436: ホワイトベアー :2019/10/23(水) 22:30:13 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
日米枢軸ルート 第44話
1930年代から1940年代の日本は後の世では国土の再編と政治的混乱、戦争ばかりが目立つことになるが、当時の国民達の間では科学の発展こそが話の中心であった。
日本では圧倒的な破壊力を有する戦略兵器である核爆弾や核のエネルギーを使った潜水艦が実用化(本来は20年代には開発されていたが、その事は当時の国民には知らされていなかった)されるなどの軍事的なモノも目立ったが、それまではサイエンス・フィクションの産物でしかなかったロケットを使った有人での宇宙飛行や1942年に(公式に)行われた人口衛星の打ち上げ成功と言う快挙は人々に宇宙開発と言う輝かしい夢を予感させ、核兵器開発にて培った技術を応用した原子力発電の実用化は国民達に未来のエネルギーを予感させた。
日本の宇宙開発は1940年代に入り政府公認の下で大々的に世界中に公開され、日本の科学の発展の象徴とされていった。そして、日本の同盟国である
アメリカも日本の後を追う形で宇宙開発を進めていた。
異常なほど急速なスピードで発展していく日米に対して欧州連合加盟国の宇宙開発は日米と比べると遅れを見せており、1941年にドイツが完成させたV2ロケットの技術を応用した宇宙ロケットの合同開発を開始していたが、それが形になるにはまだしばらくの時間が必要であった。
日本の宇宙ロケット開発は1900年代、第一次世界大戦時に当時の陸軍と海軍が航空機とは違い迎撃が不可能な長距離攻撃兵器としてロケットの研究と言う形で開始された。この研究は一定の成果を挙げ、1911年には実用に足る弾道ミサイルや誘導ミサイルを開発することに成功したものの、信頼性や費用対効果の低さが問題視され第一次世界大戦中に正式採用されることはなかった。
戦後に入ると、政府の軍備縮小方針や軍政改革が実施された事から長距離ロケット兵器の研究は陸海軍から新設された国防総省技術開発本部に移転することになった。
また、文部省や気象庁なども軍からもたらされた技術を使い気象観測など軍事以外のロケットの開発と運用を開始していった。そして気象観測用ロケットなど学術目的のものの開発は大学が主導していき、日本のロケット開発は軍のみに留まらず民間でも行われていくようになった。もっとも、これは気象観測ロケットは飛翔体が小型でも問題ないため、軍が求めるような大型ロケットよりも遥かに低予算で済むと言う理由も大きいかった。
話を元に戻そう。長距離ロケット兵器の開発を一任される事になった技術研究本部は弾道ミサイルと巡航ミサイルの二種類の長距離ロケット兵器の開発に取りかかっていく。そして、これらの開発に関わったのは大学よりも航空機メーカー抱える企業群であった。
本来、この様な新技術の研究を中心とした大規模な事業であれば大学も関わるべきであるのだが、不幸な事にこの時の日本では学校教練の今後について国防総省と文部省が対立を深めており、文部省に借りを作りたくないと国防総省は考えていた。さらに、この対立に、文部省や帝国大学中心の技術開発を嫌がっていた経済系の省庁が大挙して国防総省の味方として参戦したことや、大学よりも軍の方が研究施設やロケット関係の科学者が充実していることから文部省の管轄である大学側は故意にこの研究から外される事になってしまってたのだ。
438: ホワイトベアー :2019/10/23(水) 22:30:45 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
これに反発した文部省が上記した通りに学術用ロケットの開発・運用を名目としたロケット研究を開始、日本のロケット開発は国防総省と文部省の2つの省庁が別々に行っていくように事になった。
こうしたゴタゴタはあったものの技術研究本部と企業の研究は協力しながらより大きな威力の弾頭をより遠方に飛ばす事を目指してロケットの研究を行っていく。その過程でいくつもの試験用あるいは試作ロケットを製作し、打ち上げを実施するなどの実験を行い、様々なデータを収集する。
