城にしろ、武士階級による内紛が原因で、町民や農民が塗炭の苦しみを得たせいで、武士に対する不信感が充満しており、土佐山内家にしろ水戸徳川家(幕末に実質的に改易になったが)にしろ、未だにお国入りすることすら不可能レベルであった。(そのため、北海府で再興が許された長宗我部家や、秋田の佐竹家が『おらが国の殿様』扱いされていた。)
そんな中で、幕末を理由に『土佐』や『常陸』が許されれば、事実上の領国追放処分扱いされている武士階級が、赦免されたとして、何をしでかすかという猜疑心が、県民の間で湧いているのである。
両県知事にしてみれば「寝た子をおこさんでくれ。ようやっと落ち着いてきたんだ。武士も町民も農民もいっしょくたに死んだのと、大村と慶喜に恨みが集中した山口とは状況が違うんだ。あと50年かかる」と、懇願したのも当然であった。
結局、海軍は、「もうあんたらで責任取ってくれ」と、豊臣家、徳川宗家、紀州徳川家、黒田家に対応を丸投げすることになる。海軍も、正直、艦名で頭悩ませることにほとほと疲れていたのだ。
(この時期の兵部省海軍庁には、衆議院議員やら何やらから自薦他薦での嘆願がひっきりなしに来ていた。)結局、徳川枠については「北の大地で長らく開墾をし続け、食料供給地として尽力した」として、天領だった『北海』とし、黒田については「豊臣にも黒田にもゆかりのある地」として『播磨』が選ばれる事になる。
長門型は1920年までに6隻全てが就役し、英米海軍にとっては文字通りとどめの一撃となった。
アメリカ側が、軍縮条約の締結を呼びかけるのはその1年後であった。
531: yukikaze :2019/08/10(土) 00:54:51 HOST:117.82.0.110.ap.seikyou.ne.jp
投下完了。元ネタは平賀中将の「陸奥変体(3連装砲利用ver)」+「金剛代艦」案から。
まあ流石にあの「陸奥変体」は、あの排水量で出来るか微妙でしたし、「金剛代艦」案は極端すぎる集中防御(全体の半分切っていた筈)だったんで、排水量増やす代わりにマイルドにしてみたところです。
最大の特徴は、42センチ砲を10門備えた事。
42センチ砲ってなんやねんと思うかもしれませんが、この時期だとインチではなくセンチで管理していますしこの世界の日本海軍は、30.5㎝まではインチでしたが、その後は34㎝→38㎝と4センチ単位で
口径拡大していますんで(で・・・次はお待ちかね46センチ)、42センチになるんじゃないかなと。
お蔭でワシントンでの軍縮条約で、16.5インチ(42センチ)が砲の大きさの上限になる訳ですが。
副砲配置は悩みに悩みましたが、まあこれが限界かなと。
大改装後には、高高度用高角砲として両用砲化すること考えたのですが、どう考えてもコストの割に効果が薄いので、取り払う羽目に。
36基もの砲塔の余りは、大改装が終了した1942年度以降、何かにか使えそうではありますが。
防御構造配置については、史実モンタナ準拠。
まあシフト配置だけはサウスダコダですが、対水雷防御だとサウスダコダ方式よりもノースカの方が上だったのでそっちを採用することに。
ただ、シフト配置採用したことで、集中式にした山城型と比べて、缶のスペースが手狭で、改装の時に山城型の方が高温高圧缶積める余裕があったりしています。
山城型が30ノット弱出るようになったのに対し、長門型は頑張っても28ノット前半でした。(それでも充分でしたが)
艦名エピはまあお遊び。
この世界では、長州は史実よりも勢力ありませんので(しかも幕末時は迷惑かけまくっていた存在)『長門』が来るには何かしらかの理由が必要な訳で。
『土佐』と『常陸』は、艦名の響き的に好みなのですが、豊臣
夢幻会での両地域のやらかしが酷すぎたのでまあ無理だよなあと。
まあこのエピのお蔭で候補にしていた『信濃』『武蔵』まで消えたのはやりすぎたかなと。
ただ『北海』という艦名は、ある意味あの地域を付けた戦艦名は絶無(「樺太」は商業仮想戦記で見たことあるが)なので、気に入っています。(あと佐藤御大ネタで『播磨』いれれたのも)
この後は、ワシントン海軍軍縮条約ですかねえ。
555: 名無しさん :2019/08/11(日) 13:47:37 HOST:p784b557f.ehimnt01.ap.so-net.ne.jp
45口径42cmの3連装砲×2が2つあるのですが片方は連装の間違いでしょうか。
556: yukikaze :2019/08/11(日) 21:45:17 HOST:13.228.242.49.ap.seikyou.ne.jp
連装2基、3連装2基の間違いですね。ありがとうございました。
585: yukikaze :2019/08/12(月) 01:16:27 HOST:13.228.242.49.ap.seikyou.ne.jp
長門型は本気でハードル高かったですよ・・・
航続距離に関しては、山城型もですが、燃料多めに見積もったかなと。
正直、山城型は4,000t、長門型も同様レベルで足りるような気が。
長門型の速力については、島風クラスのボイラー使えるんで、なんとか13万馬力にまでは持っていきたいなあと。
ただまあ馬力向上しても、艦尾延長が10m程度でしょうから、28ノット出すのにどういう裏技使うべきなのか・・・
金剛型についてはその高速性能と砲撃力は巡洋戦艦として優秀でも、戦艦として撃ち合うにはどうしても砲火力が足りない所がありますので、強化verの山城型に吸われる事に。まあ豊臣
夢幻会の扶桑型のシルエットは史実金剛型のそれですんで勘弁してください。
586: yukikaze :2019/08/12(月) 01:29:25 HOST:13.228.242.49.ap.seikyou.ne.jp
上記の理由により常備排水量変更
山城型→常備排水量32,000t。重油搭載量4,000t
長門型→常備排水量41,500t。重油搭載量4,500t
これでも幾分過大なような気もしますが、燃焼効率とかも考えればマージンとっておきます。
214: yukikaze :2019/09/08(日) 17:07:28 HOST:57.228.242.49.ap.seikyou.ne.jp
長門型の説明にちょっと修正。
修正前
一時期は副砲を両用砲化する計画もあったのだが、改修の手間暇の割には効果がないとして、戦時改装時に取り払われることになる。
修正後
一時期は副砲を両用砲化する計画もあったのだが、改修の手間暇の割には効果がないとして、大改装時に取り払われることになる。
大改装時機とか考えると、戦時改修で余計なことやっている余裕はないよなあと。
(戦時改装だと、電探とりつけと機銃取付位だろうし)
最終更新:2019年09月12日 08:55