286: 700くらい :2019/12/22(日) 22:55:08 HOST:125-11-141-238.rev.home.ne.jp
雛菊の華 邂逅編
西暦が終わりC.E.が始まって早70年余り。この時代、宇宙空間の大規模構造物は基本的にラグランジュポイントに建設されていた。
特に地球圏では地球と月とのラグランジュポイントに多くが集中している。
これは、それらの地点が地球からも月からも常に動いていないように見えるから…というのも理由の一つなのだが。
ただ建設するだけなら、もっと良い軌道がある。例えば軌道離心率が高く、地球付近と月付近を通る軌道などがそうだろう。
周期を14日と18時間になるように調整された軌道などが代表的だ。
この場合、2週間と少しで一度地球に接近し、さらに29日と12時間(つまり月の満ち欠け)の周期で月に接近することになる。
双方への行き来が容易なこういう軌道に大規模構造物が少ないのは、まさにそれが原因だった。
地球からも月からもすぐにたどり着ける…それはつまり、有事の際に簡単に陥落しかねないからである。
特にプラントと地球との対立が顕在化した頃からはその傾向が顕著になり、ただでさえ少なかったコロニーや港は開戦前に放棄されていた。
住民は地球かプラントに去り、港は使えないようにされたうえで遺棄されていたのである。
そんな軌道にもプラント騒乱が終結して2年が経過したC.E.73には人が戻り始めている。
交通の便、というものは戦時ならともかく平時なら文句なしの立地なのだ。
ユーラシア連邦が所有するセルゲイもそんなコロニーの一つ。
放置されていたライフラインを復旧し、人員を送り込んで宇宙開拓の拠点として再度の繁栄を迎えつつあった。
そんなセルゲイの宇宙港…数々の民間船が身を寄せ合うそこに、場違いなシルエットが混じっている。
大洋連合軍が保有する最新鋭艦、エンドラが寄港していたのだ。
日を追うごとに大きくなってゆく地球。
力学的には落下しつつあるコロニーで羽を伸ばすものがいる中、いつまでも拘束されたままの少年は不貞腐れていた。
──────────
エンドラの簡素な室内。家具は最低限、娯楽設備や飾り気などは何一つない一室。
せめて何か暇つぶしの道具でもあればよかったのだろうが、ウィルもサラもそんなものは持っていなかった。
そもそもが着の身着のままでMSに搭乗して戦闘し、そのままエンドラで拘束されたのだから当然だが。
「なあウィル、ちょっと持ち上げてくれねえか?この通気口、頑張れば通れると思うんだよ」
「………」
針のむしろ、と言うのだろうか。サラは名前の印象に反して日系である。
そんな諺が脳裏に浮かんだが、ムシロなる物体が何なのかは知らない。
こんなくだらないことで偉そうに講釈を垂れる教師に、サラは良い感情がなかった。
同じような思いなのは親友もまた…なのだろうが。
「なあ、どうしたんだよウィル。エンドラに来てから不機嫌でさ、俺も気を使ってるんだぜ?」
何が悲しくて野郎の機嫌を取るような真似をしなければならないのだろうか。
初めは頭を打ったせいかと心配していたサラだが、流石に不信に感じてきたところだった。
「ああ…そうか」
それでもウィルはそう言ったきり黙りこくる。
さっきから、いや数日前からずっとこんな調子だった。
287: 700くらい :2019/12/22(日) 22:56:08 HOST:125-11-141-238.rev.home.ne.jp
せめて怒鳴り散らしてくれれば喧嘩でカタを就けられるものの、こう沈黙されてはどうしようもない。
いつもなら容赦なく殴り掛かってきそうなものなのだが…。
「ごめんなさい、ちょっといいかしら?」
ノックの音。一拍空けて、ホットミルクのような声音がくぐもって室内に聞こえてきた。
「あれ、間宮艦長?どうしたんですか急に」
相も変わらないウィルに代わってサラが扉を開けると、やはり予想通りの人影が。
烏の濡れ羽色を湛え、深い紺色を照明に輝かせる間宮艦長がそこにいた。
「ウィル君…と、サラさんだったかしら?ちょっと来てもらってもいい?」
「別に構いませんけど、っておいウィル!」
その呼び声に驚いたのか、ビクリと跳ね上がる。器用に胡坐をかいたまま一瞬浮き上がった。
低重力特有の現象に思わず吹き出しそうになる…先刻までの憤りも、どこかに行ってしまった。
「な、なんだ?っうぉ!間宮艦長!」
「ごめんなさい、聞きたいことがあって…とりあえずMSハンガーに案内するわね」
上着を羽織り、部屋に鍵をかけてもらう。
間宮艦長は今までも頻繁に顔を見せてくれたが、部屋の外に出してもらうのは食事の時だけだった。
「それで、聞きたいことって何なんだ?アイザック大尉みたいに説教か?」
