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日墨ルート 砂漠の鷲
エジプト王国はテュルク・アラブと並びアラブ世界を代表する国家である。
そんなエジプトと日墨の繋がりは1850年の幕府による嘉永遣欧使節がヨーロッパ諸国歴訪の帰路に、エジプト王国に立ち寄り、第3代総督アッバース・パシャの歓待を受けた事に始まる。
反動的な政策によりヨーロッパ諸国との軋轢が増えつつあったアッバース・パシャにとっては、献上された日本大陸の品々や何よりもヨーロッパ人の助けなしに蒸気船を建造し、世界一周を成し遂げることのできる日本の技術力は、とても、魅力的なものに映り、日本人の移民や顧問の派遣を奨励した他、日墨埃三国合弁会社にスエズ運河の建設許可を与え、また、彼自身も日本より招いた顧問から剣術を指南されていて、54年の暗殺未遂事件では徳川家慶から送られた刀で、刺客を返り討ちにしている。
これによりにアッバース・パシャは更に日本人顧問を重用する様になるのだが、翌年には病死してしまった。但しこれには毒殺説もある。

後を継いだのが名君として名高いサイード・パシャだが家庭教師のレセップスのおかげでかなりヨーロッパ、特にフランス贔屓に育っていたため、日墨と関係は微妙なものに成り始める。
この頃になるとナポレオン三世の後押しを受けたフランス顧問団が中心になって日墨の排除に動き始め、サイード・パシャもこれに従って日墨顧問団排除に動き出すのだが、そこにフランスの勢力伸張をよしとしないイギリスが介入し、三つ巴の争いを繰り広げた。結局、サイード・パシャは政争の心労がもとで40の若さで病死してしまう。
つづく第5代総督(後に副王に昇格)イスマイル・ パシャは3者の争いをうまく利用しつつ近代化を成し遂げていく、更にドイツ統一とルクセンブルク問題による英仏間の対立激化(注1 )によりフランスが日本に対し妥協する姿勢を見せ始めたことから、途中、繊維産業の失敗から運河のエジプト保有株のフランスへの売却という事件に見舞われながらも、エジプトからのイギリス資本の一時的な駆逐という形で三者の争いは終結した。

その後もエジプトは順調に改革を進め、1881年にイギリスの支援により勃発したウラービー革命(注2)を契機に責任内閣制を導入するなど、政治的にも徐々に安定していき、また、国章に従来のものにサラディンの鷲の意匠を加えるなど土着化も進んだ。。
1912年にイタリアのトリポリタニア侵攻によって始まった伊土戦争においては義勇軍を派遣し、列強の1国とされていたイタリア相手に奮戦した事で、国際的な威信も高まっていった。また、この時エジプトではトリポリタニアに展開する自国義勇軍以外にも、オスマン帝国軍にも武器弾薬を供給していたのだが、備蓄していた弾薬が枯渇寸前になった事から、戦後には、兵器国産化などの重工業分野の育成を積極的に図る事になる。
1914年に第一次世界大戦が起こるとエジプトは親連合国側の中立国として軍需品を主にフランスに対して売りさばいた。
エジプト経済はそれにより、大いに発展したのだが大戦後には戦後不況に襲われることになった。

737: 透過の人 :2020/02/15(土) 02:45:33 HOST:softbank126077075064.bbtec.net

そして、戦後不況や難民の流入による社会不安の増大に伴って勢力を伸ばしたのがムスリム同胞団だった。
彼らはアラビア半島において蜂起したフサイン・イブン・アリーの思想の流れを組むイスラーム社会主義を掲げており、与党ワフド党が引き起こしたカネー・スキャンダル(注3)によって追い詰められたのを利用して支持を伸ばしていた。 
これに対し政府は戒厳令を布告し、ムスリム同胞団関係者を逮捕すると共に、貧困層を対象にした社会保障の拡充を図った。

第2次世界大戦でも中立を保ったエジプトはさらに発展し、戦後にはカッターラ低地開発プロジェクトに着手した。
これは、カッターラ低地に地中海から水を引いて発電用水を確保し、低地全体を湿潤化させるという大計画で、土木技術に定評のある日墨、サハラ海プロジェクトの試金石にしたいフランス、そして、世界の銀行ことイギリスが参入した。
これを気にイギリスとの関係を改善したエジプトはさらなる発展を遂げることになり、1960年代には日墨のロケットを利用した形にはなるが、テュルク・アラブより早く宇宙に人間を送り込んだ。現在では宇宙開発においては後発のテュルク・アラブ、そして、エチオピアに大きく水を開けられたが、アメリカの支援を受けながらも国産主力戦車エル・キビール(注5)を開発するなど、その技術力は決して低くはない。
また、1930年代から始まった福祉政策によって、北欧諸国と並び福祉国家と称されるまでになっている。

注1 こうした英仏の対立は1870年のロンドン会議によるドイツ帝国の成立とその後のドイツによる親露政策により終結し、一転して協調に転じる事になる。
注2 陸軍大佐であったアフマド・ウラービーがアラブ系エジプト人に対する差別的な待遇改善や国会開設を求めて起こしたクーデター事件。
これを期にエジプトでは初めてとなる議会選挙が行われたことから、エジプト議会の父ともいわれ、現在でもウラービーは尊敬されている。
なお、エジプトを勢力圏にしようとしてクーデターを支援したイギリスは得るものが無かったばかりかエジプト人から反感を買った。
注3 戦艦イブラーヒーム・パシャの建造に関してフランスのカネー社から多額の賄賂を受け取ったとされる事件。このスキャンダルのせいで10以上も建造が遅延した。
注4 エジプト初の国産主力戦車。オスマン帝国のアルタイ、エチエピア、北セミエン共同開発のメルカヴァにも対抗可能だという。

738: 透過の人 :2020/02/15(土) 02:46:51 HOST:softbank126077075064.bbtec.net
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次はエチオピアにしようかな?

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最終更新:2020年02月19日 21:51