952: yukikaze :2020/06/21(日) 16:40:16 HOST:p343111-ipngn200407kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
乙です。こちらも生存報告を込めてやっつけで投稿開始。コロナがらみの仕事は鬱。
以前「日本tueeeee」だけじゃつまらんとかいう意見もあったんで、豊臣夢幻会世界で日本側の失敗を題材に。なお、とにかくクソ長いです。

第二次欧州戦争における日本海軍の戦備計画とその破綻について


第一章 第三次海軍軍備補充計画(マル3計画)が求めるもの

1936年にワシントン軍縮条約及びロンドン軍縮条約の効力が停止されたことで世界は再び海軍拡張時代へと足を進めることになった。

後に『ネイビーカーニバル』と呼ばれることになるこの状況に対し、心の底から楽しんでいたのがアメリカ海軍だったのに対し、日本海軍はと言えば、ありがた迷惑の風潮が色濃かった。

無論、彼らにしても海軍の拡張は、必然的に大型艦の艦長ポスト等が増えることになり利益になるのは事実であるのだが、仮想敵国であるイギリス海軍の戦力強化や、同盟国とはいえアメリカ海軍がその経済力に見合った大海軍を建造したことによるミリタリーバランスの崩壊の危険性を考えれば、無邪気に喜ぶことなどできる筈もなかったし、そもそも野放図な海軍拡張そのものが物理的に不可能であった。

何故か? それは海軍において慢性的な問題とされている士官の供給問題であった。
海軍における士官の供給元は、基本的には海軍兵学校(兵部省直轄の『国防軍士官学校』で2年間共通教育を学んだ後、海軍兵学校または陸軍士官学校で3年間専門教育を受けることになる。なお、一般大学からの編入も認められるが、兵学校及び士官学校での教育は22歳を超えたものは原則不可である。)あるいは、一般大学における予備役将校訓練課程出身者であるが、当然のことながら、平時の海軍の士官を占めるのは兵学校出身者である。
そして、日本海軍の人事政策では、兵学校出身者は特別の事情がない限り、大佐まで昇進させる方針を採っていたことから、軽々しく兵学校学生の定数を増やすことができないという根本的な問題を抱えていた。

そのため、いざ海軍を大拡張させようにも、艦を操るべき士官が足りず、駆逐艦以下の艦長ポストを下げるなどしても焼け石に水であった(この問題は、第二次欧州大戦中も日本海軍を悩ます問題となり、日露戦争後に、アメリカに倣って兵機一系化改正がなされていなかったら、更に酷くなっていたと言われている。)。

そうしたことから、海軍としては、士官の数を横目に見ながら(なにしろ海軍は、水上艦艇だけでなく、基地航空艦隊の拡充なども必要とされていたのだ)、無理のない範囲での海軍拡張を進めることになる。

さて、第三次海軍軍備補充計画(以下「マル3計画」と表記する。)の中身を説明する前に、その前提条件として、当時の海軍ドクトリン及び海軍戦力について説明していきたいと思う。
ここが理解できていないと、「マル3計画」の求めるものが理解できないからだ。

この時期の日本海軍のドクトリンについては「航空戦力を主戦力とし、水上艦艇は、航空攻撃で打撃を受けた敵部隊の被害を拡大させる」とされている。
具体的には蒼龍型空母4隻を中核とした空母機動艦隊&基地航空艦隊の航空攻撃により打撃を受けた敵部隊に対し、航空攻撃中に距離を詰めた我が方の水上艦艇による追撃戦という流れになるのだが、このドクトリンが成功するには以下の要素が必要とされる。

1 敵部隊より優勢な航空戦力
2 敵の航空攻撃を受けてもなお、追撃可能な水上艦艇戦力の保持

1も2も当然の帰結であった。
そもそも航空決戦で敗れ去ってしまえばどうにもならないし、仮に航空決戦で勝ったとしても追撃戦を行うべき水上艦艇が航空決戦で消耗しきって、追撃戦ができない状況になれば意味がない(なお、大前提として「敵の動きを的確にとらえる」ことが必要とされているが、ここでは重陸上攻撃機及び潜水艦等による索敵、および各種レーダーの開発が重視されていた。)。

953: yukikaze :2020/06/21(日) 16:41:23 HOST:p343111-ipngn200407kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
ではここで、この時期の帝国海軍の戦力について列挙してみよう。
マル2計画で建造中の艦艇を含めた場合、以下の通りとなる。

戦艦  ・・・12隻
正規空母・・・4隻
軽空母 ・・・2隻
装甲巡洋艦・・2隻
重巡洋艦・・・12隻
軽巡洋艦・・・8隻
駆逐艦 ・・・74隻
潜水艦 ・・・42隻
基地航空艦隊・・・1個

東アジア海域の海軍戦力として考えれば、まず一級品と呼べる戦力であった。
この戦力に打ち勝てるのは、それこそアメリカ海軍が全戦力で殴り掛かる場合位であり、そして、ワシントン条約体制以降の両国の完全な蜜月状況を考えれば、日米の艦隊決戦など、それこそ小説の中だけの話であった。

もっとも、日本海軍としては、この戦力で満足していたかというとそうでもない。

例えば空母戦力であるが、こちらは質はともかく、量がやや少ないと考えていた。
航空打撃戦力として考えるならば、正規空母を最低でも4隻、可能ならば8隻。
軽空母も、前衛艦隊防空用も踏まえるならば6隻は必要と試算していた。

それでもまだ空母戦力については「数を揃えればよし」とするだけマシであった。
根本的な改善が必要とされていたのは、軽巡洋艦戦力と駆逐艦戦力であった。

まず軽巡洋艦戦力であるが、この時期の軽巡洋艦戦力は、汎用軽巡洋艦である球磨型14隻と航空巡洋艦である大淀型4隻であった。
海軍が問題としていたのは、汎用軽巡洋艦である球磨型であり、個艦防空能力すら困難と判断される現状では、帝国海軍のドクトリンには適合していないと判断されていた。
無論、元の設計が1920年代であったことを考えれば「無茶を言うな」といったところではあるが短期間で大量建造してしまったがゆえに、海軍は戦力の急激な陳腐化という事態に直面することになる。