「そんなことしないわよ…って大尉、またこの子たちに説教なんてしてるのね。後でキツく言っとかないと」
あれは緊急避難だったんだから、と言って憤慨する艦長。
「だったら…ブルームのことですか?」
「そうね、それもあるわ」
そう言いながら大きな扉を潜ると、ガラス板を挟んで数々のMS…ほとんどは量産型だが。
その中には切り落とされた片腕の修理をしているブルームの姿もあった。
僅かの戦闘だというのに表面には細かな傷が現れ、デュアルアイも心なしか歴戦の風格を滲ませているように見える。
「MST-02N、ブルーム。NT専用練習機…の、実戦投入型よ」
「NT専用機だって!?」
美貌の士官から告げられた衝撃の事実。サラは驚愕したが、ウィルの目に動揺は少ない。
やはり、といった面持ちで確認するように。
「こいつに乗ったら…いや、乗る前から頭の中に操作方法が浮かんできたんだ。あのMAから逃げてる時もどうしたらいいのかがすぐに分かった」
「バッドシステムよ。NTの感応波を受信してAIが自己判断、その場で取るべき操縦方法や戦闘機動をパイロットの脳内に直接伝達できるの」
ウィルの言に答えていく艦長…しかし彼が引っ掛かったのはそこではなかった。
288: 700くらい :2019/12/22(日) 22:57:15 HOST:125-11-141-238.rev.home.ne.jp
「NTの脳内に…?それってつまり、脳みそを弄られてるってことなのか?」
「そりゃあそうとも言えるかもしれないけど、感情とか記憶とかには干渉しないわよ?」
間宮は思わず苦笑する。確かに、理屈の上ではそういうのも可能だ。
バッドシステムは人の脳に干渉できるが、それはあくまで情報伝達のためにだけ。
やろうと思えばパイロットの精神や認識を弄って、無理やり戦わせるような機体も作れるだろうが…彼女にはそんな兵器が使い物になるとは思わなかった。
それに、大洋連合軍もそれほど馬鹿ではないだろう。パイロットによって制御される兵器ではなく、パイロットを制御する兵器。
そんなものは暴走状態にあるのと何も違わないのだから。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ…!つまり何か?ウィルはNTだったって言うのかよ」
「そうね…そうよ。はっきり言うと、彼は軍にとって有望なMSパイロット候補ってことなの」
状況の進展についていけていないサラだったが、艦長に退く気はない。
「その上で、ウィル・スプリンガー君。私は貴方に期待しているわ」
「期待…?それは、MSパイロットとしてってことか?」
「違うわ、NTとして。人類の革新として、貴方は人殺しじゃない何かが成せるはずよ」
私が言っても空しいだけでしょうけどね、と付け足して。
それでも求めてしまう。差し出したこの手を掴んでくれる誰かを。
「俺は…わからないけど」
軍人らしくない白魚のような手指、握られたカードキー。
少しの間逡巡して…ウィルはそれを手に取った。
「何かできることがあるなら、しなきゃいけない気がするから」
まだそれが何かは分からないけれど、きっとそこにあるのだろう。
自分にできる、自分にしかできないことが。
──────────
「なあ、ウィル」
「ん…なんだ?」
手元のカードキーを眺めるが、もやもやとした思いは晴れない。
自分は何に悩んでいるのかさえ分からない。
しかし何かをやらなければならない気はして、こうして考えていた。
「お前は、さ。どうするんだ?」
「どうするって何をだ?」
ベッド飛び降りて、サラ。
頭上から降ってくるが低重力環境のこの部屋ではさほど音も鳴らない。
「何って…色々だよ。軍に入るのかとか、NTのこととか」
後ろ手を組んで振り向く仕草が妙に似合っているなどと思いながら。
しかし、ウィルにだって答えはないのだ。
大体つい先週までハイスクールに通っていた身である。
そのころの一番の悩みといえば、親からのへそくりをどうやりくりするかでしかなかった。
「…考えてねーよ、んなこと」
「だよなあ…」
NTだとか人類の革新だとか言われても現実味がない。
お偉いさんが国だの人類だのの行く末を憂いたりNTパイロットがガンダムに乗って縦横無尽に活躍するのは遠い世界の出来事だった。
それが、たった数日で変わってしまった。
「将来のこととかさ。ずっと先だと思ってた。なんとなく就職して、なんとなく結婚して…それでどうにか生きていくんだってよ」
きっとそれがガキってことなんだろうと思う。
大人はどんな事にも答えを持ってて、カッチリとした生き方ができるのだろう。
それでも、いくら考えても答えは出ない。
やはり自分はまだガキということなのだろうか?
