13: ホワイトベアー :2020/07/02(木) 21:42:06 HOST:157-14-177-16.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
日米枢軸ルート 番外編
アメリカ市民戦争 プロローグ
リンカーン大統領の就任を契機として1861年に勃発したアメリカ合衆国南北戦争、通称アメリカ市民戦争はアメリカ合衆国と言う国家が真の列強として脱皮する為の最後の御祓であったと言われている。
事実、この戦争以降のアメリカはそれまでバラバラであった国内を1つに纏めあげることができ、極東のドラゴンである大日本帝国に匹敵しうる唯一の超大国として坂の上の坂を上り続け、半世紀もたたずに世界第二位の国力と軍備を有する大国にまで成長するのだ。
そう言う意味もあって戦争はアメリカ合衆国と言う1つの人工国家の運命を決した戦争であった。
《アメリカ合衆国の栄華と発展 著者:レイモンド・エイムズ・スプルーアンス》より抜粋
第1話:アメリカ南北戦争が開戦するまで
後世において南北戦争が勃発してしまった原因はいくつか挙げられているが、その主要な原因は北部と南部の経済方針の違いと、北部人と南部人の移民に対する考え方の違いに求める事ができたと言われている。
もともと、アメリカ合衆国の経済体制は綿花や資源を欧州に輸出し、欧州からは工業製品を輸入するいわゆるプランテーション経済であった。しかし、1812年からの米英戦争によってイギリス海軍が欧州との航路を封鎖、工業製品が断絶してしまったこと契機として、農耕に向いていない西海岸北部地域を中心に工業化を精力的に進めており、当時のアメリカ合衆国北部は自らの工業力(と言う名の雇用)を守り、発展させることを最大の目的としていた。
これは当時世界最大の工業力を有していた日本との同盟関係の樹立後も変わらず、むしろ、日本から輸出されてきた安価かつ高品質な工業製品の流入を防ぐため、自国の品質が低く高い製品を駆逐されない様に日本や欧州に対しての高い関税障壁と工業化に必要な流動性の高い労働力を求めていく。
当然、こうした北部の主張は南部を中心に農耕に向いてた事からプランテーション農業をその中核とした経済体制をとり、それゆえに奴隷と言う安価な労働力と自由貿易に大きく頼っている南部の人々にとっては受け入れられるはずもなく、経済方針を巡った対立は日に日に激しさを増していた。
また、当時の北部や西海岸には日の丸企業が大挙して押し掛け、現地法人や合併会社を次々と設立し、その経済的・文化的影響力を強めていた。これは新しくアメリカ以外から来た移民が多く、実際にその恩恵を大きく受けている北部や、日系人の移民も少なくない西海岸の人々にとっては(日本企業や政府の宣伝工作や手厚い福利厚生もあり)そこまで敏感になることではなかったが、合衆国独立前後に移民してきた者も多く、進出している日経企業が少ないことからその恩恵を受けられない南部では、
「東洋の黄色い猿が移民たちと共謀してアメリカを乗っ取ろうとしている」
「北部の連中は自分達の利益の為に猿に尻尾を振り、アメリカを再び植民地にしようとしている」
「猿と北部の売国奴からアメリカの伝統と文化を、正当なるアメリカを守らなければならない」
と言う意見が無視できないレベルで存在しており、日本との関係すらも南北の対立の要因となっていた。
特に1832年税法を巡る連邦政府と南部の州との対立は戦争一歩手前まで行くことになる。
これは連邦議会で北部の国内産業を守る事を目的とした保護関税の継続や国内に投資する海外企業に対する減税を大きな目玉とした法案であり、北部および西海岸諸州に大きな恩恵を及ぼす税法であった。対して、輸出に経済の大半を頼る南部諸州はこの法案を有害であると考え、連邦議会に対する抗議活動を大々的に行い、サウスカロライナ州ではこの法案を執行しない事を宣言するなど反連邦政府的な行動をとっていった。
これを受けたジャクソン大統領はサウスカロライナの行動に激怒し、連邦議会で連邦法を国内で執行される為に連邦陸軍と連邦海軍の動員を可能とする《強制法案》を成立さると同時にサウスカロライナ州の各連邦軍基地の強化措置と駐留部隊の休暇取消しを断行、サウスカロライナ州に対して圧力を加えていった。
