521: ホワイトベアー :2019/09/06(金) 15:28:23 HOST:om126255148154.24.openmobile.ne.jp
日米枢軸ルート 第41話

中華民国内でのクーデターから始まった一連の侵攻は、当事者である満州連邦やその事実上の宗主国である日米はもちろん、欧州各国にも衝撃を与えることになる。これらの国々はまさかこの状況で中華民国側から戦争を仕掛けてくるとは考えてもいなかったからだ。

さらに悪い事にこの侵攻部隊にはドイツ帝国から派遣された軍事顧問団所属の現役の将校が率いる部隊が確認されており、さらに国民革命軍の参謀次長には軍事顧問団団長のファルケンハウゼンが就任していた。

この事実によって日米とドイツ帝国の関係は加速的に悪化していき、臨時に開かれた国連総会では日米はドイツを声高に非難し、ドイツ及びその同盟国のスエズ及びパナマ両運河の使用禁止を発表、さらにするなど経済的な圧迫を加えていく。また、共和党のフランクリン・ルーズベルト大統領は中華民国およびその同盟国であるドイツにたいして経済制裁の実施を臨時に開かれた連邦議会に要求するなど平和の空気は完全に霧散することになり、世界情勢はたった1ヶ月と少しで破滅の一歩手前まで来ることになる。

軍事顧問団の暴走によって日米からの批判と制裁を受けることになったドイツ帝国は即座にこれがドイツの本心ではないことを釈明するが、現役のドイツ帝国将校が実際に指揮をとっていると言う事実の前では、そのようなものに何の価値もなく、彼らは自らが圧倒的なまでに不利な状況で事態の収拾のために日米と交渉を行わざるを得ない状況であった。また、成立したばかりの欧州連合内部からは自国の軍の統制すら取れないドイツが本当に盟主に相応しいのかを疑問に思う国も多数、出始めており、ドイツの外交は危機に陥ってしまう。

核兵器の使用すらチラつかせ始めた日米と空中分解し始めている欧州連合という2つの危機への対処を迫られたドイツ帝国政府は支那方面ではドイツ軍事顧問団の切り捨てと日米のとる手段を全面的に支持する事を表明し、さらに日米の支援と正当なる国民党政府の救出の為に軍の派遣すら提案する。この提案は日米に拒絶されるものの、事実上日米に白紙委任状を渡したことによって最悪の事態を避けることに成功、欧州連合離脱を目論む諸国が中小国家であったこともあって経済的、軍事的な圧力をチラつかせつつ、関税排除による利点を説いて留まらせる方針をとることで何とか引き留めにかかった。

ドイツ帝国が白紙委任状を渡すことはドイツ軍事顧問団にとっては想定外の出来事であり、本国政府に梯子を外された形になった彼らは、自らの失敗を自覚したが、今さらそのような事をしても手遅れであり、彼らはもはや簡単にこの沼から足抜けをする事は難しい状況であった。

しかし、諦めが悪い彼らは何とか最小限の被害で自らの身(と地位と名誉)を守る為に密かにであるが臨時政府に捕らわれている蒋介石ら国民党政府高官の救出し、臨時政府を打ち倒すことで事態を終結させようと動き出していた。

一方、侵攻を受けている満州連邦は国民革命軍が補給線の破綻によって足を止めている状況を活かして動員が完了した予備役部隊を次々と善戦に送り込み防備を固めるのと同時に反攻作戦に向けた物資の備蓄を開始し始める。日本軍も同様であり、満州防衛の役割をおっていた満州駐屯軍(6個師団で構成)の他に、ドイツとの間での交渉が纏まるとソ連への備えとしてロシア帝国に駐留していた露西亜駐屯軍や大陸での即応戦力と位置付けられていた朝鮮駐屯軍も華北に送り込み始める。

522: ホワイトベアー :2019/09/06(金) 15:29:10 HOST:om126255148154.24.openmobile.ne.jp
露西亜駐屯軍はソ連への対抗をその目的としていた事から、4個機甲師団と2個機械化歩兵師団+αから構成される機甲軍であり、高い機動力と突破力を誇る日本陸軍の最精鋭部隊の1つであった。

