194: ホワイトベアー :2019/11/26(火) 01:12:46 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
日米枢軸ルート 閑話 1950年代の欧州軍事情勢1

世界の大半が欧州連合、ハワイ条約機構、イギリス連邦の三大勢力に分割された20世紀中半頃、その対立の最前線となった欧州の軍事情勢は陸上では欧州連合が、海上および航空ではハワイ条約機構が優勢にたっていた。

欧州連合の中心であるドイツ帝国、フランス、ソ連、イタリアの4ヶ国のうちイタリアを除く3ヶ国は大陸国家であり、当然ながら陸軍力が最も重視されていた。

これは欧州連合結成後も変わらず、海軍予算もぞうだいされていたが、やはり三軍の中で最も予算と人員が多いのは陸軍であった。

欧州連合の中核であるドイツ帝国は現役部隊として80個師団、予備役も含めれば約180個師団が動員可能であった。ドイツ軍の師団規模はハワイ条約機構軍のものよりも34%ほど小さいものの、それでもこの規模の陸上戦力はオーストリア帝国とオスマン帝国しか欧州でのプレイヤーがいないハワイ条約機構やイギリス本土が最善にあるイギリス連邦にとっては極めて脅威であった。

ドイツ陸軍が編成してい現役師団の内の25%、つまり20個師団は約350両の戦車と約200両近くの装甲兵員輸送車が配備されている機甲師団であり、17.5%に当たる14個師団が機械化歩兵師団に当たる装甲擲弾兵師団として編成されるなど、重装備部隊を多く抱えていた。

また、通常の歩兵師団もその半数以上が自動車化されており、ドイツ陸軍は欧州有数の機械化されている陸軍で、戦車を含めた装甲車両の数は1950年代中半には戦車だけでも史実で第1世代主力戦車に相当する《Ⅵ号戦車》だけでも1万3,000両近く保有しており、旧式のⅣ、Ⅴ号戦車も含めればおよそ2万6000両近くの戦車を戦線投入可能であった。

また、それだけにとどまらず少数ながら史実第2世代主力戦車《Ⅶ号戦車》の部隊配備も開始されており、それ以外にも装甲兵員輸送車を約2万8000両、歩兵戦闘車1万2000両、装甲偵察車約3,000両、その他装甲車両2,450両を保有するなど高い機甲戦力を抱えている。

ドイツ陸軍は平時には2個師団から構成される軍団を5つ集めた軍を最大の戦略単位としており、第1軍から第8軍までの8個を常時編成していた。

そして、機甲軍団を中核とした第1、第2軍をオーストリア・ハンガリー帝国との国境線近くに展開させ、空挺軍と軽歩兵軍からなる第7、第8軍を即応部隊として、その他の第3、4、6軍を予備戦力として本土に待機させていた。
また、第5軍は基本的に本土に駐留しているものの常時1個軍団をアフリカに派遣し、フランス、イタリア、ベルギー、ポルトガル、スペインなど各国のアフリカ駐留軍と欧州防衛軍アフリカ方面軍を構成、さらに1個軍団を欧州防衛軍即応軍として他国の参加部隊と共にサルデーニャ島に駐留している。

ドイツ帝国無二の同盟国であり、欧州連合陣営では最大の国家であるソビエト連邦では赤軍(地上軍)の現役部隊のみでも180個師団を編成しており、欧州最大かつ最強の陸軍を抱えていた。そして、ドイツ帝国と同様にそのうちの25%にあたる45個師団が機甲師団として編成されていた。

保有装甲車両も桁が違い、戦車だけでもおよそ4万3000両を保有しており、《Ⅵ号戦車》のソ連版である《T-44》に至っては2万1000両とドイツを抜いて欧州最大の数を保有していた。これに各種装甲車両が加わり、総数で14万両を超える機甲戦力を抱えていた。

ソ連軍の最高単位は4個軍ほどで構成される正面軍(方面軍、戦線)であり、その下に師団4個から5個で編成される軍、さらに師団と続いていく。正面軍は当時は8個正面軍が編成されており、2個正面軍がオーストリア・ハンガリー帝国との対峙し、それぞれ1個正面軍がアジアにてオスマン帝国や極東ロシア帝国に睨みを聞かせていた。さらにソ連の本国後方には4個正面軍が予備として待機していた。x

