890: yukikaze :2020/03/21(土) 18:03:54 HOST:p603078-ipngn200412kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
艦これが悲惨な状況になっているので気分転換に投下。
おのれライミー・・・

亜1号型原子力潜水艦(1960年の命名規則改正後は『扶桑』型原子力潜水艦)

排水量  2,980t
全長 100m
最大幅   8.0m
吃水 6.2m
機関 艦本式特加圧水型原子炉1基、蒸気タービン2基、ディーゼル4基
出力 17,000hp(原子炉)、1,680hp(ディーゼル)
最大速力 水上速力20.0kt 水中速力25.0kt
航続距離 15kt/120,000浬
安全深度 240m
乗員  240名
兵装   533mm魚雷発射管 6基
同型艦  なし

(解説)
日本海軍が戦争終了間際に完成させた世界最初の原子力潜水艦。
海軍の秘匿名称は『甲標的』。就役後は『潜特型』と呼称されることになる。

元々本艦の建造が計画されたのは、海軍とは関係のないところから始まった。
1930年代の日本の石油供給地帯は、ロシア共和国、北樺太、アメリカ合衆国、オランダ領東インドであった。
これにより日本の経済成長は担保されていたものの、一方で、北樺太以外は友好国とはいえ、他国に主エネルギーの供給を依存しているという問題があった。
特に1930年代は、イギリスとの関係は、決していいとはいえず、オーストラリアからの鉄鉱石やボーキサイトの輸入は足元を見られるなど、資源外交の厳しさに苦労している状況であった。

そのため、経済産業省及び科学技術省は、次世代のエネルギー動力についての研究を継続して行っていたのだが、そんな彼らが目をつけていたのが、理化学研究所が研究を進めていた原子力機関であった。(史実と違い逆行者による知識や金があったこと、リーゼ・マイトナーを招聘できたことから、原子力技術に対して他国より一歩リードしていた。)

この時、経済産業省と科学技術省は、理化学研究所に出資して、1939年には茨城県東海村において、初の実験原子炉である『JRR-1』を完成。
これにより、原子炉を利用した各種の実験や技術者の訓練が飛躍的に進み、原子力発電の実現が本格化されるはずであった。

なぜ『だった』かというと、ここで経済産業省と科学技術省のマウント取りが発生したからに他ならない。
原子力発電プラントを新たなる輸出のタネ(&天下り先)と考える経済産業省と、商業性よりも発電効率の向上に力を入れていた科学技術省との間で真っ向から意見が対立。
科学技術省の肩を持った理研に腹を立てた経済産業省が、日本原子力研究所を創設したことが止めを刺して、日本の原子力政策は暗礁に乗り上げることになる。

この事態に、当時の宰相であった大野秀文(治長流大野家当主。憂鬱近衛)は、完全に呆れ果てた。
戦時中且つ日本の新たなエネルギー源の確保という重要事項において、省庁内での利権争いという愚行をしでかしていることは、彼にとっては我慢の出来ないものであった。
結果的に、日本原子力研究所は、国立研究開発法人日本原子力研究開発機構として、内閣府に召し上げられる一方で、理化学研究所も、原子力部門を日本原子力開発機構に吸収されるという喧嘩両成敗の沙汰を受けることになる。

大野がこれほどまでに強硬な手段を取ったのが、『JRR-1』が黒鉛炉であり、核兵器の材料となる兵器級プルトニウムの生成が容易であり、安全保障対策上問題があったためであるが、結果的に日本では、核兵器用プルトニウム生成用の2基(瑞穂半島と東海村)を除けば、軽水炉を主体とした原子炉の開発に舵を進めることになる(なお経済産業省は黒鉛炉を主軸とする予定だったのに対し、科学技術省は高速増殖炉の開発であった)のだが、ここで問題となったのが、これまでの対立によって、日本原子力開発機構が開発の音頭を主体的にとるには時間がかかるというものであった。
何しろ昨日まで対立した面々が一緒に働くことになるのである。
さあ仲良くしましょうとはとても言えないのも事実であった。

そうなると、日本原子力開発機構が内部対立を抑えるだけの錦の御旗が必要であった。
そこで大野が白羽の矢を立てたのが、日本でも有数の権威を持つ海軍であった。
大野の考えとしては、海軍艦政本部を主体とし、日本原子力開発機構を下請けとすることによって海軍という外圧のもとに、同機構にショック療法を与えようとしたのである。
海軍にしてみればいい迷惑であった。