朝鮮駐屯軍は2個軽歩兵師団と4個混成歩兵旅団を中核としている軽装部隊であり、大陸での有事の際に即座に動員できる即応部隊として構成されていた。

これらの部隊は順調に華北地域に展開していき、国民革命軍の満州侵攻から1ヶ月ほどが経過した6月後半には華北に満州連邦軍18個師団(うち予備役によって構成される後備師団が6個師団を占めている)、大日本帝国陸軍14個師団+αが展開しており、武器弾薬燃料も日米の資本投下のもとに延長されていた満州鉄道や日本軍自慢の兵站部門の活躍によって問題なく前線に運び込まれており、この状況から日満連合軍は反攻作戦のX-dayを7月18日にする事を決定、各部隊に反攻作戦の準備をするように通達する。

このときの国民革命軍は急激な占領地の拡大と日本軍の空襲によって兵站が破綻したことによって前線部隊では武器弾薬はもちろん食料すらも届いていない部隊が増加しており、こうした部隊では士気崩壊よる逃亡者すらも出始めていた。

そして、そこを突くように日満連合軍による反攻作戦が開始され、日満の機械化部隊と自動車化部隊が機甲部隊を先頭に立てた攻勢を開始する。

このとき陸で主力を勤めたのは当然であるが機甲軍である露西亜駐屯軍所属の機甲師団であり、空では日本陸軍航空軍と日本海軍航空総隊の戦闘機や攻撃機、爆撃機、回転翼機が我が物顔で飛び回って日満地上部隊に航空支援を提供する。

そして、日本軍がこのとき運用していた戦車は旧式化(日米比)著しい一〇式中戦車ではなく、ソ連の重戦車に対抗するために開発され、冬戦争では一方的にソ連のKV-1を屠っていった三二式中戦車や高い機動力を有し軽戦車でありながらソ連のKV-1を凌駕する火力を有する二三式軽戦車など、Ⅱ号中戦車やBT-7などの戦車しか有しない国民革命軍がまともに戦っても勝てる可能性が限りなく低いバケモノ戦車達であり、さらに上空には高い速力・地上攻撃のための高い機動性・重武装搭載能力、ホバリング能力を特徴とした戦闘ヘリコプターが地上部隊を支援をおこなっていたことや、上記した士気崩壊と合わさり満州領にいた国民革命軍はそのほとんど録な抵抗もできないまま包囲されるか全面敗走していった。

小規模ながら組織的な抵抗をした部隊もあるにはあったが、そうした部隊も圧倒的な数と質の暴力によって大した損害もあたえられず撃破されていった。また、敗走した部隊も盗賊化すると問題があるので徹底的な追撃が行われ、最終的には反攻作戦開始から二週間ほどで中華民国国境付近に展開していた極一部の部隊を除き、満州領にいた国民革命軍はそのほとんどが死ぬか降伏することになり、中華民国臨時政府は彼らが誇る精鋭部隊を文字通り壊滅させた結果、得られたのは国際的な孤立だけとなり、ここに満州侵攻作戦は完全な失敗に終わった。

本来ならここに至っては日満に講和を求めるべきであるが、中華民国臨時政府は国民党政府を弱腰と非難してできた政府であり、それをしてしまえば自らの行いの否定以外の何者でも無いことから愚かな事に臨時政府主流派は継戦の構えを崩さなかった。数の上では国民革命軍いまだに二百万近くの兵力を抱えている事も彼らの態度に影響を与えた。

無論、臨時政府内にも講和するべきだと言う意見もあるにはあったが、しかし、現状での講和では条件が最悪なものになるのは誰の目にも明らかでり、講和派すら日満に一撃加えて交渉を有利にしたいと言う考えが講和派にもあり、彼らも講和ではなく継戦を選んだ。

523: ホワイトベアー :2019/09/06(金) 15:30:44 HOST:om126255148154.24.openmobile.ne.jp
華北での戦いで鮮やかな勝利を掴んだ日満連合軍であるが、彼らはそのまま返す刀で中華民国本土に逆侵攻を仕掛けることはせずにいた。日本や満州では報復として逆侵攻を仕掛けるべきだと言う声も多く出ていたが、史実の日中戦争やベトナム戦争、アフガニスタン侵攻のような泥沼に入る事を夢幻会が警戒したために、中華民国本土への陸上戦力への派遣に二の足を踏んでいたのだ。また、勝利を掴んだといっても日本軍の方も、陸上戦力、航空戦力を問わず疲弊しており、さらに弾薬もかなりの量を消費していた。そもそも、それ以前の問題として、二百万の大軍に対して攻め込むだけの戦力が不足しており、さらに、日本軍と国民革命軍の睨み合いは上海でも行われており、こちらの状況も改善する必要があった。

今まで育て上げた精鋭部隊のほとんどを満州で失った中華民国臨時政府は、もはや勝ち目が無いことは理解していたが、それでも講和交渉を少しでも有利にするべく次なる攻勢を取ろうとしていた。その目標となったのが上海である。