289: 700くらい :2019/12/22(日) 22:58:06 HOST:125-11-141-238.rev.home.ne.jp
「…あ~あ、考えてても無駄だなこりゃ。気分転換に外にでも出ねえか?」
「んなの出来たら苦労しないだろ。艦長はともかく、大尉がな」
アイザック大尉は変に厳しいところがある。その辺は艦長の方が柔軟なのだ。
しかし直訴の好機は既に逸してしまっている。
「おい坊主ども、いるか?」
そして今度の来客はノックもなしである。
このオッサンが艦の若手から嫌われている原因が分かろうものだ。
いつもこうして突拍子もなく現れるのに慣れ切っていたウィルはついさっきの思い付きを実行に移そうかと考えつく。
そうなれば後は簡単だ。行動に移すだけ。
「アイザック大尉、少し頼みたいことがあるんだが…いやありますが」
「なんだよ気持ち悪い。艦長に余計な事言われたらしいから話を聞きに来てみれば」
こういう場合、主導権を奪われてはおしまいだ。恥も外聞もなく土下座して頼み込んだ。
…重力が小さすぎて土下座の体勢のまま、ふわふわと床に落ちてしまったが。
「どうか俺たちを外出させてください!もう缶詰は限界なんです!」
「俺からもお願いします!アイザック大尉!」
空中でゆっくりと落下しながら土下座する男二人はさぞや異様な光景だったことだろう。
「お、おう…そこまで言うなら…」
若干引き気味の了承に、今さらのように羞恥心が沸き起こってきた。
勢いで押し切ったウィルとサラはその後ようやくエンドラから外に出る。
無機質な白い壁面と、宇宙港の表示板。
セルゲイ自体が地球に近づきつつあるせいか、民間船の発着予定時刻も差し迫っているようだった。
大洋連合の技術援助を受けたユーラシア連邦のコロニーもまたムンゾと似通ったものだった。
宇宙港の構造も、どことなく既視感が漂う。
「はぁーっ…やっと身体を伸ばせたぁ」
大きく深呼吸し、手足を伸ばす。解放された空間というのはそれだけで今の二人が望むものだった。
「俺から離れるなよ?一応、無罪放免ってわけじゃないんだからな」
「分かってるって!さてウィル、どこ行こうか!?」
ハンドルを掴みながらエレベーターに乗り込む。
別にどこに行きたいわけでもないが、とりあえず目についた看板を読み上げた。
「コロリョフ自然公園…だってよ。こことかいいんじゃねえの?」
観光地なのか針葉樹の生い茂った風景が映し出されている。
ヨーロッパ北部の自然を再現した公園というのはムンゾでも珍しい。
美味しそうな食事も、故郷のそれとは大きく違い異国情緒を醸し出していた。
「んじゃとりあえずそこ行くかっ」
身体を固定し、エレベーターを降下させる。
ゆっくりと近づく地上…身体が押し付けられる感覚が今は心地いい。
「アイザック大尉。俺、NTらしい」
「だろうな。ブルームを動かせた時点でそうだろうとは思ってたぞ」
サラは降りゆくエレベーターで窓に顔を押し付け、夢中で外を見ている…いや、そのふりをしているだけか。
変なところで気を利かせる親友に、思わず顔がほころぶ。
「だから、聞きたいんだ。大尉にとって…みんなにとってNTってなんなんだ?」
先週までのウィルならば淀みなく答えられたのだろう。
他人事らしい態度で、どうでもよさげに自分にとってのNTを。
しかし今のウィルにはもう何が何だかわからなかった。
どれだけ考えても実感は湧かず、何かをしなければいけない焦りはあるのに目的を見失っている。
