531: 加賀 :2020/03/08(日) 14:33:06 HOST:softbank126209030131.bbtec.net
「遅くなって申し訳ない。私が気が付いたのはノモンハンの事後処理中だった」
神楽坂にある小さな料亭で集まった橋本達。その今回の中心は新たに此方側に舞い戻った杉山元だった。
「杉山さん……ッ」
橋本は涙を流しながら杉山と握手をする。
「樺太の時は申し訳ありませんでした。私の艦隊がもう少し早く樺太に来ていたら……」
「橋本さん、歴史にifはありません。あの時は彼処が私の死に場所だったんですよ」
涙を流しながら謝る橋本に杉山はにこやかに話す。
「それに私は今回、早くに憑依したから今度こそ日本の戦車を活躍させる場所を用意する使命があります」
「頼みます杉山さん」
「はい」
橋本の言葉に杉山は力強く頷いたのである。この時、杉山は軍事参議官であり軍事参議院を通して陛下に上奏した。
「此度の戦、関東軍司令部が参謀本部の命令を無視して暴走をしたのが全ての始まりであります。よって関東軍司令部は全て一新する必要があります。また、軍を指揮した者は厳重に処罰するべきです。此度の戦、末端の兵士や佐官級に責任はありません」
杉山が態度を変えた主張に陛下は驚きつつも杉山の上奏にはほぼ賛同していた。このため沢田茂参謀本部次長が考案した人事処分案は修正を受けて再度上奏、陛下も認可したのである。
処分者(将官)
関東軍司令官 植田大将 解任 予備役
同参謀長 磯谷中将 解任 予備役
第六軍司令官 萩州中将 予備役
第23師団長 小松原中将 予備役。暴行事件で入院中に病死
他史実通り。
なお、参謀の中で一人だけ銃殺刑に処されたのがいた。つじーんこと辻政信である。参謀の末席だった辻がノモンハン戦を主導し、事実上の関東軍司令官とまで言われた事情は参謀本部も承知していた。だが辻を擁護する笠原少将や板垣元陸相らがいる事で辻が一旦は救われると思われたが杉山は容赦しなかった。
「歩兵連隊長やらに自決勧告を行い自決させのうのうと生きているのはそれでも陸軍軍人のすべき事ではない」
陛下の名の下で処罰は参謀や将官級と宣言していたが、それでも歩兵第72連隊長の酒井大佐ら数名は責任を感じて自決していた。なお、第23師団捜索隊の井置中佐も当初は自決をしようとしていたがフイ高地で戦闘を共にした玉田大佐の説得で自決をやめている者もいる。ちなみに井置中佐が自決しなかった事に小松原中将は玉田大佐の下に怒鳴りこんだが逆に玉田大佐が小松原中将に右ストレートを叩き込み「自分の不味い指導を人に押し付けるんじゃねぇぞこの屑野郎!!」と全治一ヶ月の病院送りにして杉山の頭を悩ませている。
またこの暴行事件に関してはノモンハン事件に参加した将兵共々は玉田大佐の擁護に回っていた。
「玉田大佐のチハ車がいなかったら俺達はノモンハンで戦死していたぞ!!」
「神様仏様チハ様だな」
「てかチニ車を生産の許可出した奴が死んでこいよな」
実際にチニ車を生産させた某大佐は第二次ノモンハン事件で名誉の戦死をしており彼等を溜飲は下げさせたがチハ車の増産と改良型の開発が直ぐに開始された。この時、チハの弱点は砲弾の定数と大型の空冷ディーゼルエンジンだった。空冷ディーゼルエンジンについては直ぐに目処がつきそうだった。
和製T-34を作ろうとして追い出された技術者達が民間企業に行っていた事もあり統制型百式発動機は昭和15年から量産の予定だった。この百式発動機をチハ改に搭載する予定である。
また、ノモンハンは航空戦にも多大な影響を及ぼしていた。
「次期新型戦闘機には強力な航空無線機を搭載する事を具申する。また、防弾装備を搭載し7.7ミリ以上の機銃を搭載する事も具申する」
ノモンハンで航空戦を展開した第三連合航空隊からの報告で敵戦闘機ーーI-16にはパイロットを守る装甲板が取り付けられておりまた味方が連携を取ろうにも無線機が弱いのではどうにもならなかったのである。
「三菱が開発中の新型戦闘機については今言った具申点を考慮して開発中であります」
532: 加賀 :2020/03/08(日) 14:34:19 HOST:softbank126209030131.bbtec.net