次に駆逐艦戦力であるが、こちらはこちらで問題山積みであった。
ロンドン軍縮条約前に、海軍は画期的というべき2,000t級駆逐艦である吹雪型駆逐艦を就役させていた。
吹雪型駆逐艦は速度こそ34ノットと、やや不満は残っていたものの、外洋でも十分に戦うことができ、対艦打撃能力の低下に目を瞑って、妙高型でも採用した40口径12.7cm連装高角砲を主砲としたことで、対空・対艦どちらにも使えるようになり(もっとも、給弾については砲塔型ではないため、即応弾を使い切れば発射速度は低下するが)魚雷発射管を5連装2基(自発装填なし)としたことで、強力な牙を備えてはいた。

帝国海軍としては、同艦を4個水雷戦隊分48隻配備しようと考えていたのだが、ここで問題となっていたのが、峯風型以降の駆逐艦36隻である。
これらの艦を代替しようとした場合、1940年まで待たざるを得ず、海軍としては、47,000t近い排水量枠を、旧式化が進んでいる艦艇に使われている状況であった。

結果的に、海軍は取得コストを鑑み、吹雪型駆逐艦を24隻で打ち切り、コストと排水量を押さえた初春型駆逐艦(基準排水量1,500t 速度35ノット 40口径12.7cm単装高角砲4門 61cm3連装魚雷発射管2基)を16隻配備する計画を立てたが、それでも1個水雷戦隊は峯風型以降の旧式艦であり、海軍の水雷戦隊は実質3個水雷戦隊しか使えない状態にあった。

以上の状況を踏まえれば、「マル3計画」において海軍が何を一番望んだかわかると思う。
実際、彼らが「マル3計画」の原案として出したのが以下である。

正規空母・・・8隻
軽空母 ・・・6隻
軽巡洋艦・・・8隻
駆逐艦 ・・・16隻
潜水艦 ・・・12隻

軽巡洋艦と駆逐艦についてはロンドン海軍軍縮条約の代替艦を元としていたが、それ以外については、航空打撃能力の強化を最重要視したものであった。
この点について、海軍は一切ブレがない。

954: yukikaze :2020/06/21(日) 16:43:17 HOST:p343111-ipngn200407kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
※>>953修正。戦艦は12隻

だが、この海軍のブレのなさに対して、政府や国民から異論が出されることになる。
日本の政治家も国民も『海軍力=戦艦』であり、そうであるが故に、彼らは海軍の拡張計画の中に戦艦の建造計画が入っていないことを問題視し、海軍に対して「英米の戦艦戦力強化に対応するよう、日本海軍も戦艦強化をするべき」という主張を繰り出したのである。

しかも、マル3計画の肝ともいうべき空母に関しても、他ならぬ空母閥の一部から異論が出ていた。海軍が想定していた正規空母は、改蒼龍型ともいうべき雲龍型であった。
基準排水量で30,000t近い本級は、世界で初めて斜行式甲板を備え、航空運用能力を強化した艦であり海軍期待の主力空母と目されていたのだが、空母閥の一部からは「雲龍型ですら、航空機の発展の前には小さい」という不満の声が上がっていた。

彼らにしてみれば、航空機の発展は、かつての戦艦にも匹敵するほどの進化の速さであり、ついこの間まで羽布仕様の翼が全金属性になり、複葉機が単葉機になり、時速300kmがやっとだったのが、今では500kmオーバーが当たり前となったのを見れば、飛行機はさらに進化するという確信を得ていた。

そして、飛行機の進化は、必然的に飛行機の大型化、重量化を齎すとも考えていた。
新型主力機として量産が始まろうとしていた、越山37式艦上戦闘機『烈風』及び艦上攻撃機『流星』の大きさと重さは、25,000t級空母である蒼龍型でも持て余しつつあった。(燃料や弾薬供給能力で不足が生じつつあった。)

さらに言えば、蒼龍型にしろ雲龍型にしろ、航空機搭載数は80機強(無理をすれば90機以上)と、十分な数を有していたが、飛行甲板防御などは不十分と言ってよく、空母閥の一部からは、十分な防御力と航空機運用能力を兼ね揃えた空母を建造するのならば、45,000tクラスは必要であると主張したのである。

流石に45,000tクラスの空母を量産するというのは、海軍部内でも困難ではないかという意見が多くまた、航空戦はあくまで数こそ重要であるという声も強かったことから、雲龍型乃至はその改良型を複数配備すべきであるというプランが採用されたのだが、上記の戦艦配備をという声が、全てをひっくりかえすことになる。

そう。戦艦建造のしわ寄せがどこに来るかと言えば、それは間違いなく空母であり、海軍にしてみれば、空母の隻数が減らされることが確定である以上、その分質を高めてやれという意見が強くなるのも当然であった。

結果的に、1937年6月に立憲政友会の内ゲバによりレームダックとなっていた宇垣内閣が、最後の仕事としてマル3計画を成立させたのだが、そのラインナップは、次のようになった。

戦艦  ・・・4隻(45,000t級戦艦4隻。(山城型代艦))
正規空母・・・6隻(30,000t級空母2隻。45,000t級装甲空母4隻。(蒼龍型代艦))
軽空母 ・・・2隻(15,000t級空母2隻。(鳳翔型代艦))
重巡洋艦・・・2隻(15,000t級重巡洋艦。改妙高型)
軽巡洋艦・・・8隻(8,000t級軽巡洋艦。(球磨型代艦))
駆逐艦 ・・・16隻(2,700t級駆逐艦。(峯風型~睦月型代艦))
潜水艦 ・・・6隻(1,500t級潜水艦。(巡潜2型代艦))