当初、アメリカ政府はもちろん多くのアメリカ人は圧倒的な軍事力を有するアメリカ連邦政府の圧力にサウスカロライナ州も折れるだろうと考えていたが、しかし、その考えは裏切られる事になる。
連邦政府の強硬的な対応を受けたサウスカロライナ州は州の境界内で新税法の無効を宣言する無効化条例を採択することにより、この関税を取り扱い、さらに州議会は条例を執行させる為に軍隊を組織することと武器を調達することの許可も含めていた統括的な法案を成立させ、連邦政府に対して手袋を投げつけた。
14: ホワイトベアー :2020/07/02(木) 21:46:28 HOST:157-14-177-16.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
サウスカロライナ州の脅しに対し、連邦政府は「強制法案」を発動させ、ジャクソン大統領の命令のもとチャールストン港にアメリカ海軍の7隻の装甲帯コルベットと1隻の装甲艦を派遣し、さらにサウスカロライナとその他の州を繋ぐ主要な交通路を封鎖を断行するチャールストン危機がおきるなどアメリカの分断は深刻なレベルに達していた。
一方でアメリカ合衆国と言う国家の団結を守るための政治的な競技も継続して行われており、このサウスカロライナ州と連邦政府の対立でも、法案を通す対価として逃亡奴隷の返還を含めた連邦全体の奴隷制の強化を容認する、カリフォルニアが州に昇格したときはそれを自由州とするかわりに逃亡奴隷取締法を強化すると言ういわゆる1850年の妥協など、多くの妥協が生まれるなど合衆国の分解を避ける為の施策も行われていた。その成果もあって、1850年代前半までのアメリカ合衆国は危ういと言う言葉が前に付くものの、北部と南部の政治的均衡は一応の安定を見ていたのであった。
しかし、第二次産業革命の推進と近代的資本の発展によって北部の経済と社会が変わるにつれ、政治は一部のエリートが語るものではなく、民衆が動かすものへと変化していった。
それは、すなわち北部でのポピュリズムの活発化を意味しており、理論が政治に入ってくることを許すことを意味していた。また、当時、著しい発達を迎えていたマスメディアは自らの出版数を増やすため、自らが理想とする政治を達成するために民衆を煽りたてていき、こうした要因によって古い2大政党制の安定感は崩壊へと誘われていく。
こうした流れを最も上手く活用したのは新進気鋭な新党である共和党であった。彼等はカリフォルニア州を自由州として、ニューメキシコ準州、ユタ準州については州に昇格する際に住民自らが奴隷州か自由州かを決定することができる人民民主制が議会で可決され、ミズーリ協定の無力化に反発した北部の奴隷制拡大反対論者によって結成された政党であり、それゆえに先進的を自称する知識人や北部に投資をしていた日本企業の影響力が大きいマスコミの支援を大きく得られたのだ。
また、西部海岸諸州は基本的に日本による影響力が大きい事から州として独立した全ての州は自由州となり、上院で少数派になる事を恐れた南部が北部や西部への敵対心を強めていった。
そして、アフリカ人の子孫が奴隷であるか否かに拘らず、アメリカ合衆国の市民にはなれないとし、アメリカ合衆国議会は連邦の領土内で奴隷制を禁じる権限がないとしたドレッド・スコット対サンフォード事件に関する判決や、強硬的な反奴隷主義者であるジョン=ブラウン主導による連邦軍武器保管庫占領事件などの事件が連続しておこり、北部と南部の対立は政治を巡るものからイデオロギーを巡るものへと変質していき、もはや平和的な解決はもはや望めない領域まで達してしまう。
そんな状況で行われた1860年アメリカ合衆国大統領選、後に南北戦争の引き金を引いたと言われる選挙では、共和党は二年前のスティーブン・ダグラス論争で共和党きっての反奴隷主義者として世間に知られているエイブラハム=リンカーンを大統領候補に、西部沿岸地域の黄金ラッシュのきっかけを作り、西部の不動産王として大きな影響力を有していた白人系日系2世のジョセフ・クージョーを副大統領候補とすることでアメリカ北部と西部の反奴隷的な人々の世論とアメリカ国内の産業界の支持を得ると共にアメリカのマスメディアに支配的な影響力を有していた日本資本の支持を受ける事に成功していた。
これにより、共和党はマスメディアによる宣伝支援や各種資本家からの潤沢な資金援助を得る事ができ、その宣伝能力と潤沢な資金を贅沢に使った選挙戦術を採ることで南部緒州を除いた選挙で極めて優勢的な立場に立つことができた。