さて、この大野の企みに対し、山本兵部大臣は内心小躍りすることになる。
逆行者である彼にしてみれば、戦時のどさくさによって、原子力潜水艦を得ることができる絶好の機会であり、ひいては核抑止力を海軍が牛耳れることになるのである。
なんだかんだ言って古巣に愛着を持っている山本は、首相の要請を快諾するとともに、艦政本部に対して、実験艦として原子力潜水艦1隻の設計を進めるように命じることになる。

891: yukikaze :2020/03/21(土) 18:04:46 HOST:p603078-ipngn200412kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
以下、本艦の特徴について解説する。

本艦の船体設計は、巡洋潜水艦四型の設計を母体としており、船型・電気装置・機械構成などを大幅に流用している。
一部には、設計が進んでいた巡洋潜水艦五型(史実バーベル級潜水艦)の要素も取り入れられることになる。
最大潜航深度は、従来の通常動力型潜水艦と比して格段に大きく設定されたことから、船体構造材として新素材が必要となり、降伏耐力60kgf/mm2の新型高張力鋼が採用されている。
もっとも、同素材は、流石に量産するには時期尚早であり、安定した供給ができるのは1950年代まで待つ必要があった。
同素材採用により、公試での最大潜航深度は310メートルに達したが、これは当時の軍用潜水艦の世界記録であった。

構造様式は従来どおりの完全複殻式が踏襲された。本艦では、9個の区画に分類され、約30パーセントの予備浮力が確保されたが、これは、1区画にくわえてバラストタンク2個が浸水しても、艦の浮力を確保することができるということを意味していた。
このことは、後に本級で経験した事故において、艦の生還に貢献することになる。

機関については、日本最初の加圧水型原子炉を搭載している。
沸騰水型原子炉 (BWR) のようにタービン建屋を遮蔽する必要が無く、タービン・復水器が汚染されにくいため、保守時の安全性でも有利であるが、蒸気発生器という沸騰水型原子炉にはない複雑に配管がからみ合った熱交換器や必然的に増えるポンプや配管類の保守性や安全性が、別に考慮されることになる。
実際に、蒸気発生器のトラブルは、就役以降日常茶飯事であり、そのために日本海軍においては、偏執的と言っていいレベルのマニュアルを作成することになる。

本級の最大の利点は「潜航可能な船(submergible ship)」ではなく、水中活動をこそ常態とする「真の潜水艦(submarine)」への進化を遂げたことであろう。
実際、連続60日の潜航持続可能な原潜用空調システムを備えたことによって、本級は、これまでの潜水艦とは別次元のステージに立つことになる。

本級は、戦争終結間際の1945年1月に就役したのだが、就役までの日本海軍の情報秘匿は、J級戦艦就役時に勝るほどの厳しさであり、ある佐官が宴席でうっかり本級のことを口走った際には、翌日には問答無用で僻地に飛ばされた挙句、退役時まで階級据え置き且つ監視付きという処罰を受けている。
実際、本級が公表されたのは、ある程度データを集積できた1947年以降であり、艦長や乗組員もその間は一切、口外厳禁であった。(乗務員が、係累の類がほとんどいない者だけ選抜されるほど制限されたほど)

本級は初期故障や騒音問題に悩まされることになったものの、本級の経験があったがゆえに、日本の原子力潜水艦が発展したのも事実である。
その為か、本級は、海軍の潜水艦の命名規則が改訂(原潜が旧国名、通常型は〇潮または〇波)した際には、『扶桑』の名前が付けられることになる。

本級は1980年に老朽化により練習潜水艦としても退役するが、潜水艦閥の懇願により、原潜基地のある大泊に『鉄のクジラ館』として、陸揚げされたのち、一般公開されることになる。


893: yukikaze :2020/03/21(土) 18:17:45 HOST:p603078-ipngn200412kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
以上、簡単だけど投下終了。

ソ連のノヴェンバー級をモチーフにして幾分スペックダウンした代物。
こんなものを1945年に繰り出すなと各国海軍関係者はキレているでしょう。
(何しろ史実よりも就役までに14年も早い。)

最初はノーチラス作る予定でしたが、それだとまあ何のひねりもないんでネタとして経済産業省と科学技術省の仁義なきマウント合戦を入れることに。
史実では正力松太郎という怪物によって決着つきましたが、ここでは海軍の原子力機関開発という錦の御旗によって、日本の原子炉の流れが確定することに。

ちなみに米ソがプルトニウム生成のために黒鉛炉生産に狂奔している中、日本はこの時のアドバンテージを利用して、軽水炉開発にアドバンテージを持つことになり東芝&三菱、日立&越山の2グループが、軽水炉市場をリードすることになります。
(これにアメリカのWHとGEが、4姉妹として世界の8割以上を牛耳っています。)

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最終更新:2020年03月25日 18:47