290: 700くらい :2019/12/22(日) 22:59:04 HOST:125-11-141-238.rev.home.ne.jp
「…人間、だろうな」
人間。アイザック大尉はそう言った。
その言葉を心で咀嚼して、噛みしめてみる。
「人間…か」
「ああ。どんなに優れていても所詮は人間だ。OTに出来ないことが出来ても、それが救いにつながったりはしない」
遠い目で追憶しているのだろう大尉。その意識はきっと2年前に飛んでいる。
ウィルにとっての戦争はなかなか帰ってこない父と、日々余裕をなくしていく母だった。
大尉にとっての戦争はもっと違う意味があるのだろう。それをのぞき見ることはできないし、しようとも思わないが。
「サイコミュを動かせても、それで何十機もMSを落とせても、心は人と変わらない。耐えられるわけがなかったのさ。いろんな恨みとか憎しみとか、そんなのを聞き続けちまってりゃあな」
戦場神経症。他者と交感できるNTにとってはOTよりも身近なのかもしれない。
そしてそれは自分にとっても同様だ。
「NTのことを…」
「ああ。知ってたさ、全部な」
過去形で話された意味を理解できないウィルではない。
身体を揺さぶる加速度が収まり、すっかり慣れ親しんだものになった時。
黒い樹々がぽっかりと口を開ける闇に誘われながらアイザックはこちらを振り向いて言った。
「だから、お前はこっちに来るな。NTとして生きたって救いはないんだからな」
──────────
「うぉっ!このシチュー凄い美味いぞ!ウィル、一口飲んでみろよ!」
ちらり、とサラが流し目。こいつはわざとやっているのだろうか?
完全な女顔でこんな仕草をする意味を理解しているとは思えないが、気を使ってくれているのは確かなのだろう。
重苦しい空気が多少紛らわされたのを察し、ウィルも少し気分を変えることにした。
スプーンを口に運ぶと濃厚な香り、味わい。寒冷地が本拠のユーラシア連邦らしい料理に思えた。
ホクホクのジャガイモが口の中でとろけるのを感じる。
「おお、たしかに。こりゃ美味い」
「だろ?あっ大尉にはあげないぞ」
「坊主ども…いやいいけどよ」
一方アイザック大尉が頼んだのはコーヒーだけだ。せっかくだから何か食べたほうがいいのではないか?と思わなくもない。
「そこでむしろ奢るくらいの度量をみせねえからモテないんだよ、オッサン」
「カーッ!ケチな上司を持ってエンドラのMS隊も大変だなあおい!」
「よしその喧嘩買ったぞ。軍人が本気だしたらどうなるか教えてやる」
腕をまくり、晒したそこには筋骨隆々たる力の塊。
猿かと見まごうほどに毛が生えている…いや、多分こいつはゴリラか何かの親戚だろう。
「可哀そうに、野生が恋しいんだな…さあ森へお帰り。具体的にはこの公園に」
「いやそれじゃホームレスだろうが!ていうか俺を猿か何かとでも思ってんのか!」
そんな何気ないやりとり。思わず噴き出してしまったのは誰が最初だっただろうか。
291: 700くらい :2019/12/22(日) 22:59:35 HOST:125-11-141-238.rev.home.ne.jp
今日の天気予定は午後から雨が降るということで、観光地のここも人影があまりない。
まあ、そもそも今は一番来訪者が少ない時期でもあるのだ。掻き入れ時は地球に最接近する明日以降なのだろう。
ムンゾにも森はあったが、ここはまた違った風情がある。肌を刺す寒気、漏れ出す息は白く染まる。
樹々の隙間から除くのはリスか、それともウサギだろうか?