そして、得られたデータと十分な予算、さらに最新の設備を使い1924年に国防総省技術開発本部は三菱重工業、倉崎航空工業、石川島重工業、中島飛行機、川崎重工業の協力の下で射程距離 2,400kmを誇る単段式中距離弾道ミサイルである二四式試作中距離弾道推進弾乙型と甲型を開発する。これらの弾道ミサイルは国防総省の提示した性能に届かなかった事から弾道兵器として採用される事はなかった。だが、それでも高い性能から時の政府は乙型を当時計画していた人工衛星打ち上げロケットに転用すること決定、打ち上げを可能とする為に二段式打ち上ロケットとして改良し、世界初の人工衛星打ち上げロケットとして採用される事になる。
1927年には14,000kmとそれまでのロケットの記録を打ち破る広大な射程距離を誇り、後に世界初の大陸弾道ミサイルとして記録されることになる二七式試作大陸弾道推進弾の開発が完了、この弾道ミサイルはその射程距離の長さから極秘裏にではあるが即座に採用される事が決定、同時期に保有に踏み切った水爆を搭載し、日本本土から南米中南部と南極の一部を除く全ての地域を射程範囲に捉える戦略兵器として日本本土に40基ほどの配備が開始された。
この二七式大陸弾道推進弾はその広大な射程範囲から日本政府と軍の期待の新兵器であり、実際にその期待に見合うだけのポテンシャルを有していたが、問題がなかったわけではなく酸化剤として液体酸素 (LOX) を用いる液体燃料ロケットを推進機関として採用していた事から、ミサイルに燃料とLOXを積載したまま部隊に配備することができず、発射するためには発射前に断熱化された耐圧タンクに保存されているLOXと燃料をミサイルへ注入しなければならなかった。その為、命令が下ってから実際に発射されるまでには数時間の作業が必要で、即応性に大きな問題があった。この問題は開発当初から判明していた事もあって、開発途中から後継弾道推進弾の開発計画が浮上し、配備と同時に正式に新型弾道推進弾の開発が開始された。
この新型弾道推進弾の為に常温保存が難しい液体酸素ではなく、固体燃料を使用する新型ロケットの開発を実行する。この開発は極めて順調に進んでいき、開発開始からわずか3年しか経過していない1930年には固体燃料ロケットエンジンを搭載し、13,000kmと長い射程距離を有する3段式弾道推進弾である三〇式大陸間弾道推進弾を開発する。
この三〇式大陸間弾道推進弾上記したように即応性を高めるために固体燃料を使用したロケットを採用している。固定燃料と言うことから燃焼制御技術を新規に開発する必要であったが、
回りに燃料貯蔵庫や燃料給油システムが必要な液体燃料搭載ロケットを搭載している二七式大陸間弾道推進弾より小型軽量かつ安価なものになるなどのメリットも生まれ、最終的には払った対価より多くの利益を得る。
もっとも、この三〇式大陸弾道推進弾が登場した1930年代初頭は世界恐慌がおきてから間もない事もあって軍事費が削減されており、さらにこの頃の海軍は艦艇整備に予算を多く割いていた事から大規模な量産は欧州列強が防空能力に力をいれ始めた1940年代後半まで見送られる事になり、日本の核戦力の中核は戦略爆撃機が中心となった。
また、衛星打ち上げロケットも枯れた技術が使われている液体燃料ロケットが採用されている二四式試作中距離弾道推進弾乙型の派生型であるJR-24
シリーズや二七式大陸間弾道推進弾を改良したJR-27シリーズが運用されるなどこの時は大した活躍はなかった。
439: ホワイトベアー :2019/10/23(水) 22:31:16 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
ロケットの発展は日本に弾道弾と言う兵器を与えるだけではなく、宇宙開発のと言う世紀の事業を活発にさせいった。
当時の宇宙開発は国防機密を盾に国防総省が主導し、経済産業省(1918年に商工省から改変)や企業が補助をする形で進められ、文部省と大学はあまり関われなかった。
その為、1925年には二四式試作中距離弾道推進弾を二段式に改良した打ち上げ用ロケットであるJR-24Aを使い世界初の人工衛星である織姫一号(後に日本初の有人ロケットに名前が引き継がれる)の打ち上げ成功を皮切りに、1926年には偵察衛星であるSR-11の、1928年には世界初の衛星測位システムのプロトタイプ衛星の打ち上げにも成功するなど人工衛星を次々と宇宙に挙げていったが、学術研究を目的とした衛星は打ち上げ数が極めて少なくなってしまった。