一見すると戦力強化の大盤振る舞いのように見えるが、わざわざ「代艦」と付けたことによって、量的には、空母と重巡洋艦以外は現状維持という状況になっている。
更に言えば、空母の目玉というべき蒼龍型代艦も、建造については1942年以降とされ、全ての戦力が完成されるのが1947年と、当時の日本の経済力を考えれば、無理のないものになっている
(実際、文句を言ったのは中華民国とオーストラリア位で、列強各国は、数的強化を抑制していたことに評価したほどであった。)。

このように、海軍側とすれば、艦隊の航空戦力の大幅な増強が抑制される代わりに、それほど重視していない戦艦戦力の強化が命じられるなど、必ずしも望んでいた通りの計画にならなかったのだが、あるいはこれが、彼らにとってケチのつけはじめとなったのである。

955: yukikaze :2020/06/21(日) 16:44:11 HOST:p343111-ipngn200407kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
第二章 近衛内閣成立と石原ドクトリンによる混乱

1937年7月に成立した近衛文麿内閣は、当時の日本の政党政治の混乱の行き着く先を体現したような存在であった。
立憲政友会にせよ憲政会にせよ、目先の利益を得るための近視眼的な政治家が跳梁跋扈しており、汚職や足の引っ張り合いなど日常茶飯事という体たらくであった。
既に民心は既存政党から離れていたのだが、ここで2大政党の非主流派が、外見と家柄、更にアジ
ア主義的な強硬論を吐くことで、国民から人気を得ていた近衛文麿を旗印に、近衛新党を成立させ一気に権力奪取に走ったのは、野合の最たるものと言えた。
何しろ、近衛という男は、自分で思っているほど確固たる主義も主張もなく、「最後に近衛と会った者が有する主張が近衛の主張」と揶揄される程、定見のない存在であり、近衛新党の構成員も「権力欲」以外は持ち合わせていないなど、成立時点で崩壊が約束された代物であったからだ。

結果的には、就任当初は7割近い支持率を誇った近衛新党は、あまりの無能さに国民からの総スカンを食らって、1年持たずに近衛が政権投げ出して終了(なお終了時の支持率は4%であり、統計を取っている中では歴代最低である)する訳だが、政権を投げ出す間に、彼と彼のブレーンによる『政策という名の思い付き』によって、多くの者が振り回されたのも事実である。
勿論、日本海軍もその例外ではなかった。

さて、近衛の政治手法で、とりわけ批判が大きかったのが、側近政治であった。
古今東西、政治家がブレーンを持つことは当たり前であるし、優秀なブレーンを手足として使うのが、有能な政治家の条件でもあるのだが、無定見の代名詞と言っていい近衛がその手法を取った場合、国政に何の責任も持たないブレーンの言うがままであり、おまけにそのブレーンが無能であればどうしようもない状況を引き起こしてしまっていた。
西園寺公一や尾崎秀実が社会主義的な体制に強引に持って行こうとして失敗したのは最たるものだが(なお彼らはゾルゲ事件によってこの時のツケを払わされる羽目になる)、軍事面においてやらかしたものこそ、石原莞爾退役少佐であった。

石原莞爾という男は、陸軍内ではとにかく評判の悪い男であった。
頭がいいのは認めるのだが、性格は奇矯であり、視野が非常に狭いわりに、政治的な言動を好んでおり、こうしたことが陸軍上層部から問題視され、陸軍大学入学を拒絶されたりもしていた。
そのため、陸軍での出世の望みが絶たれた石原は、陸軍に見切りをつけて退役したのだが、右翼団体に加入した石原は、その独特のカリスマと強硬な発言から、瞬く間に信奉者を獲得したのだが、そんな彼が一躍時の人となったのが「世界最終戦争論」であった。

この「世界最終戦争論」は、軍人にとっては噴飯物の代物であった。
一言で言ってしまえば、法華宗の教義を無理やり現実に当てはめたオカルト本。
感想を聞かれた日露戦争の大英雄である十河元帥が「論評する価値もない」と切り捨てたレベルなのだが、時代が石原に味方した。
この本が発表されたのが1928年。欧州においてドイツ第二帝政が崩壊し、英仏が中東において泥沼の紛争に悩まされるなど、世界は平和どころか、いつ終わるとも知れない紛争の時代であった。
そしてそうであるが故に、この手の終末本というのは一定数の需要があり、更に言えば「軍人が宗教と絡めた終末本を出す」というのが、日本においては石原が初めてであったことで、本の中身以前に、石原が持て囃されることになった。(そして聞き手を魅了するという点で、石原には才があった。)

かくして名声を得た石原は、右翼界の大立者としての地位を確立したのであるが、石原にとって更に幸運だったのが、石原の言説に魅了されたものの中に、近衛文麿がおり、三顧の礼をもって
彼の軍事ブレーンとして招聘されることになったのである。
石原にしてみれば、これまでさんざん自分を馬鹿にしてきた軍関係者よりも有利な立場に立てたことに御満悦であったとされるが、彼が愚かだったのは、近衛の軍事ブレーンを承諾した時点で彼の命運が尽きていたことに気づいていないことであった。

956: yukikaze :2020/06/21(日) 16:45:49 HOST:p343111-ipngn200407kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
近衛内閣が成立したとき、兵部大臣は末次信正退役海軍中将であった。
末次自身は、ワシントン体制に批判的であり、その政治的言説の過激さから退役に追い込まれたのだが、軍政面はともかく現場指揮官としては極めて有能な存在でもあった。
そうした経歴から、近衛が一本釣りで末次を兵部大臣に据えたのだが、これが石原にとっては気に食わないものであった。