遠くで囀る小鳥もムンゾとは違った音色で歌い上げていた。
「あー…笑った。あ、そうだ大尉。追加で注文に行くけど、何かいるか?」
「ん、いやいい。さっき昼飯食ったからな」
コーヒーだけだったのはそれが理由か、と思いつつ足早に屋台に歩を進める。
上着を羽織ってもなお寒く、ウィルは身を抱えながらあまりの寒さに愚痴を吐いた。
「ったく、寒すぎるだろ…気象管理局は何考えてこんな寒さにしたんだよ」
ここはコロニーである以上、その天気はすべて管理されているはずである。
すなわち先ほどから厳しさを増す一方のこの寒気もまた誰かさんが余計な事を考えたせい、ということだ。
なんにしろ早くスープでも買って温まるしかない。
ようやく見えてきた屋台が砂漠のただなかのオアシスにすら思えた。
「おばちゃん、このスープくれ」
「はいよ…今日は寒いねえ」
「ほんとにな。セルゲイのお偉方は何考えてるんだか」
おたまで湯気の立ち上るスープを注げば良い香りが漂ってくる。
手渡されたそれで冷えた手を温めながら、立ち去ろうとしたのだが。
「天気予定を外れるなんて無能以外の何だってんだい…はいいらっしゃい、何にするね?」
「予定を外れる…?」
問いたかったが、店員の中年女性は次の客に取り掛かってしまっていた。
しかも調理に時間のかかるものを注文されたのか、火をかけてそちらに気を割いてしまっている。
ウィルは手元のスープを見て、すぐ傍にある東屋を見る。暖かくストーブを焚いて心地よさそうだ。
…まあいいか。
少しくらい外しても平気だろう。ここはストーブに当たりながらゆっくり飲んでいこうか。
「よ…っと。ん、ごめん」
誰もいないから寝そべろうかと思ったのだが。
残念ながら柱の陰に隠れた先客がいたようで、体勢を崩したところで彼女に気づいた。
「いい。気にしないで」
一目惚れ、というのは正確だったのだろうか?後から思い返したらそうでなかったかもしれない。
雪のように白い素肌、金色に濁った瞳。髪は枝毛が目立つものの、その本来の美しさが滲み出ているかのようだ。
背は、自分よりも少しだけ低いだろう。大きな眼が何かの感情を宿してウィルを射抜いていた。
「あ…その。飲むか?スープ」
「………」
僅かに首を傾げる。分かっていないのだろうか?と思ったのだが、どうやら杞憂だったようだ。
細い指で小さくコップを持ち、一口…二口。
「…っ!」
「はは、そんな一気に飲んだら熱いだろ。冷ましてからにしなよ」
292: 700くらい :2019/12/22(日) 23:00:13 HOST:125-11-141-238.rev.home.ne.jp
まるで水のように飲もうとしているのを見て熱いのが平気かとも思ったが、どうやら急ぎすぎただけらしい。
ストーブに当たっていただろうに血の気が薄いところを見ると、寒かったのだろう。
ウィルが一度受け取って息を吹きかける。少し冷めるが、仕方ない。
「ほら、これで飲んでみろよ。これで暖かいくらいに」
「あった…かい?わからない。冷たくない、ってこと?」
愕然。脳裏から色々な考えが消える。
暖かいのが分からない?まるでそんなものを食べたこともないかのような言い草じゃないか。
手を重ね、肌で触れ合う。自分も冷えているが、少女の体温は悲惨なほどに低かった。
「ほら、これが暖かいってことだ。わかるか?」
「うん…冷たくない。人間なのに、痛くない」
ウィルは己の顔が歪んでいくのを感じた。怒り?悲しみ?哀れみ?もしかしたら全部かもしれない。
そんな表情を見せたくなくて、顔をそらす。無理やり曇天に視線を移した。
「あ…雪が」
「あれは、冷たい。知ってる」
雪雲がこんこんと白い氷を振りまく。コロニーの大地が薄く化粧されていった。
暗い森の針葉樹にも雪が振り、黒と緑と白が視界を埋める。
「すごい雪だな。俺、初めてみたよ」
「私…は、見たことある。とても寒くて、誰もいない場所で」
ぽつぽつと零す少女は寒そうに震えている。すぐ傍の頭を見て、ウィルは自分の鈍感さを呪った。
薄汚れているように見える髪はただ洗っていないだけではない。土か埃のようなものが混じっていた。
それに無理やり荒らされたかのような跡…靴で踏みにじられた証拠だ。
そこでまた気づく。分かりにくいが、少女の体勢は横腹を庇うそれだ。
外見からではわかりにくいように痛めつけられている。顔や手足など、露出する部分には手を出されていないのだ。
「なあ、君。怪我してるみたいだけど」