こうした打ち上げで得れたデータは1940年の有人型打ち上げロケットである織姫一号の開発や打ち上げの成功に貢献していき、1940年代は無事故でロケット打ち上げを行え、日本の国威を高めることになった。
ロケット開発は日本の同盟国であるアメリカでも同様に行われていた。
アメリカ合衆国でのロケット開発は日本とは違いドイツと同様に民間で始められた。そして、その中心にいたのはロバート・ハッチングズ・ゴダードという男であった。
ロバート・ハッチングズ・ゴダードは転生者ではなかったが、史実より早く生まれており、1914年にはスミソニアン協会の財政支援を受けて“ネル”と名付けられた液体燃料ロケットを打ち上げたに成功した。このニュースはウスターの地方紙に小さいコラムとして挙げられただけであったが、偶然、共産趣味愛好家達が作り上げた軍需企業であるカモミール アメリカ支社がこの記事を見つけ出す。この頃のカモミールは未だに日本軍装備の赤化を諦めておらず、将来の日本の弾道兵器を真っ赤に染め上げる為にロケット開発部門をアメリカ支社に新設して有能な人間のスカウトに走ったのだ。ちょうど研究資金の調達に苦しんでいた彼はあまりの厚待遇ぶりに怪しみを抱きながらもカモミールのスカウトに応じ研究を行っていった。
幸い、研究資金は未来知識を活かしたら金融によって莫大な利益を叩き出している事や第一次世界大戦などにより民間市場や警察相手以外に軍を相手とした銃器の売上も好調になった事から心配はなく、トラジスタなどの各種コンピューターも最新のよりは一世代古いものの用意され、さらに転生者の中には前世でロケット工学の研究に関わっている者や宇宙研究を専攻していた者が少なくない数おり、ロバート・ハッチングズ・ゴダードは史実とは違い充実した環境や同志に恵まれて研究をすることができた。
こうしてカモミールは自社費用を使い独自にロケットの開発・研究を進めていき、1923年には史実R-2ロケット相当のXR-5ロケットを開発する事に成功する。しかし、これ以上の開発は単独では難しいと考えたカモミールは新たな液体燃料ロケットエンジンの研究とロケットの設計を開始ながらM4主力戦車やM12軽戦車、LVTP-1装甲兵員輸送車、P-26ジェット戦闘機を売り込み、ある程度のコネを築いていたアメリカ陸軍に新たな長距離攻撃用の兵器としてR-2ロケットを提案し、新型ロケット開発の為の援助を得ようと画策する。
しかし、当初の陸軍は海のモノともヤマのものともわからない弾道ミサイルよりも戦略爆撃機を揃えた方が良いと考えており、この構想を聞かされたところで出る言葉は社交辞令しかなかく、支援には消極的であった。
陸軍からしたら、このような高価で信頼性がなく、ペイロードも少なく、一度しか使えない玩具よりも高価だが信頼性が高く、ペイロードも多く、何より撃墜されなければ何度でも使える戦略爆撃機の方が遥かに安価なのだから当然である。
しかし、1920年代後半に日米合同での水爆が配備され、日本にて大陸弾道ミサイルや地対空ミサイル等が実戦配備されるとアメリカ政府にこのままでは対等な日米同盟を維持できないと大きな危機感を覚え始める。そして、そんなアメリカ政府は陸軍省に弾道ミサイルを売り込んできたカモミールに目をつけ、急いで連絡を取り、ロケット開発に関する特許を購入したいと打診した。この時のアメリカの打診条件は極めて良かったものの、転生者が上層部を占めているカモミール社はロケット技術の大切さをよく知っており、受け入れはしなかった。だが、この時のカモミールは本社をアメリカに移したアメリカ企業であったことからアメリカ陸軍との合同での弾道弾開発なら積極的参加したいとも言った。
こうしてアメリカ合衆国でも公的な弾道ミサイルの研究と開発が開始される。
440: ホワイトベアー :2019/10/23(水) 22:32:10 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
アメリカのロケット開発はカモミールではなく弾道ミサイルの開発はアメリカ陸軍に新設された弾道ミサイル局が、それ以外のロケットに関してはアメリカ航空諮問委員会を中心とする事が決められたが、この頃、もっともロケットに関する技術や研究者、研究施設を抱えていたのはカモミールであり、カモミールが依然として強い影響力を有していた。