ドイツ帝国とは違い欧州防衛軍アフリカ方面軍には部隊は派遣していないものの、欧州防衛軍即応軍には兵力を提供しており、およそ1個軍団が常時派遣されている。

この様に大軍を抱えているドイツ陸軍やソ連地上軍であるが、その一方で予算の関係もあって完全に戦闘準備ができている編成はごく一部しかなく、後方に駐留している大半の部隊は両軍の師団は充足率ごとに作戦行動に即応対応できることが保障されているA群ではなく、作戦行動に72時間以上の準備が必要なB(Б)群、作戦行動に2カ月の準備が必要なD(Д)群と言った平時の充足率が低い部隊で編成されていた。

195: ホワイトベアー :2019/11/26(火) 01:13:26 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
また、欧州連合には西欧戦争でこそ敗北し、現状の陸軍戦力ではドイツ帝国やソ連には劣るものの、ルイ王朝の最盛期やナポレオン時代はヨーロッパ随一の陸軍大国と言われ、現在でも欧州連合では有数の陸軍大国であるフランスも加盟している。

フランス軍はイギリスとの関係上、海軍重視に転換しつあったが、それでも中核戦力として機甲師団1個と歩兵師団3~4個を合わせて構成する軍団を8個編成し、その他に各植民地防衛を主任務とする植民地軍や空挺師団等の特殊用途の部隊、重砲兵旅団などの各種支援部隊も保有し続けるなど、書類上は無視でないレベルの陸軍を保有していた。

しかし、EUとHTOの睨み合いにおいてフランスは"後方(※1)"であったこともあって、1940年代後半から1950年代にかけてフランス陸軍はアントワーヌ・アルグー大佐を中心とした改革派を中心に新たな脅威となりつつあった核戦争や植民地における武装蜂起に対応できるようにと言う名目で(※2)史実ペントミック師団と類似するような形での戦略単位となる師団の縮小化を図っていた。

その為、書類上は充足率100%の1個師団でもその実態は他国の旅団程度の戦力しかなく、その下の連隊も精々増強大隊規模しかないと言う状況であり、機甲師団もドイツやソ連のものと比べると小規模な編成で、当時想定されていた大規模戦闘では部隊としての耐久力は旧来の編成より低く、当時予想されていたハワイ条約機構軍との大規模正面戦闘においては不利とされていた。

その反面、当時のフランスが直面していた植民地での大規模な反乱の鎮圧など大規模正面戦闘以外ではかなり優秀な編成で、特に植民地や後進国との局地戦では目覚ましい活躍を示していくことになり、フランス陸軍はこの編成を長きに渡って続けていく。

また、装備の面でもフランス陸軍は独ソ両陸軍に遅れをとっていた。当時のフランス陸軍は3500両の重戦車と1500両の軽戦車を有していたが、フランス陸軍が主力として採用していた重戦車は、同陸軍が必要以上に強くなることをドイツが嫌った事から独ソ共同で開発されたⅥ号戦車(T-44)が供与されず、フランスが独自に開発した《ARL-47》と呼称される重戦車が採用されていた。

この《ARL-47》重戦車は主砲65口径90mmライフル砲を搭載し、最大装甲厚は車体前面で120mm、さらに車体前面の装甲板は45度傾斜していたため実質的な装甲防御力は170mm厚の装甲板に匹敵するなど、ここまでなら運用に問題ない性能を有していた。

しかし、その設計では旧来のフランス重戦車の設計を色濃く受け継いでおり、幅の広い塹壕を乗り越えられるように考慮された設計であった。しかし、このような設計思想は日米では大戦前から、それ以外の列強でも1930年代にはすでに時代遅れのものであり、古臭い設計のサスペンション構造や50tと言う重量と相まって他国の主力戦車と比べると機動性が悪い原因となってしまっていた。

総論すると本戦車は不十分で洗練されていない設計であり、日米の主力戦車は勿論Ⅵ号戦車にもかなわない戦車であった。

これは本戦車を運用しているフランス陸軍も十分に理解しており、本戦車の開発完了とほぼ同時に新型戦車の開発を開始し始める。しかし、その新型戦車が登場するまでは今しばらくの時間がかかる予定で、当面の間は現在運用されている《ARL-47》重戦車を主力戦車として運用する他なかった。

また、軽戦車に至っては海外に速やかに展開出来るように輸送機で空輸可能な「空挺戦車」と言うコンセプトの基に開発された事もあって、全長6.32m、全幅2.50mと言う小型な車体に75mmライフル砲を搭載したモノで、民兵やパルチザンを敵とする非正規戦では活躍できるものの、重装備の敵には無力であった。その為、オーストリア・ハンガリー帝国陸軍の戦車と戦えば一方的に撃破されるモノでしかなかった。