中華民国最大の港湾都市であり、中華民国の海の玄関口として機能するこの地には清国地代に設置された大陸最大の日本人祖界がおかれており、その関係上、上海の各要地には密かにトーチカを含めた堅固な陣地が築かれており、大軍の集中を可能としていた。また、首都である南京に近いことからインフラが整備されており、満州でおきた補給線の破綻の心配はなく、日本軍に大打撃を与える事が可能と中華民国臨時政府は考えていた。そして、その陣地に日本軍を引き込むための餌として上海の日本人祖界が選ばれたのだ。

このときの上海は日本・アメリカ・イギリス・フランス・オーストリアといった五大大国と呼ばれた列強の祖界が一同に介する状態であり、各国の軍部隊や警察が駐留している状態で、日米を含めた列強各国はここでは問題をおこさないと言う暗黙の了解があった。

しかし、追い詰められている中華民国臨時政府はその様な事を気にすることはなく、南京に残っていた最後の精鋭部隊である第15師、第36師、第87師、第88師の4個歩兵師団が上海の日本人祖界を包囲、祖界にこそ入らないが、上海に駐留する日本軍を誘い出そうと散発的な攻撃を繰り返しおこなう。

このときの上海には平時に駐留している海兵隊上海特別駐留隊3,000の他に台湾に駐留しいている第4海兵遠征旅団6,000と各部隊の即時に動かせる戦力を集めて送られてきた海兵特別隊1,200、遣支艦隊所属の艦艇からの陸戦隊800が追加派遣されており、これらを合わせた11,000人ほどの戦力が日本軍が現状で動かせる戦力の全てであった。これは上海を包囲している部隊のおよそ1/10ほどの戦力でしかなく、海軍海兵隊は即座に国防総省および海兵隊司令部、帝国艦隊司令部に増援の派兵要請を打電するが、このときの日本軍は満州方面への部隊移動に多くの労力を割いており、上海方面に大規模な増援を送り込むには五日間から七日間ほどの時間が必要であるとの打電が、なるべく戦闘正面を拡大しないようにと言う命令と同時に東京から返えってきた。

これを受けた海兵隊現地司令部は各部隊に防衛的戦術に限定した戦闘を心がけるように厳命を下し、このこともあって上海では小競り合いこそあったものの全面的な戦闘はおきなかった。

日本軍が動かないことにしびれをきらした国民革命軍の挑発行動は次第に過激化していくが、それでもこのときには東シナ海に日本海軍自慢の空母機動艦隊が展開し、制空権は日本海軍が掌握していた事から史実のような上海地域への空襲は行われず、せいぜいが双方の砲兵部隊による小規模な砲撃戦が行われる程度ですむことになり、上海が国民革命軍空軍によって空襲される事は避けられており、上海の民間人から犠牲者が出ることはなかった。しかし、こうした砲撃戦は中華民国側の上海の住民を震い上がらすことになり、多くの中国人がフランス祖界に逃げ込んだ。

こうした事態に欧州列強各国の領事達は日中双方に申し入れを行い、上海での敵対行動を回避する為に直接交渉を行うことを勧めるが、日本はすでに手遅れであると拒否、国民革命軍も唯一有利(と考えている)な戦場である上海を捨てるはずもなく、欧州列強の仲介は無駄に終わった。

524: ホワイトベアー :2019/09/06(金) 15:32:03 HOST:om126255148154.24.openmobile.ne.jp
また、日本軍は挑発されたままでいることはなく、東シナ湾に駐留していた戦略爆撃機部隊や東シナ海の空母機動艦隊による空母航空団を使い、民間人への被害を避けるために都市部こそ避けられたが国民革命軍部隊や江蘇省のインフラに容赦なく攻撃を加えることでこの挑発に答えていった。

また、この空爆によって時間を稼いでいる間に上海の邦人と駐留部隊を救出するために長崎から日本海軍海兵隊の3個師団を、台湾から海兵隊2個師団を乗せた大船団が出撃し、8月22日には揚子江河口部に船団を引き連れた艦隊が到着、船団は二手に変われ、主力の日本海軍海兵隊3個師団が上海の北東部の杭州湾に戦艦4隻を中核とした水上打撃艦隊の支援を受けながら上陸を敢行、のこりの海兵隊2個師団も戦艦3隻の支援の下に上海南方の揚子江河口部から上陸、周辺の国民革命軍を蹴散らし橋頭堡を無事に確保する。

