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日墨ルート
アチェ人蜂起。
これはタイとフランスの戦争を文字通り対岸の火事と考えていたオランダ東インド総督府にとって大きな衝撃とともに受け止められた。
オランダは植民地軍を送り込んで鎮圧しようとしたのだが、そこで第二の蜂起が起きた。非合法化されて地下で活動していたインドネシア独立派も蜂起したのだ。
オランダ領東インドはたちまち大混乱となった。
この非常事態にオランダ政府は東インド防衛のために本国軍を動員するとともに、大日本帝国からの装備の緊急輸入決定し、イギリスに地理的に近いオーストラリア軍の派遣も要請した。
要請を受けたオーストラリア軍はただちに介入を開始。雑多な装備しか持たないインドネシア独立派を粉砕し、1月でジャワ島の治安を回復した(注1)。
しかし残るアチェ独立派は厄介だった。彼らは過去の戦争と同様にスマトラの原生林でのゲリラ戦でオランダ・オーストラリア連合軍に抵抗した。
オランダ軍は第2次アチェ戦争でゲリラ戦によりアチェ王国が長きに渡り抵抗を続けていたいた事を忘れていなかったため、戦略村による住民隔離と枯葉剤の散布を行ったが、
アチェ人の抵抗活動はその後も長く続くことになった。

一方オランダ本国では鎮圧作戦と並行してアチェ独立派の蜂起に関する調査が行われた結果、兵器の多くがタイ製であったことなどから背後にタイ王国の工作があったとして、
オランダはタイ王国に宣戦を布告。さらにイギリスも東南アジアにおける正常安定化のためとして、オランダに続いてタイに宣戦布告した(注2)。
タイ国内では降伏と継戦で揺れ、ミッテルオイロパのドイツ、ロシアに支援か講話の仲介を要請。ロシアの仲介でキエフで講和会議が開催されることになった。

フランス、オランダ、イギリスの要求はタイ北東部地方、タイ東部地方をフランスに、
タイ南部地方、タイ西部地方とチェンマイ県、ターク県、メーホンソン県をイギリスにそれぞれ割譲し、更にオランダを加えた3国に対して賠償金を支払うというものだった。
この要求にタイ政府は激怒したが、ドイツ、ロシア両国はこれ以上の支援はしない旨をタイに伝えていた為、タイ政府は結局講話を受け入れざるを得なかった。
キエフ講和会議においてドイツ、ロシアが静かすぎるのをイギリス、フランスは不審に思ったが、その理由は会議終了から1年後に判明した。
1947年1月8日、ドイツ、ロシアによる核兵器共同保有宣言。大日本帝国、イギリスに次いで核兵器保有国が誕生した瞬間だった。
これによりアメリカ、フランス、テュルク・アラブは大きな衝撃を受け、核保有を目指していくことになる。
また、ドイツとロシアでは日墨に並んだとして各地で祝典が開かれたが、日本人は遥か先を行っていたということを彼等は1年後に思い知ることになった。
1948年の東京オリンピックに合わせた形での世界初の人工衛星の打ち上げという形で。

注1 ただしこの過程でオーストラリア軍、オランダ軍による独立派とは無関係のモスクの破壊、ウラマーの処刑などがあり、
テュルク・アラブとイギリス、オランダの関係が冷却化した。
注2 宣戦布告とほぼ同時にマラヤ駐留のイギリス軍が攻撃を開始したことから、全てはイギリスが裏で操っていたとの陰謀論も囁かれた。

481: 透過の人 :2019/08/31(土) 18:05:14 HOST:softbank126077075064.bbtec.net
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最終更新:2019年09月02日 10:11