石原にしてみれば、近衛を傀儡にして、自らが帝国全軍の実質的な総大将として振る舞いたいのに末次という目の上のたんこぶが控えているのである。しかも末次は、石原を歯牙にもかけないという体たらくであった。
そうであるが故に、石原は末次を追い落とそうとすることに気を窺い、末次がマル3計画に対して「これでは不十分」と、更なる軍備拡大を表明し(末次は常々、英米に対して同率の兵力維持を主張していた)、予算の裏付け等で苦境に立った(軍政面において末次は無能の一言であった)ことを奇貨として、近衛に吹き込んだのが「石原ドクトリン」であった。

この「石原ドクトリン」は、欧州ではやっていたドゥーエ理論の焼き直しであった。
彼は「日本は島国であり、1000機の重爆撃機を保有していれば、敵国艦隊を寄せ付けることはなく周辺国家への抑止となる」と、重爆撃機部隊の強化による抑止理論を打ち出していた。

これ自体はまあ珍しい理論ではなかった。
問題なのは、このドクトリンによれば、現在の陸海軍の戦力は過剰であり、それらの費用をもっと有効に使える、という、明らかに末次の背中を後ろから刺す目的で出されたことにあった。
実の所、石原の軍事能力については、退役時の大正年間でほぼ止まっており、陸軍の「空地協同理論」も理解できていなければ、海軍の「航空主兵論」も理解できていない粗雑なものであったのだが、石原にとってはそのようなものは些末なものであった。

そして、元々無定見な近衛にとって、「石原ドクトリン」は救い主であった。
彼は、国会での論戦に嫌気がさしていたのもあって、この「石原ドクトリン」を持ち出して、マル3計画の見直しを明言。
完全に裏切られた末次が抗議の辞任をすることで、石原の狙いは完遂されたかに見えた。

だが、石原の得意は続かなかった。
前述したように「石原ドクトリン」は、末次の足を引っ張るための付け焼刃の理論であった。
当然のことながら陸海軍は猛反発し、そして元々付け焼刃であるが故に、国会で証人として呼ばれた石原は、当初はその存在感と弁説で乗り切ったものの、それも時が経つにつれてぼろが出始め、最終的には、長々とした宗教論でけむに巻くという光景になっていた。
当然、石原の名声は地に落ちることになるのだが、頭の痛いことに、近衛が「マル3計画を見直す」と発言してしまったことで、既に発注をかけていた艦の工事が止まってしまい、建造計画に狂いが生じることになったのである。
末次の後任として兵部大臣になった荒木貞夫退役陸軍中将も、軍政についてはからっきしであり、更に海軍に至っては専門外であるとして、海軍長官である米内に責任を押し付けたことで、国会で米内が石原を公然と罵倒するという事態まで発生している。

こうした事態に対し、近衛は完全に無策であった。
既に「マル3計画は見直す」と明言してしまったことで、撤回は論外であったのだが、かといって「石原ドクトリン」に拘り過ぎれば、にっちもさっちもいかないのは、さしもの近衛も理解できていた。
結果的に、近衛が選んだのは「先送り」であり、「マル3計画」の前半5年間で取得する兵力については計画通りとし、後半5年間については、時局や技術力を踏まえて見直しを行う、という玉虫色の回答で決着をつけることになった(なお、この時点で石原はブレーンから更迭された。)。
多くの陸海軍関係者が「やらんでもいい混乱を引き起こした」と、吐き捨てるように答えたとされるが、この時の混乱は、前期計画艦の就役にも影響を及ぼす羽目になる。

第三章 『疾風』ショックと、艦船緊急整備計画(マル急計画)。そしてその破綻

1938年3月。罵声とともに崩壊した近衛内閣の後を継いだのは、枢密院(史実イギリス貴族院と権能は同じ)議員として辣腕をふるっていた大野秀文(治長流大野家当主。憂鬱近衛)であった。近衛を推薦したことや、孫の失態などで完全に政界から引退した西園寺公望に代わり、宮中で重きをなしていた牧野伸顕による推薦であったが、衆議院からではなく枢密院議員からの推薦という時点で牧野ですら、当時の衆議院に見切りをつけていたことが見て取れる。
口さがない人間からは「かつての枢密院議員である近衛のツケを払うのは枢密院議員であるのが適当」等ともいわれ、マスメディアからも「衆議院が正常化するまでのワンポイント内閣」とまで言われたがそのワンポイントは、7年にわたることになる。

957: yukikaze :2020/06/21(日) 16:46:36 HOST:p343111-ipngn200407kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
さて、後を継いだ大野内閣は、近衛の決定を「痴人の断案」と一蹴し、旧に復していた。
行政の連続性としては色々と問題のある行動(何しろ内閣の決定を「なかったこと」にしているのだ)ではあるのだが、近衛の失政のあまりの酷さに、誰もが「なかったこと」にするのが一番マシであると判断していた。
フーバー政権がレームダックになっていたことも相まって、関係が悪化しだした日米関係等を改善するために、大野は、兵部大臣に任命した米内光政海軍大将とともに、ワシントンやハルピンを訪問し、多大な努力の下で、日米関係や日ロ関係を修復することに成功したのであるが、その間にも、欧州関係のきな臭さは増すことになっていた。

この欧州のきな臭さに対し、日本側の反応は「放置」一択であった。
日露戦争以来、欧州に対しては不信感以外抱いていない日本にとって「あんな馬鹿どものgdgdに付き合っていられるか」というのが本音であり、仮に何かあっても『局外中立』を宣言する気満々であった。財界に至っては「アメちゃんと組んでまたむしりとったろ」で統一されていた。

とはいえ、軍備がらみにおいて「何もしない」こともなかった。
陸海軍にしてみては、欧州にはいかずとも、極東においてはソ連に中華民国、おまけにオーストラリアと問題児が控えており、馬鹿をしでかす可能性は十分あった。