これに対して国民革命軍は南部への上陸への備えこそしていたが、杭州湾への強襲上陸は完全に想定外であったこともあって、日本海軍海兵隊には組織的な抵抗をすることができなかった。そして、退路が絶たれるかも知れないと言う事実に大きく動揺が発生、ドイツ軍事顧問団によるトーチカ構築と作戦によってゼークトライン上の部隊は激しい抵抗をおこなうものの、日本海軍海兵隊は大した抵抗を受けることもなく逆包囲のための進撃を続けていった。

そして包囲が完成すると、満州での光景と同様に一方的に国民革命軍の損害が増えていき、国民革命軍は包囲を突破する為に攻勢にでるか、降伏するか、軍服を脱いで周辺の村に隠れるかの三つの選択肢から1つを選ぶことになる。

そしてこの選択で国民革命軍の兵士達の運命は大きく変わった。大半の将兵はそれまでの反日教育もあって降伏することは=で死だと考えており、包囲を突破するか軍服を脱いで周辺の村に隠れるかを選ぶ。その結果、包囲の突破を目指した部隊は、航空部隊の必要な追撃により重装備を失い、軽装備しかない状況で完全装備の海兵隊にぶつかることになり、ほぼ全ての部隊が文字通り壊滅することになり、軍服を脱いで周辺の村に隠れた兵士達は日米が行った便衣兵狩りにより捕縛されるか、町の住民の日本軍への手土産にされるなどして少なくない数が殺されるか、大きな怪我を負うことになる。

一方、降伏することを選んだ部隊は上海に設立された捕虜収容所に入れらるものの、怪我の治療などは最低限行われ、この選択を選んだものがもっとも幸運であっただろう。

その後も上海での戦闘も日米が順調に行っていき、9月中旬には完全に決着がつくことになる。

上海での敗北は国民革命軍の事実上の崩壊と同義であった。この戦いによって臨時政府は近代化された部隊を全て失ってしまい、残っているのは朝鮮戦争の頃に使われていた旧式装備やそれも持たない机上の戦力のみであり、国民党政府が必死に作り上げてきた軍隊の面影はもはやわずかも残ってはいなかった。

そしてその隙をドイツ軍事顧問団は的確に突き、蒋介石ら国民党政府高官の救出と臨時政府打倒を実行に移した。この動きは満州侵攻失敗と上海戦敗北の責任争いで忙しい臨時政府はついぞ掴む事ができず、上海戦から一週間後の9月23日、南京で南京防衛軍によるクーデターが発生、中華民国臨時政府高官は軒並みとらえられ臨時政府は崩壊、国民党政府が再び実権を握ることに成功する。

実権を取り返した国民党政府はただちにイギリスに日満との交渉の仲介を依頼し、何とか講和を行おうとし始める。彼らからしたら現状での戦争継続は馬鹿がすることであり、例えどのような条件でも速やかに講和するべきだと言う意見で一致していた。

その上で、日米とも比較的良い関係があり、ドイツとも悪くはない関係を築いているイギリスに仲介を頼んだのは、ドイツよりも日米にパイプがあると言うだけではなく、国民党内に生まれつつあったドイツ帝国への不信感も多分に影響している。

国民党政府からの打診を受けたイギリスはこれ以上戦況が長引けば中華民国での利権を日米に奪われる可能性があると言う意見や香港への飛び火を恐れて即座に仲介を承諾、日本に国民党政府が和平交渉を望んでいること、両者の会談場所としてシンガポールを提供する用意があることをを在日大使館経由で伝える。

525: ホワイトベアー :2019/09/06(金) 15:32:51 HOST:om126255148154.24.openmobile.ne.jp
日本側も史実のような泥沼の戦場に足を入れる様なつもりはなく、早々にこの戦争を終わらせたいと考えていたことから、この打診を受け入れる方針を公式に発表する。しかし、これは日政府与党の方針をぬるいと考えていた国内の国粋主義勢力にとっては許せることではなく、与党の座の奪取に躍起な野党にとっては絶好のチャンスであった事から、彼はまるで鬼の首をとったかのように政府与党へのバッシングを開始する。しかし、マスメディアのほぼ全てに支配的な影響力を有していた夢幻会のほうが印象操作に長けており、大半の国民は、中華民国国民党政府がある程度の落とし前をつけるならと言う条件付きであったが現政府の方針を支持した。