歩兵部隊もドイツやソ連などより遅れており、部隊の自動車化はいまだに半分も済んでおらず、歩兵装備も突撃銃を予備役にまで配備させているのに対していまだに半自動小銃であるMAS-49を一線級の部隊が装備しているなど、旧式化が目立っていた(最も、これはフランス陸軍が高い信頼性を求めて、あえて突撃銃ではなく半自動小銃を採用しているだけであったが)。

しかし、これでも欧州連合では有数の陸軍国で欧州連合3位の陸軍保有国であり、イタリア陸軍とは違い列強の座に恥じないレベルをギリギリ維持していた。

196: ホワイトベアー :2019/11/26(火) 01:14:43 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
一方で、EU最後の列強でありドイツやソ連とならんでHTO諸国との前線国家であったイタリアの陸上戦力は悲惨の一言に尽きた。

イタリアは国連で常任理事国の席を有し、欧州6大国の一角を占めるなど欧州では有数の大国であったが、しかしイタリア王国は基本的に農業国であって経済規模の大きさに対して工業生産力が低く、それは他の列強以外の国々と比較した場合であり、列強と呼ばれる国の中では間違いなく国力(特に工業力)は最下位であった。さらにイタリアではファシスト政権誕生からごく初期を除いて経済は悪化の一途を辿っており、その影響は間違いなくイタリア陸軍を蝕んでいた。

1940年代前半のEU結成直後のイタリア陸軍は未だに第一次世界大戦直後に生産された豆戦車を機甲部隊の主力装備として使用されており、野戦砲は鈍重で使いづらい旧式の大型野戦砲しかなく、無線配備も僅かにしか行われておらず伝書鳩や伝令を主な通信手段としている状態であった。

兵員数についても、名目上(書類上)のイタリア王国軍兵士の総数は87万とフランス陸軍現役兵に匹敵するだけの兵力を抱えていたが、予算不足などによって実際の常備軍は20万名程度と欧州連合列強でも最下位の数しかおらず、中核である歩兵は国力や経済的理由からそのほとんどが自動車化さてておらず、徒歩部隊で、それ以外の兵科も予算不足や工業力の問題、さらに海軍を優先していたことから他国より劣った装備を有している場合が多かった。

当然ながら、オーストリア・ハンガリー帝国と言う明確な脅威を抱えている上でのこの惨状は同盟国であったドイツやソ連、フランスからしたら望ましいものではなく、1945年に三国主導のもとEU内にてイタリア軍再建委員会が発足され、イタリア陸軍の近代化に取りかかった。

他の欧州列強の積極的な支援を受けたイタリア陸軍はようやく軍隊の近代化に本格的に取り組み始めることができ、《Ⅵ号戦車》や《Ⅴ号駆逐戦車》などの機甲戦力や《キューベルワーゲン》などの輸送用車両、《M50》などの野戦砲、《StG44》、《MG42》などの銃器を初めとした兵器群がイタリア軍に提供された事から1950年代中頃には機甲師団1個、自動車化歩兵師団4個、歩兵師団7個、山岳師団4個を基幹とした軍に再編成することに成功していた。

それでも悪化していた経済や低い工業力などの国力の問題や海軍の維持もあって、平時の現役戦力は最大でもせいぜいが24万程度と列強最下位であることには変わらず、基本的にアルプス山脈での防衛がイタリア陸軍の基本戦略となっていた。

その他に、EU側としてはポーランドが15個師団、ルーマニアが6個師団、オランダが6個師団、ベルギーが4個師団、スペインが24個師団を保有しており、これらも有事の際には動員される手筈であった。

このように膨大な陸上戦力を有している欧州連合に対して、HTO側は数的には極めて不利な状態におかれていた。

197: ホワイトベアー :2019/11/26(火) 01:15:58 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
ハワイ条約機構軍の欧州方面の数的主力を担っているのは欧州において唯一ハワイ条約機構に加盟しているオーストリア帝国であった。

しかし、オーストリア帝国軍はナポレオン戦争や普墺戦争など歴史的に見ても敗北が目立つ軍隊であり前大戦においてはドイツへのいっそ華麗とも言える裏切りからあまり評価の良くない軍隊であった。

実際に大戦の前のオーストリア・ハンガリー帝国軍の軍事予算は列強中最低で、装備も小銃の3分の2近くは25年前の"超"旧式のものが主力であるなどと他の列強と比べると旧式化が目立っていた。人口に比しての兵力も年間の新規徴兵数は約10万人で人口比0.29%、ドイツの28万人(同0.47%)、ロシアの33万人(同0.35%)と比べ劣勢が明白、さらに多民族国家と言う事から使用言語も統一されていないと言う有り様であった。