その後、アメリカ弾道ミサイル局はカモミールロケット開発部門が設計をしていた新型弾道ミサイル CGM-11サップウッドの存在を知らされる。この弾道ミサイルの計画仕様は仕様は重量5,500kg分離式弾頭を備えた射程8000kmの170トンの二段式ミサイルというものであり、無事に完成すれば二七式大陸間弾道推進弾には劣るもののアメリカも大陸間弾道ミサイルを所有することができるとしてアメリカ政府は急いで開発を開始させた。
しかし、アメリカ弾道ミサイル局にはロケット開発の経験が0で、さらに集めた人材もそのほとんどがロケット開発に関わったことのない人間であった。当然、研究者のレベルはカモミール所属の研究者達とは比べるとおざなり一言でしかなかく、その為、CGM-11 サップウッドの開発はカモミールから出向していた開発チームが主導する事になる。幸い設計図自体は完成していたことから開発にかかる期間は短くすみ、開発開始からわずか3年で最初の完成品が発射準備施設に送られ、1930年6月12日に打ち上げに成功する。
打ち上げに成功したCGM-11は当初の計画では42基が実戦配備される予定であったが、このロケットは日本の二七式大陸間弾道推進弾と同様に液体燃料ロケットエンジンを搭載しており、発射準備に約20時間が必要で、極低温燃料を使用するため、燃料を注入したままアラート態勢を数日以上取ることができないと言う重大な欠陥が存在しており、さらに打ち上げには巨大な発射施設が必要と言う事や世界恐慌の発生等によって配備数は大きく削られ、8基が配備されるにとどまった。また、人工衛星の打ち上げも計画されたが、経済状況から予算が承認されず、アメリカ初の衛星打ち上げは1944年まで待たなければならなかった。
余談であるがCGM-11の打ち上げ試験成功は国防機密の名の下に完全に極秘にした日本とは違い陸軍広報部がテレビ撮影を行い大々的にマスコミに公表しようとするが、この動きをキャッチした日本がアメリカ政府にまだ機密にしてほしいと打診、これを受けたアメリカ政府は世界恐慌からの立ち直りの為に日本から莫大な支援を受けている事もあってこの要請を受け入れた。
しかし、アメリカや日本がロケットの開発を進めているという情報は完全に隠しきれる筈もなく、この情報は1920年代後半には欧州列強も把握しいていた。しかし、イギリスやフランスなどの連合国側の上層部はロケットより爆撃機や砲兵の方が経済的であると考え大した興味を持たず、物好きな一部の研究家達が航空機の動力源に使えないかとして研究する程度であった。
一方で第一次ベルサイ条約によって砲兵戦力や航空戦力に大きな制限を受けていたドイツ帝国や日米とにらみ合っているために相対的に航空戦力が低いソ連はロケットによる長距離攻撃に興味を示し、ドイツ帝国陸軍が陸軍兵器局内に液体燃料ロケット研究所を新設、研究所を登場協力関係にあったソ連領内におき、ソ連と共同でロケットの研究を開始する。なお、この研究所にはフォン・ブラウンやセルゲイ・コロリョフが在籍しており、ソ連国内に築いた諜報網からこの情報を知った
夢幻会上層部は史実米ソ宇宙開発競争の双璧によるドリームチームに大いに慌てることになり、ロケット開発の他に防空ミサイルの開発にも力を入れていった。
こうした宇宙開発技術が民間に公表される一方、兵器としてロケットとの関連がある核関連技術もまた発展していく。
もともと、日本は第一次世界大戦前である1912年よりアメリカと共同で核技術の研究を開始しており、世界大戦前の1914年には原子爆弾の実用化に成功していた。しかし、原子力爆弾の威力に不満を感じた日本側の提案(日米による早期の水素爆弾の独占を図りたかった)により、それで研究が終了する事はなく、引き続き合同でより威力が高いと考えられた水素爆弾の研究が継続して行われる事になった。
1920年4月12日にはアラスカ内部に設置さてた核実験場にて世界初の水爆実験が実施され、無事に成功、1922年には熱核材料をリチウムで固体化した水爆を完成させ、水爆の大幅な小型化を試みる。しかし、この時は未だに戦略爆撃機に搭載させる事はできなかった。その為、その後も研究が継続され、1926年には爆撃機に、1927年には弾道推進弾に搭載させることが可能なまでに小型化させる事に成功する。
441: ホワイトベアー :2019/10/23(水) 22:32:47 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