そうして、シンガポールでの和平交渉が開始された。しかし、いまだに大陸では休戦になったわけではなく、日本軍による爆撃は継続して行われていた。

この和平交渉では日本側が中華民国(国民党政府ではない)に全面的な責任があると主張する一方、国民党政府は全責任は軍部とドイツ帝国にあり、"自ら”は被害者であると主張し、交渉は早々に平行線を辿る事になる。だが、国民党政府も自らが日本側よりも大きな譲歩をしなければならないことは理解しており、これはあくまでも少しでも日本から譲歩を得ようとするポーズでしかなかった。その事もあって、国民党政府も責任を一部認めるなど次第に折れていくが、あくまでもドイツ軍事顧問団とそれに唆された軍部の責任が極めて大きいと言う主張は崩さず、賠償金の支払いこそ認めるもののあまりに厳しい条件での講和だと国民党政府が崩壊し、中華民国方面で大きな混乱がおきる自ら、ひいては東アジアの安定を人質に金額などでは激しい交渉が続けられた。

そして、日本側も中華民国での大量の難民発生は避けたいため国民党政府側の主張をある程度は呑まざるをえず、また、支払いが確実でない中華民国から賠償金を得るのではなく、中華民国の主張を認めてドイツから賠償金をとった方が確実だと考えたこともあって、最終的に国民党政府に突きつけた条件は

  • 満州国境より50kmの非武装地帯を設定、中国警察隊が治安維持
  • 上海に非武装地帯を設定し、国際警察により管理する。
  • 排日政策の停止
  • 中国における外国人の権利の尊重
  • 賠償金30万円(現在の価値でおよそ4億8千万円)の支払い
  • 軍備を開戦前の1/3にする

と比較的軽いものであり、そもそもの原因の1つであるドイツ軍事顧問団についてはドイツ帝国に還される事になった。

また、賠償金は満州連邦が出した損害を補填するのには圧倒的なまでに足りない状況であったが、日本は東アジアの安定を優先した。この条件は中華民国にとっても良い条件あったが、軍備の制限に関して意見が別れた。彼らからしたら現状の講和は一時的なものであり、最終的には中華を統一することが目的であったからだ。しかし、そこは伊達に4000年の歴史を誇る中華である。彼らは経済の復興こそ第1だとしてこの条件を全てのみ、1940年10月14日に正式に講和条約であるシンガポール条約が締結され、中華でも戦火が消えた。

526: ホワイトベアー :2019/09/06(金) 15:43:13 HOST:om126255148154.24.openmobile.ne.jp
余談であるが、このシンガポール条約の内容はあまりに中華民国に甘すぎると言う声が野党はもちろん与党や国民世論からも出始めるが、日本政府はこうした世論を無視してこの条約の締結を行い、政府支持率は一時は30%を切るほどにまで暴落した。

だが、これにて一件落着とはいかなかった。中華民国と講和条約を結んだ日本はドイツ帝国政府に対して賠償金の支払いとフランス領インドシナのドイツ帝国軍の進駐禁止を要求する。その理由は上記したようにドイツの現役将校が今次事変にて日本軍や満州連邦に損害を与えたことが挙げられた。

この要求はドイツ国民に大きな衝撃を与える事になった。それも当然である。彼らは極東での戦いに自国の現役軍人が関与していることを知らなかったのだ。それゆえに国民の多くは日本の行動を先の西欧戦争で勝利したことを警戒した日本による嫌がらせと考え、先の大戦での仕打ちやさらに軍の責任転換も合わさり反日感情が高まっていった。

しかし、核兵器と言うジョーカーを日米しか握っていない現状ではドイツ帝国にとれる手段は大したものが存在せず、ドイツは日満の賠償金請求を受け入れるしかなかった。しかし、ドイツ帝国政府はこの外交的敗北を利用して核武装の必要性を国民に説いていき、核兵器の開発に一層力を注いでいく事になる。

最後に、今回の事件の原因の1つであるドイツ軍事顧問団であるが、彼らが帰国すると祝いの花束を持った人々の変わりにフル武装の武装親衛隊の歓迎が待っており、彼らは自宅に変えるのではなく、ベルリンのオラニエンブルク強制収容所(拘留所兼刑務所)に送られることになった。

彼らは全員が軍事法廷に被告として立たされる事になり最大で銃殺刑、最低でも40年の懲役と軍籍剥奪が言い渡され、その後に銃殺を免れたほぼ全員が《自殺》か《病死》することになる。

527: ホワイトベアー :2019/09/06(金) 15:46:57 HOST:om126255148154.24.openmobile.ne.jp
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最終更新:2019年09月07日 10:37