しかし、1920年代末期におきた世界恐慌以降に事実上ではあるが日米の傘下に入ると、経済支援の対価として、日米主導の下にこうした問題の多い体制にようやくメスが入れられ、こうした問題、特に使用言語問題は一応ではあるが解決のめどが立っていった。

そして、およそ20年ほどの改革の成果もあって、1950年代にはようやくオーストリア帝国軍は一応は《他国と戦争ができる軍隊》に再編成する事に成功する。

また、この頃になると日米の投資の成果もあってオーストリア・ハンガリー帝国自体の工業力も向上しており、軍事改革に合わせた政治改革によって帝国内部の再編成(※3)も成果を挙げ、さらに周囲を敵国に囲まれている状況がオーストリア国民と言う新たな意識を育てた事によってオーストリア帝国は名実ともに再び列強としての実力を取り戻していた。

1950年代当時のオーストリア帝国陸軍は機甲師団8個、歩兵師団12個、山岳師団(軽歩兵)6個、空挺師団2個を機動運用の中核として保持しており、また、平時には内務省の隷下におかれているものの、榴弾砲や軍用ヘリコプター、果てには戦車やAPCなど陸軍の歩兵師団並の重装備を有している12個の国境警備師団も有事の際には国軍として動員され、国境の守りを固めることになっていた。

兵数は平時でも第一線部隊で総数50万人を越えており、戦時動員がかかれば70万が動員される予定である。

オーストリア帝国軍は国境線上に国境警備師団12個、山岳師団4個を国境警備として欧州連合加盟国の国境方面に分散して配備し、各4個師団を集めて編成した5つの軍団を機動運用の中核戦力としていた。

保有戦車数は旧式車両も含めれば5,800両もの戦車を保有しており、しかもその主力は従来の《三二式中戦車(和製M60)》ではなく、その後継車両として三菱重工が開発した《四五式主力戦車(和製レオパルトⅡ)》とそのライセンス生産型であるで《SK120A》あり、戦車の数こそ欧州二大陸軍大国である独ソより少ないものの、実質的な戦力は匹敵していた。また、主力戦車以外にも軽戦車として国産の《SK100》軽戦車を300両、日本製の三六式空挺戦車60両を保有しており、十分な機甲戦力を抱えていた。

こうした戦車の他に国産のAPCである《4K4FA》や日本から供与された二二式装甲兵員輸送車、4K4FA装甲兵員輸送車のIFV(歩兵戦闘車)バージョンである《4K4FA-G2》歩兵戦闘車など有力な装甲車も会わせて保有しており、各種自走砲などと合わせて強力な機甲部隊を構成していた。さらに、機甲部隊や機械化部隊以外の歩兵師団もその全てが完全な自動車化師団として編成しているなど、日米の手厚い支援もあって主要部隊のほとんどが広義の機械化されており、高い戦略的機動力を有していた。

198: ホワイトベアー :2019/11/26(火) 01:19:42 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
また、オーストリア帝国の後方を固める為にオスマン帝国陸軍欧州方面軍がバルカン半島内のオスマン帝国領に駐留しており、有事の際にはいつでもオーストリア帝国陸軍をバックアップできる体制を整えていた。

このオスマン帝国陸軍欧州方面軍は4個機甲軍団(機甲師団4個、歩兵師団4個 基幹)と軍直轄部隊から構成されている部隊であり、オスマン帝国陸軍の機甲戦力のおよそ半数が所属している重装部隊であり、さらに有事が近づけばアラビア方面軍などから増援が送られ、最大で9個軍団・18個師団にまで拡大される予定であった。

また、オーストリア帝国領内にはアメリカ陸軍のヨーロッパ駐留軍と日本陸軍オーストリア駐留軍も展開しており、これもEUにとっては無視することができない存在である。

アメリカ陸軍欧州駐留軍はアメリカ陸軍第7軍に所属する2個軍団・6個師団を基幹として構成されており、兵員数は平時で28万近い人間が所属していた。その内訳は機甲師団が2個、機械化歩兵師団が4個であり、1個軍規模でありながら、戦車数は2,400両とイタリア陸軍を越える程の数を抱えている。

なお、当初は第7軍の平時の兵員数を15万人程度に抑え、有事の際に本土から空輸で残りの兵士を送り込むことも検討されていたが、地理的な問題からアメリカ本土からオーストリアまで欧州連合の勢力圏を突破する必要があり、この案は廃案され、常時戦時動員状態の6個師団が配備される事になった。