そのため、陸軍側が望んでいた18個師団体制の前倒し及び完全自動車化編制の達成を進めるとともに、海軍においても、彼らが望んでいた、最上型軽巡洋艦や陽炎型駆逐艦の早期建造について、可能な限りの前倒しを進めることになる。
さしもの野党も、艦の老朽化という問題を突きつけられては、世論の声もあって文句を言えるはずもなく、両艦種の建造の前倒しを認めるなどしていた。

ここまで書けば、日本海軍にとってグッドルートと言えるであろう。
だが、好事魔多し。
1938年12月。日本海軍において、ある意味、災厄が訪れることになる。
後に『日本海軍の艦艇を最も撃沈した存在』こと、越山40式艦上戦闘機『疾風』試作機が、蒼穹の空に轟音とともに飛び立ったのである。

越山40式艦上戦闘機『疾風』は、越山重工業の倉崎総帥が社運を賭けた作品であった。
エンジン馬力こそ、当初予定していた41kNに劣る32kNであり、速度も予定していたM1.5ではなく1.2。
加速性能や上昇性能にもやや物足りなさがあったが、同業者が聞いた瞬間「てめえは火星人か何かと戦うつもりなのか」と、怒鳴りつけたであろう。
何しろこの時期の列強の主力戦闘機たるや、最高速度で500km後半でれば十分という代物なのである。
しかもエンジン問題も、3年後にはほぼ解消される見通しが立っていれば、陸海軍にとっては、整備のめんどくささと、戦闘行動半径が500km程度であること以外、取るに足らない欠点であった。

もっとも、海軍のこの楽観は、倉崎の指摘によって、無残に打ち砕かれることになる。
倉崎は、同機体を運用するには、27,000tクラスは最低ラインであり、それなりに満足のいく数運用するなら35,000t、疾風以降の艦載機まで運用するのならば45,000tは必要であるという試算を提出。
しかも、1950年代には艦載機の重量は20tクラスが見込まれ、1970年代には30t台にまで発展する予想も打ち出したのである。

海軍関係者が「越山はパンドラの箱を蹴飛ばしたんじゃねえのか」と、遠い目で慨嘆するのも当然であった。
倉崎の推論が正しいのならば、1万トン程度の軽空母など何の役にも立たず、現在建造中の雲龍型ですら『疾風』等の搭載機数が50機前後で、それ以降の艦載機となると機数が大幅に激減。45,000t級空母だとまだ大丈夫だが、それも1970年代になると赤信号がともるというものであった。

これまで数々の傑作機を送り込んできた倉崎の予想を無視するような愚か者は海軍にはおらず、この倉崎の予想をもとに海軍は、議論を重ねることになるのだが、さらに追い打ちをかけたのが、大野の腹心というべき、郡大蔵大臣(憂鬱辻)であった。

建造費と維持費という観点から、45,000t級空母以上の建造を認める代わりに、40年~50年近い運用、3番艦以降は早くても1950年代中頃。1960年代末までに、超大型空母4隻体制にし、以降は、10年ごとに1隻の割合で代艦を建造という郡の意見は、マル3計画を否定するものであり、海軍部内で批判の声が巻き起こるも、1970年代以降の空母が「基準排水量で6万トン、満載排水量で8万トン越え」であることを突きつけられた瞬間、さしもの海軍将官達も、代艦建造という問題で、郡の意見の正しさを認めざるを得なかった。

ここにおいて、海軍はマル3計画の見直しをせざるを得なくなるのだが、彼らはある物事を見落としておりそしてそれは盛大にツケとして帰ってくることになる。

958: yukikaze :2020/06/21(日) 16:47:19 HOST:p343111-ipngn200407kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
1939年9月。共産ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次欧州大戦が勃発した。
欧州各国にとって「まさか大戦争にはなるまい」と、高をくくっていたが故に起きた戦争ではあるのだが、日本にしてみれば「また欧州の馬鹿どもがやらかしやがった」と、言う気分であった。

さて、この欧州大戦に対して、日本側は速攻で「厳正中立」を表明し、併せて10ヶ国条約の順守を宣言。
近衛文麿の言動と行動によって下がっていた日本の評判を完全に取り戻したのだが、その一方で、一朝有事の際の戦力強化にも余念がなかった。

何しろ共産ドイツが牙をむいたということは、その総本山であるソ連が何もしないわけがないのである。
現状、ロシア共和国という盾があるから、日本海は日本の聖域と化しているが、ロシア共和国が飲み込まれた瞬間、日本が最前線になるのである。
故に、日本は何が何でも、ロシア共和国に対する防衛強化にいそしむ必要があった。
日本側がロシア共和国に対して、既に日本では旧式となっていた32式シリーズ(憂鬱96式シリーズ)を格安で売却し、37式中型戦車もライセンス生産を認めたのも、ロシア共和国のテコ入れをすることによって、ソ連側の侵攻のハードルを高めるためであった(そしてスターリンは正しく理解した。)。

一方、この事態に、日本海軍の中では、この際一気に艦隊をリニューアルするべきではという声が上がっていた。
無論、彼らは大型艦建造には消極的であった。
何しろ倉崎御大の予想を踏まえれば、艦隊空母は3万トンオーバーは必要であり、しかもそれは1970年代以降は、完全に戦力外と化すという有様であった。
それならば、まだ基地航空艦隊を強化した方がマシというのが、航空主兵派の言い分であった。

その一方で、軽巡洋艦以下については、数を増やしても問題はなかろうと彼らは考えた。
最上型軽巡洋艦にしろ陽炎型駆逐艦にしろ、現行主力機である烈風や流星相手にも対応できる強力な防空艦でもあるのだ。
特に空母の隻数に制限がかかる以上、強力な防空火力によって、敵機動部隊の航空攻撃を封殺すればよいのではという意見が出てからは、猶更強くなっていった。