航本の会議に参加した堀越二朗はそう断言した。堀越が開発していた十二試戦闘機は防弾装備、強力な航空無線機を搭載を当初から考慮していたのである。そしてそのための栄発動機の改良型、水メタノール噴射装置付を搭載した栄三二型が栄
シリーズにおける零戦が堀越の第一の通過点だった。
更に海軍は専用偵察機の開発を推し進める事になる。ノモンハンで陸軍航空隊の九七式司令部偵察機を筆頭に活躍していた。高低差に乏しく目立つランドマークもないノモンハンの地形にあっては航空偵察は重要であり報告を受けた近藤達も海軍独自の艦隊偵察機の保有を主張する事になる。
この主張を受けて海軍は中島飛行機に艦偵の開発ーー十五試艦上偵察機ーー後の『彩雲』開発に取り組む事になる。
そして1939年9月1日、ナチス・ドイツはポーランドへ侵攻を開始した。第二次世界大戦の勃発である。
「遂に始まったか……」
「我々はまだ二年の猶予はありますが何処までやれるかが問題です」
10月下旬に集まった会合で橋本らは話し合う。
「是が非でも海上護衛総隊の創設は必要です」
「ん。宮様には強く具申しているが……中々頷かん強情者だよ」
10月21日に軍令部次長に就任した近藤は、就任当初から宮様に海上護衛総隊の創設を強く具申していた。
「日米開戦、やるなら大いに結構。だがその前に南方から内地へ運ぶ物資を護衛する護衛艦隊が数個必要です」
「しかしね……君が主張する艦艇を根刮ぎ取られては艦隊も活動出来んよ」
近藤は海上護衛総隊創設に三個水雷戦隊の導入を主張していた。
「私が主張するのは三、五、六水戦です。つまりは旧式艦艇です。それくらいの艦艇を投入しないと船団は護衛出来ません。第一次大戦時、地中海の二特は何の為に派遣されたのですか?」
「……新見君のかね?」
「はい、新見少将が折角纏めてくれた報告書を我々は彼を異端児扱いしてこの様です」
新型のソナーや爆雷は以前開発中だった。
「……分かった。艦艇については一旦は待ってもらいたい。GFと協議する必要がある。だが司令部については先に創設しよう」
「御英断、感謝します」
宮様の言葉に近藤は頭を下げたのである。1939年12月1日付で横須賀鎮守府の一角を借りて海上護衛総司令部が発足したのである。司令長官には第三遣支艦隊司令長官の野村中将が兼任する事となった。三遣支艦隊は十二戦隊と21水雷隊を率いていたので一旦はこの形となったのである。
そして翌年、1940年の幕が開けた。この頃から対空演習の機会が増やされ各艦艇の艦長達は航空機の有効性とその対処に苦心する事になる。
「『筑摩』に25ミリの単装か。良いじゃないか」
『筑摩』艦長に就任していた橋本は対空火器の増設として25ミリ単装機銃の開発を具申していた。近藤らも対空火器ーー特にスウェーデンのボフォース40ミリ機銃の取得を目指していた。だが、この行動に目をつけたのがイギリスだった。ワシントン・ロンドン海軍条約から撤退した日本を敵と認識して取得交渉を妨害、結局は物別れとさせる事に成功させるのである。
「クソ、腹黒紳士め」
「やはりマレー戦線で捕獲するしかないですか」
「陸さんはラインメタルの37ミリをライセンス生産してますけど、それにしますか?」
「いや、40ミリのが有効だからな。そっちしかあるまい。一先ずは25ミリの単装を搭載して航空機の妨害に徹する」
7月15日、大陸戦線の第二連合航空隊にある戦闘機13機が進出した。
「こいつが三菱の最新鋭戦闘機か」
横山保大尉と進藤三郎大尉は送られてきた戦闘機ーー十二試艦上戦闘機を見つめる。
「美しい機体だな」
「あぁ。こいつで中国空軍機を撃滅してやる」
二人は意気揚々と頷きあったのである。
533: 加賀 :2020/03/08(日) 14:36:57 HOST:softbank126209030131.bbtec.net
- つじーん、満州に響く銃声
- 玉田、殴る。玉田はこれが原因で戦車学校に一時的に左遷
- 彩雲、開発へ
- 護衛総隊創設
- 零戦、大陸へ
ちなみにこの零戦は史実二二型です
最終更新:2020年03月15日 18:38