その事もあってアメリカ陸軍欧州駐留軍は有事の際に本土からの早急な増援や補給を受けることは不可能であり、装備、弾薬、燃料など作戦活動に必要なものは全て欧州各地に保管・備蓄されていた。これは有事の際には本土からの援軍が来ない状況でも2個軍団が1年は殴り合える事が可能である量であった。

また、第7軍は規模が大きいのみならず配備されている装備も、戦車は1950年に調達が開始された《M46A1 パーシング(米製T80U)》で、随伴のIFVも採用されたばかりの《M2 パットン(米製BMP-3)》、さらに《AH-52 シャイアン(米製 Mi-28)》攻撃ヘリコプターや《M40 ダスター(米製2K22ツングースカ)》自走高射砲、日本からライセンス生産していた《M210 MLRS》など最新のものが多く配備されていた。

さらにアメリカ陸軍は有事の際に欧州に殴りこむ部隊として常時4個師団の重装備部隊と2個空挺師団、4個海兵師団がアメリカ本土にて即応体制で待機しており、もしもの時はこの部隊を使ってスペイン、英連邦が味方につけばフランスに第2戦線を構築する予定であった(オーストリアへの直接的な増援は最低でもスペインを押さえなければ無理と判断されていた)。

これは東海岸各所に配備されている装備を満載した強襲揚陸艦やドック型揚陸艦、ドック型輸送揚陸艦、事前集積船の群れによって大部隊の輸送を可能とし、さらにアメリカ海軍のおよそ90%の戦力という圧倒的な海軍力によって大西洋の制海権を確保できる体制を構築していたからこそできる所行であった。

また、この当時のアメリカ陸軍は上記の部隊を除いた状態でも国内に連邦軍のみで6個師団(州兵込みなら16個師団)が待機しており、アジアでの戦闘は基本的に同盟国である大日本帝国に任せる事になっていたこともあって、これも有事の際には欧州に派遣させる事も可能であった。

199: ホワイトベアー :2019/11/26(火) 01:21:28 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
日本が欧州に送り込んだ部隊はアメリカより規模こそ小さいものの、それでもオーストリアに1個機甲軍団(1個機甲師団、1個機械化歩兵師団基幹)、オスマン帝国バルカン領に1個機甲軍団と大規模部隊であり、有事の際にはアメリカ陸軍欧州駐留軍、オスマン帝国陸軍欧州方面軍、オーストリア帝国陸軍とともに戦線の防衛にあたる事になっていた。

当然ながら配備されている装備も《四五式主力戦車C型(レオパルトⅡA5相当)》や《四二式歩兵戦闘車(和製M2ブラッドレー)》、《四〇式回転翼攻撃機(和製AH-64)》、《三九式回転翼汎用機(和製UH-60)》、《四六式対空戦車(※5)》、《四〇式自走一二連装ロケット砲(和製M270)》など最新のハイテク兵器であり、極めて強力な戦闘能力を有していた。

しかし、これだけの兵力を集めたとしても師団数では欧州連合19に対してハワイ条約機構3と圧倒的に劣勢な状況であり、もしも欧州連合との戦争がおきれば、よくて欧州連合軍の侵攻を止めることで精一杯、悪ければ戦線を突破され、オーストリアを蹂躙されかねないというのがハワイ条約機構側の考えであった。

その為、日本軍やアメリカ軍は航空機搭載型や戦術核弾頭搭載巡航ミサイル、果てにはデイビー・クロケットなどの核無反動砲や280mm戦術核砲弾などの地上発射式戦術核を大量に欧州、とくにオーストリアに貯蔵しており、いざとなればオーストリア帝国国内で迫り来る欧州連合軍に大量の戦術核兵器を撃ち込む事もハワイ条約機構の選択肢に入っていた。

それほどまでにこの頃のハワイ条約機構は欧州連合軍の地上戦力を恐れていたのであった。

200: ホワイトベアー :2019/11/26(火) 01:22:02 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
以上になります。
wkiへの転載はOKです

208: ホワイトベアー :2019/11/26(火) 18:39:24 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
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ご指摘ありがとうございます

(※1)
当時の欧州連合とハワイ条約機構の前線はオーストリア・ハンガリー帝国との国境線であり、その意味ではフランスは欧州列強では数少ない安全な後方であった。

(※2)
本当の理由は悪化していた経済や海軍予算の増額によって大規模な陸軍を維持できないからである

(※4)
アウレル・ポポヴィッチが1906年に発表した『大オーストリア合衆国』とほぼ同じような改革。

(※5)
四五式主力戦車を基に

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最終更新:2021年09月27日 23:22