更に海上護衛部隊からも要望が上がることになる。
潜水艦部隊が建造した巡潜四型によって、これまでの主力護衛艦である『隠岐』型護衛艦(史実タコマ型)が神通力を失うことから、新型高速護衛艦の建造を再三要求していたのである。日本海軍の存在意義が、自国通商路の防衛であることを考えれば、これまた当然の考えであった。

かくして、日本海軍は、マル3計画を改定して、艦船緊急整備計画(マル急計画)を打ち出すことになる。その内訳としては

正規空母・・・2隻(60,000t級装甲空母)
軽巡洋艦・・・16隻(8,000t級軽巡洋艦。(球磨型代艦))
駆逐艦 ・・・48隻(2,700t級駆逐艦。(吹雪型~初春型代艦))
潜水艦 ・・・18隻(1,500t級潜水艦。(巡潜3型代艦))
護衛艦 ・・・32隻(1,500t級護衛艦。(隠岐型代艦))

この代償として、45,000t級装甲空母4隻、15,000t級軽空母がバーストすることになるのだが、軽空母については、鈴谷型重巡洋艦を軽空母として改装することで対応することにしていた。

この日本海軍の提案は、流石に中立国であるのにこれだけの戦力が早急に必要なのかという意見が強く、正規空母と護衛艦、そして潜水艦はすんなり通ったものの、軽巡洋艦と駆逐艦については見直しを求める声が大きかった。

結果、日本海軍も流石に妥協が必要であると考え、軽巡洋艦を12隻、駆逐艦を32隻にまで削減することには同意したものの、同戦力については、1944年までには大半が就役できることを絶対条件とした。
海軍にしてみれば、4個水雷戦隊を陽炎型で統一すると同時に、水雷戦隊旗艦以外の16隻を、4個戦隊に分けることで、空母機動艦隊2個、水上打撃艦隊2個に配備しようとしたのである。

最終的には、米内兵部大臣の粘り腰により計画案は承認されることになるのだが、ここで日本海軍の見落としが最悪な形で現出することになる。

1940年1月。新鋭軽巡洋艦『最上』は、砲熕公試を徳山沖で行っていた。
流石に新鋭防空巡洋艦として計画されていただけあって、防空火力の発揮については申し分なく、演習相手であった32式艦上攻撃機が、短時間で『全滅』判定を受けるなど、艦長や監督官も大満足する内容であった。

959: yukikaze :2020/06/21(日) 16:48:13 HOST:p343111-ipngn200407kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
だがそれも、水上砲撃試験が行われるまでであった。
最初の砲撃はまあこんなもんだろという位置に水柱が立っていた。
だが、通常ならば、的に水柱が近づいてくるはずなのに、一向に近づかないどころか、明後日の方向に立つ始末。
あまりの酷さにたまらず艦長が「砲撃中止」と叫び、砲術長以下を叱責することになるのだが、何度やってもうまくいかず、艦の面目は丸潰れとなり、責任を感じた砲術長が自殺未遂を行う程であった。 

だが、原因は思わぬところにあった。
件の砲術長の代わりに、別の人間に指揮をとらせてみたのだが、こちらも大同小異の結果に終わり、それが3人目になると、もはや人間の腕前ではないことが明らかであった。
そして調査の結果わかったのが、この問題が極めて深刻なものであるということであった。

最上型に搭載されていた新開発の37式射撃指揮装置は、両用(対空兼対水上) の測的・射撃盤ではあったが、実際には対空主、対水上・対地従という代物であり、対艦攻撃において、発射速度に対して修正値が追いつかない欠点を有していた。
つまり、高速度で撃てば撃つほど、ずれ幅が大きくなってしまい、砲弾が明後日の方向に飛んでいってしまうのである。
なまじ優秀な砲術士官であったが故に、彼らは完璧に射撃指揮装置を使いこなし、見事に酷い成績をたたき出したのである。

この事実に、艦隊側は激怒して、海軍技術本部に怒鳴りこむことになるのだが、技術本部からは「だからこっちは電探盲従式で省力化された奴にしようって提案したのに、お前らが光学系に拘りまくったせいでこうなったんだろうが!!」と、逆に怒鳴りつけられ、責任者がお互い殴り合いを行う醜態を見せている。
海軍にとってみれば、期待の新鋭艦が対水上砲戦で全く役に立たないという事実は、顔色を失わせるのに十分であった。

しかも悪いことは続き、試験の結果、レシプロ機相手であれば対空砲火は十分に発揮できるもののジェット機相手では、追随が困難であることが判明したのである。
まあ同艦が計画されたときには、ジェット機など影も形もなかったのだから、同艦を責めるのは酷であるのだが、これにより同艦の役割である「防空巡洋艦」としての能力にすら疑問符がつく事になったのである。
技術本部において艦対空誘導弾(史実テリアII)の試作に成功し、同誘導弾を利用すれば、ジェット機相手にも対抗できることがわかってからはなおさらであった。

そして止めを刺したのは、この一連の事件がマスメディアにリークされ、国会で野党から追及を受けることになったことである。
後にこの情報をリークしたのは、艦隊側と技術本部側双方が、相手方に責任を押し付けるためだったことが明らかになるのだが、元々マル急計画については、議会においても「海軍のごり押し」という意見が根強かったことや、政局屋がまだまだ多く存在していたこともあって、瞬く間に政治問題化してのけたのである。

この状況に、兵部大臣である米内光政は、後に賛否を呼ぶ決断を下すことになる。
彼は、野党議員からの指摘を全面的に認めるとともに、承認を受けたマル急計画の撤回並びに議会での再度の精査を受け入れることを明言。
更には、自殺未遂を起こした一件でみられる指導面での問題、技術部門における仕様策定の見直しの解決を図るとともに、辞任云々については「全責任は自分にあり、辞職ではなく更迭が適当であると考えております」と、回答している。

