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日墨ルート 暫定リベリア史概説
『カイロではスリと詐欺に気をつけろ。アディスアベバでは強盗とクスリに、そしてモンロビアでは死なないように気を付けろ』
日墨世界のある旅行者向けサイトより
リベリア共和国。
エジプト王国、エチオピア帝国と並んでアフリカの数少ない独立国であるこの国だが、
その歴史は1816年のアメリカ植民地協会の解放奴隷のアフリカへの帰還計画にまで遡る。
つまり、解放された奴隷たちを帰還の名の下にアフリカに入植されて行ったわけだが、
解放奴隷の多くはコンゴ系であり、当然ながら西アフリカにはなんの関わりもなかったのだが、
それでもリベリアは1847年に独立を達成したのだが、問題はその後だった。
独立後リベリアは米、サトウキビ、パーム油などの商品作物を輸出を増やすことで貧困から抜け出そうとしたが、
まるで上手くいかなかった。1871年にはイギリスから融資を取り付けようとした第5代大統領エドワード・ジェームズ・ロイが
死亡するといった事もあり状況は好転する事は無かった。しかし、その数年後意外な転機がリベリアに訪れることになる。
きっかけは、そのさらに10年ほど前にまで遡る。1860年米大統領選挙にて国家の分裂を望まない中間的な層の支持を集め当選した、
立憲連合党のジョン・ベル政権の打ち出した漸進的な奴隷開放政策による、奴隷から契約労働者制への移行だった。
事実上の奴隷制の存続とも言えるこの政策には北部には異論は多かったが戦争よりは多くの人間にとってはマシだった。
かくして、国家分裂の危機を乗り越えた
アメリカだったが、問題はその契約労働者たちの仕入れ先だった。
そこで、白羽の矢が立ったのがリベリア共和国だった。アメリカ出身者の多いリベリアならば、アメリカに馴染み易い人材が多く手に入るのでは無いかと、
そう期待されたのだった。一方リベリア側は別の思惑もあってアメリカの提案を飲む事にした。
当時、リベリアではアメリカからやって来た解放奴隷の子孫であるアメリコ・ライべリアンと現地部族の対立が激化しており、
その現地部族をアメリカへと契約労働者として棄民する事にしたのだった。一方、この事はリベリア政治にも安定をもたらし、
現在でも共和党と真正ホイッグ党の2大政党制が続いている。しかし、棄民された現地部族の犠牲は大きく、メキシコへの亡命者も多く生み出している。
とはいえ、問題は多くあれど安定的な政権を確立できた事は大きく、アメリカからの投資によって経済的に発展することになる。
また、ゴムのプランテーションを作ることによりアメリカのゴム供給地として、ますますアメリカからの援助は拡大した。
第二次世界大戦後にアメリカがミッテルオイローパ陣営寄りの動きを見せ始めると、リベリアはまた別の役割を担うことになる。
アメリカへの貴重なダイヤモンド供給地でもあったリベリアにおいてその動きを見極める事でアメリカの国力を把握しようという活動が、
イギリス諜報部によって始まった。これはブラジル戦争中にブラジル戦争への列強諸国の介入を望まなかったアメリカが、
アメリカ国内の情報網の締め上げにかかったことから、その対策として英領シエラレオネの隣国であり、警戒も手薄なリベリアを利用しようとしたものだった。
こうして、アメリカ情報部が気づいた時には手の打ちようがないほどに情報網張り巡らされていた。リベリアの側でもイギリス、アメリカのみならず、
利益のためにはドイツ、フランス、ロシア、オランダなど各国に伝手を作るのが当たり前となり、気付いた時には魔窟、としか言いようの無い状態になっていた。
この状況には、同じくアフリカの独立国であり、日墨仏の支援とスエズ運河という地理的な重要性によって発展したエジプトや、
ユダヤ資本の恩恵を受け、ときに彼らと対立をしながら宇宙開発をおこなえるまでに成長したエチオピアとは違う異質な方向性であり、
『アフリカの暗黒面』と呼ばれながら今日もモンロビアは怪しい輝きをはなっている。
721: 透過の人 :2020/02/13(木) 19:57:15 HOST:softbank126077075064.bbtec.net
投下終了です。
最終更新:2020年02月14日 18:38