また、これとは別に日本本土ではこの合同研究で得られたデータを利用して海軍が艦艇の動力炉としての原子炉の研究を行っていく。
この研究は今後の主力艦として空母と潜水艦を据えたい海軍によって積極的な予算投入がされ、アラスカで水爆実験から約一ヶ月後の1920年5月20日には世界初の原子力潜水艦として《伊253》が就役する。この潜水艦は流体力学的に優れていることが確認されていた涙滴型船殻と核動力の強力なパワーを統合した新世代の潜水艦として設計・建造された。その結果、本級はそれまでの「可潜艦」ではなく、水中戦に明確に指向され、水中活動をこそ常態とする本格的な「真の潜水艦」へ進化を遂げた画期的な艦として誕生する。
本級は日本海軍に原子力潜水艦こそが次世代の主力艦の1つだという考えが正解だと判断させるに足る可能性を見せたが、それと同時に現行の原子炉では出力不足である、水中雑音レベルが無視できないほど深刻であるなどいくつもの欠陥もまた見つかった。
こうした問題があったため、本級は一隻しか建造されることはなく、日本海軍初の量産型原子力潜水艦は《伊253》を改良し、これらの問題に一応であるが解決させた《呂254》型原子力潜水艦の登場を待たなければならなかった。しかし、本級の設計は優秀であり、1924年にはその設計を流用して日本初の潜水艦弾道ミサイル搭載型戦略型原子力潜水艦である《伊300》型戦略型原子力潜水艦の建造が開始されるなど後の日本の原子力潜水艦の設計に大きな影響を与えていく。
日本海軍が原子力潜水艦に求めていたのは、長期間の潜水能力を活かした海中における核抑止力としての機能と、高い対水上艦・対潜水艦攻撃能力であった。しかし、当然であるが潜水艦の大きさには上限があり、核戦力を優先すれば対艦能力が、対艦能力を優先すれば核戦力が低くなってしまう。その為、海軍は対艦能力を優先する「攻撃型原子力潜水艦」と核戦力を優先する「戦略型原子力潜水艦」の二つの艦種を同時に建造すると言う力業を発動し、この問題を解決させた。
原子力潜水艦の建造には大きな費用がかかることから大蔵省はこの海軍の回答に大反発したが、幸いこの頃の日本経済は黄金の20年代と呼ばれるほどに好調であり、建造予算は問題なく調達することができた。
余談であるが、日本は1920年代後半には原子力潜水艦の研究を流用することにより商業として運用できる原子力発電炉の開発に成功していた。原子力発電は発電コストの異常な低さから、即時に商業用発電を行うべきだと言う意見非転生者の政府高官から多く出るが、この頃の夢幻会は圧倒的なアドバンテージが得られるまでは核技術の秘匿を第一としていた事もあって原子力による商業発電が広まる事はなく、結果として日本で商業用原子力発電所が建設されるのは1940年代の
日本大陸改造政策まで待つ事たなければならなくなる。これにより日本は世界初の商業用原子力発電を実施した国と言う名誉をアメリカ奪われる事になるが、原子力発電に関する安全性の研究が進められ、世界一安全な原子力発電国としての地位を獲得していき、後に世界最大の原発輸出国となるがそれは先の話である。
1940年代にこれらの核技術や宇宙開発技術が大々的に公開され、商業用原子力発電が開始された。また、それまでは国防総省が独占していた宇宙開発は日本航空宇宙機構が内閣府直轄組織として誕生したのを契機としてようやく大学などの軍に属さない研究機関は衛星を活用した宇宙の研究ができる体制がとれるようになった。これにより気象衛星による天気予想、放送衛星による衛星放送、地球観測衛星、科学衛星など、民間にも一部が解放されていき、1944年には当時おこなわれていた奉天オリンピックが満州から全世界に向けて放送される事になり、宇宙開発は日米の技術力の結晶として大々的に国威向上に利用される事になっていく。
442: ホワイトベアー :2019/10/23(水) 22:34:51 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
以上になります。wikiへの転載はOKです
それと修正で、最後の
大々的に国威向上に利用される事になった。
ですが
大々的に国威向上に利用される事になっていく。
が正しいです。
最終更新:2019年10月27日 13:53