政治問題化しようとした野党議員があっけにとられるレベルでの全面降伏を米内がしたことで事態はあっさりと鎮静化することになるのだが、この時の精査により、最上型軽巡洋艦の追加発注中止並びに、建造中の内、進水をしていない2隻の建造中止が決定され、駆逐艦についても「現在急いで配備する必要はなし」として、1944年度までではなく、マル3計画が完結する1947年以降に新たに見直しをすることになった。

まさに海軍側の失態による自業自得といっていい結末であったのだが、この決断にもある落とし穴が待っていた。
確かに最上型には重大な欠点があったのは事実であったし、陽炎型もジェット機相手の防空には力不足であったのも事実であっただろう。
故に、海軍としては、ケチのついた両艦種の配備を最低限にすることで、ダメージを最小限にするとともに、ジェット機にも対抗できる、誘導弾搭載の防空艦配備(駆逐艦搭載型誘導弾についても1945年ごろには開発完了が見込まれていた)に舵を切るのも間違いではなかった。

960: yukikaze :2020/06/21(日) 16:48:57 HOST:p343111-ipngn200407kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
だが、その決断は「日本は戦争に巻き込まれない」というのが前提条件であった。
最上型にしろ陽炎型にしろ、レシプロ機相手だと十分以上に防空能力を発揮できるのに対し、現有戦力である球磨型軽巡洋艦は個艦防空能力ですら怪しく、吹雪型、初春型駆逐艦は球磨型よりは大分マシとはいえ、陽炎型とは雲泥の差であった。

そしてその前提条件が崩れ去った時、日本海軍は、深刻なレベルの補助艦艇の不足という状況に直面することになる。

第四章 アメリカ生まれのサムライガールズ

1940年8月24日。「リバティ号事件」(イギリスからアメリカに避難するため出航した、アメリカ船籍の客船がドイツ空軍により撃沈。アメリカ、日本の民間人の多数が溺死し、日米世論がドイツに硬化)に端を発した、共産ドイツと日米の関係悪化は、日米の共産ドイツへの宣戦布告という形で終焉を迎えることになる。
同日、日米両政府は、共産ドイツに賛同していた、フランス、中華民国、スペインに対しても宣戦布告を行い、9月には香港に向けてフィリピン駐留の米師団及び日本から増援部隊が到着するなど戦争の規模は、全世界に広がることになる。

1941年1月には、日本海軍は、蒼龍型4隻及び山城型6隻を基幹とした、遣欧派遣艦隊(司令長官古賀峯一大将(憂鬱古賀))が派遣されるにいたったのだが、予想していなかった開戦に、日本海軍は心底頭を抱えることになった。

史実よりははるかにマシとは言え、日本海軍の本質は迎撃海軍であり、欧州までわざわざ遠征するような体系にはなっていない。
無論、主力となる共産ドイツ海軍は、水上艦艇が皆無と言っていい存在だし、共産フランス海軍も混乱が酷いために、敵水上艦艇が迎撃する状況はそうそうないとはいえ、敵潜水艦部隊への対処や何より、欧州までの距離を考えれば、どれだけ面倒か火を見るより明らかであった。

更に欧州に行ったら行ったで問題は山積みであった。
遣欧派遣艦隊の実力には不安はない。
正規空母4隻、高速戦艦6隻、これに装甲巡洋艦1隻、重巡洋艦6隻、水雷戦隊2個である。
日本海軍の主力を投入していることから、実力は折り紙付きであるのだが、一方で、戦艦部隊と重巡部隊はともかく、それ以外は一枚看板というのが問題であった。

空母については、1941年に就役する雲龍型2隻の後は、どんなに頑張っても1944年初めに就役する翔鶴型を除けば、能力が限定されている軽空母の鈴谷型2隻のみ。
軽巡洋艦と駆逐艦に至っては、問題が改善されていない最上型と、16隻に建造が抑制された陽炎型以外建造計画が白紙なのである。
近代戦争が消耗戦であることを考えれば、これらの船が戦没しないと考えない方がおかしかった。
(実際には、大破艦は出ても戦没艦は出ておらず、海軍関係者が呆然とすることになる。)

その内、空母に関してはまだ何とかなった。
マル3計画で計画されていた15,000t級軽空母を、戦時急造型として改設計したものを採用すれば少なくとも起工から1年半以内に竣工できることが試算されたのである。
肝心の搭載機数もレシプロ機ならば50機前後。ジェット機でも、30機程度は運用できるようになったことで、戦争終了後も、ある程度の期間までは航空打撃戦力として利用でき、艦載機が陳腐化しても、対潜空母として使えばよいとされたことから、量産化のハードルも下がっていた。

問題は巡洋艦と駆逐艦であった。
軽巡洋艦については、最上型に全振りしていたことや、新型軽巡洋艦は誘導弾搭載型巡洋艦にすることが決定しており、取得コストの問題から、どれだけ頑張っても、1945年ごろになるのが明らかであった。
駆逐艦に至ってはなお悪く、駆逐艦に搭載できる誘導弾が完成するのは1945年ごろ、では開き直って陽炎型を量産すればという選択肢もあるが、短期間で旧式化すること確定な艦をわざわざ量産するのを議会や大蔵省に説得できるかと言えばまた別問題であった。
何しろ『消耗品』といっていい駆逐艦の場合、大量建造が必須であり、戦争が終了したのち、第一次大戦のアメリカ海軍のように、膨大な旧式駆逐艦の在庫を丸抱えなどお断りであった。
(なお、護衛艦については、沖縄型だけでは足りないこと確定なことから、海上保安庁への供与込みで隠岐型護衛艦の追加発注で対応している。)