「だめっ!あなた、にはっ関係ないっ」
だが、話だけでも聞こうとしても頑なに拒否されてしまう。
落ち着かせようと手を伸ばしても払いのけられるだけだった。
気だけが焦り、憂いは募る。冷静さが欠けていくのを感じる。
やっと見つけたと思ったのに。俺が、俺だけが出来ることを。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!俺は何も…っ」
「な…あ…ぁっ」
293: 700くらい :2019/12/22(日) 23:00:59 HOST:125-11-141-238.rev.home.ne.jp
そうして手と手が触れ合った瞬間、理解した。
──────────
逆巻く時間。列を成す空間。平行する宇宙を垣間見る。
遠いところに住むことになった。見送りに来てくれた男の子。
私の気持ちを分かってくれる素敵な子。
一緒にいるって約束したのに、私が破っちゃった。
あの時のお花も無くしちゃったのに…私が悪いのに。
やってきた家は豪華だったけれど、何もない空虚な牢獄だった。
下等な血が混ざった私なんて早くいなくなればいいって…みんなが噂してる。
戦争になってもそうだ。さっさと消えろって誰もが囁いて。
軍に逃げたけど、やっぱり私は役立たずだった。
捕まった。また引っ越し…今度は地球。
家とは呼びたくないあの場所では悪魔の巣窟と教えられてたけれど、それは正しかったみたい。
注射針を刺されて得体のしれない薬品を入れられたり、脳みそを弄られておかしな身体にされたり。
最近は薬を飲まないと苦しい。麻薬かもしれないけど、どうでもよかった。
ただ、昔のことが思い出せなくなるのだけが辛い。
さいしんのもびるあーまーにのれっておとなのひとがゆった。
いつもはとちゅうでおくすりがきれてくるしいけど…こんかいもくるしいけど。
でも、憎い。憎憎憎怒憎憎怒怒怒憎り。
めにみえるものぜんぶこわしたらほめられた。
こんど、このもびるあーまーのぶひんになってわたされるんだって
…闇の中で蹲る少女がいる。
俺が私に手を伸ばして、その手にはあの時の花があって、その花は…その花は。
──────────
「ぁぁああああっ!」
今度こそ思い切り突き放される。荒々しい呼吸。俺のかもしれない。
頭がこんがらがる。俺は誰だ?さっきの少女は…見覚えが。
「私はスノウ…スノウ・コア。違う、それだけは駄目だ!」
痛む頭を押さえて目を向ければ、彼女も混乱しているようだ。
スノウ・コア。ああ、だから部品なのか。クソッタレ!
いつの間にか零れていたスープが足を濡らすが、構うものか。
ふらつきながら立ち上がり、それでも彼女に手を伸ばそうと…。
『これをお聞きの皆さん。初めまして、もしくはお久しぶりです。我々はFLUU』
真昼を告げる鐘の音と共に、電子の声音がコロニー中に響いた。
こいつが…こいつかっ!
「アラン…あらん。いかなきゃ、さくせんが…はじまる」
FLU 2 U
『Uは2つです。お忘れなきよう…インフルエンザを、貴方達に。もちろん、S2のことです』
耳障りな音。邪魔をするな。俺はスノウを追わないといけないんだ。
コロニーの空調が狂ったような突風が吹雪を東屋に運び入れる。
いや、とうの昔に狂っていたんだろう。今日の天気予告は雨だった…断じて雪じゃなかったはずだ。
「やめろ、スノウ!そっちに行ったらだめだ…俺の手を取れ!」
『今日、貴方達に告げさせていただきたくこの場をお借りしました。すなわち…』
それでもスノウに俺の声は届かない。吹雪が、電子音が、憎しみと怒りの音が塗りつぶしやがる!
遠くから足音…はしない。感じるのは焦りの心。ああ、サラと大尉か。
だがこれじゃあ間に合わない。彼女を引き止めるには。
「スノウ…私はスノウ。もう、ウィルは追ってこないで」
「だめだ!約束しただろ、一緒にいるって!」
軍人として一応正規の教育を受けているスノウの方が回復は早い。
俺が立ち直る頃には、もう樹々の暗闇に身を投げ込んでいた。
『…プラント独立戦争の、再開をだ。薄汚いナチュラルどもめ』
憎しみの声が宇宙に響き渡る。
294: 700くらい :2019/12/22(日) 23:01:43 HOST:125-11-141-238.rev.home.ne.jp
以上です。次回本編完結予定です
設定に矛盾が出たらあれなので、このお話はパラレルということでお願いします
最終更新:2019年12月26日 12:46