961: yukikaze :2020/06/21(日) 16:49:44 HOST:p343111-ipngn200407kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
この難問に対して助け船を出したのが、米内光政前兵部大臣であった。
先の事件で解任されたとはいえ、自らが泥を被って政治的混乱を最小限に抑え込んだことから、兵部省及び海軍内部において、米内に対する信望は厚いものがあった。
まあ米内の後を継いだ山本が、兵部省や海軍庁に対して情け容赦ない処罰を繰り出したことへの当てつけもあるのだが。
頭を悩ませる海軍に対し、米内はあっさりと言っている。

「アメリカからレンドリースすればいいじゃないか。賭け札は持っているんだろ」

至極あっさりと言っているが、確かに賭け札にするには十分な手札を日本は有していた。
他国と比べて10年以上差をつけている電子技術に砲魚雷部門やジェット機部門、そしてジョーカーというべき原子力部門。それらを考えれば、日本が欲しがる補助艦艇のレンドリースなど、アメリカにとっては、お釣りがくるようなものであろう。
何より目の前の男は、合衆国海軍のトップであるキング大将とは、刎頸の友なのである。十分以上に勝算のある交渉ができる要素は整っていた。

1か月後、米内を団長とする訪問団がワシントンを来訪し、レンドリースの見返りに、日本からの技術供与を打診されたキング海軍大将は、その場でクリーブランド級軽巡洋艦32隻の内12隻を、フレッチャー級駆逐艦に至っては48隻を日本側に供与することを確約。驚き慌てる海軍省の人間には「日本が宝の山を分けてやると言っているのに、小銭惜しんでどうするんだ。必要とあらばエセックス級も供与してやれ」と、一喝。
政府や議会に対しても「10年の遅れを巡洋艦や駆逐艦を貸すことで埋められるのです。その費用を考えればこれ以上ないほどの好条件です」と、援護射撃を行っている。

後に「キングは最良の買い物をした」と、キングの決断は賞賛されることになるのだが、日本側にしてみても、技術力の差によってアメリカに警戒心を持たれるよりは、相手が自力で追いつくよりも前に、共同開発という名目で、お互いがお互いを切り捨てられない関係に持って行き、日米関係を維持した方がマシという冷徹な計算があったのも事実である。

かくして1943年後半。アメリカの東海岸から、旭日旗を掲げた船が続々と抜錨することになる。
『高千穂』型軽巡洋艦及び『山霧』型駆逐艦と呼ばれることになる、アメリカ生まれの艦艇は、ギリギリの隻数で運用をしていた日本海軍補助艦艇の台所事情に一息つかせただけでなく、作戦面でも余裕を持たせることに成功している。
現場においては「トップヘビーが過ぎる」という意見はあったものの、上層部からすれば、座視してもよい欠点であった(なお両艦とも兵装はアメリカ製であるが、駆逐艦の魚雷だけは、日本製の過酸化水素魚雷4連装2基となっている。)。

また、この時期には戦時急造空母である『瑞鳳』型軽空母も続々と就役しており、瑞鳳型2隻高千穂型3隻、山霧型12隻を1グループとする軽空母機動部隊は、欧州沿岸に向けてヒット&ウェイ戦法を繰り出しており、共産ドイツ側に無視できない損害を蓄積させることに成功している。
余談ではあるが、この時、軽空母機動部隊の指揮をしていた岡田、城島、大林、加来の4提督は、共産ドイツなどから「海賊」と罵られており、賞金首にまでされていたのだが、これに大笑いした4提督は、挑発の意味を込めて旗艦に海賊旗を掲揚し、欧米のマスコミを大喜びさせている(勿論、兵部省等への許可済みである。)。

海軍側としては、ギリギリのところで戦力が間に合ったともいえるが、あくまでこれは結果論でしかなく、仮に相手が英米であった場合は、戦力を早期に消耗したのち、じり貧のまま押し切られた可能性が高い。
その意味では、マル急計画については、失敗であったといえるであろう。

第二次欧州大戦終了後、レンドリースされた彼女達は、生まれ故郷のアメリカに帰り、その殆どは、港の片隅でひっそりと余生を過ごすことになる。
ただし、彼女達の存在がなければ、日本海軍の活躍が制限されていたのも事実であり、1945年10月に行われた東京湾凱旋観艦式においては、日本生まれの艦艇と同様、多くの国民に勝利の栄誉を称えられ、『高千穂』に至っては、先導艦の栄誉を賜ることになる。

アメリカ生まれのサムライガール(ハルゼー大将評)は、立派に二つの祖国に対して義務を果たしたといえるであろう。

962: yukikaze :2020/06/21(日) 16:57:25 HOST:p343111-ipngn200407kamokounan.kagoshima.ocn.ne.jp
投下終了。次にいつ投下できるかもわからん状況なので、やれる分だけ投下。
コンセプトとしては「未来知識が邪魔して、割り切りができなかった日本海軍」と言ったところです。(キング曰く「頭が良すぎてバカ」)

まあ最上型がこけた場合、旧式艦の球磨型で乗り切れるかというとなかなか難しいので何とかならんかなと考えた場合、回答として思いついたのがアメリカからのレンドリース。
あくまでレンドリースなので、戦後には負債にならないし、戦中では必要十分な能力持ち。
ついでにいえば、アメリカにとっても、戦後帰ってくるんで、日本の戦力に怯えずに済むと。

レンドリースの対価? アメリカにとっては垂涎の的の技術供与ですんで、ウィンウィンです。
むしろこの時期にカードを切らないと、冷戦中に国力差の前に自力で追いつかれかねませんので恩に着せることができないですし。

しかしまあ我ながら、ストレス発散のためとはいえ溜め込んだものです。

なお今後の書き込みですが、ここと議論位で、雑談スレについては差し控えます。
見る限り、まだ煽りたがっているのが複数人いますので、正直、相手したくありませんので。

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最終更新:2020年06月23日 11:12