対して、奴隷賛成派が多数を占め、現大統領を擁する民主党であるが、彼らの選挙戦術はオブラートに包んで表しても拙いものであった。
もともと民主党は奴隷制をある程度強化したり、妥協を破棄し国の新領土を南部の者達が支配する容認するなど民主党は南部寄りの姿勢を強く表しており、南北戦争前までは南部がアメリカ合衆国の国策を支配していた。
しかし、上記したように産業革命の到来と政治に理想の介入により、北部の民主党支持者のなかには南部の政策に反感を抱くものも出てきており、また、南部の民主党支持者では北部の民主党員の行動が「弱腰」に見え、苛立ちを募らせていた。
そんな状況で行われた1860年大統領選挙では、民主党は奴隷制の採否はその州の主権を有する人民が自由に決めることができる事項であり、連邦政府や他州の政府の容喙を入れるところではないとする「合衆国領土における人民主権理論」を提唱し、1858年には反奴隷制拡大主義者であったリンカーンと7度に渡る討論を行ったスティーブン・ダグラスを大統領候補とする事がほぼ内定していた。
15: ホワイトベアー :2020/07/02(木) 21:47:49 HOST:157-14-177-16.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
しかし、彼がリンカーンとの討論で唱えた
「フリーポート原理」と日系アメリカ人に対する融和的な姿勢に反感を抱いていた南部の一部民主党員が彼の指名に反対の姿勢をとり、第一回民主党大会でおよそ50人の南部系党員が退席し、結果として指名する大統領候補が決まらず、第二回民主党大会ではさらに残っていた55人の南部系民主党員が退席する。
そうして、やっとスティーブン・ダグラスを大統領候補に指名する事ができた民主党であったが、これを受けた南部の民主党員は正式に民主党から脱退、南部民主党と言う新しい政党を結成し、独自にジョン・ブレッキンリッジを大統領候補に指名する。
これによって民主党は票田である南部緒州を喪失、南部民主党も南部緒州のみだけでは選挙人数が少なく、南部の農園主層は国政を支配する手段を失うことになる。
これによってスティーブン・ダグラスは北部では圧倒的な支持を受ける共和党候補であるリンカーンと、南部では南部民主党候補であるジョン・ブレッキンリッジと戦うことになり、必然的に敗北、南部民主党のジョン・ブレッキンリッジも南部緒州でしか選挙人が取れず、新党である共和党が歴史的な大勝利を納めリンカーンが大統領に選出された。
これにより共和党は立法府である上下両院会と行政府であるホワイトハウスを抑えることになり、アメリカとしては初めて絶対多数を占める党になったことで、南部緒州の脱退指向派はもちろん南部の一般人ですら合衆国内に自分達の未来はないと考えが浸透していく。
そして、1860年12月20日、リンカーンの勝利がほぼ確定するや否や、アメリカ合衆国の州では最も強硬的な奴隷州であったサウスカロライナ州は特別議会を召集、サウスカロライナ州とアメリカ合衆国の名の下にある他の州との間に存続した連合は解消された」と宣言し、アメリカ合衆国からの独立を宣言した。
これに続くかのように翌1861年1月までにミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州も合衆国からの脱退を宣言、これら7つの州はリンカーンが大統領に就任する前である同年2月4日にアメリカ連合国の建国を宣言、首都をアラバマ州モンゴメリーにおき、ジェファーソン・デイヴィスを暫定大統領とした暫定政権を樹立させた。
そして、アメリカ連合国は合衆国議会に変わる新たな立法府としておかれた連合国臨時議会を設置、議会の承認の下に各州の州兵を統合する形で創設された連合国暫定軍を使い合衆国陸軍が有したほとんどの砦も含まれた形で連邦政府の財産および施設の強制接収と言う暴挙を行い始める。
連合国の暴挙を受けたジェームズ・ブキャナン合衆国大統領はサウスカロライナ州チャールストン港のサムター要塞など、連邦政府の支配下に残っている軍事施設の死守を合衆国陸軍および全州に命令、州兵の動員準備も開始する。
1861年3月4日、エイブラハム・リンカーンが合衆国大統領に就任した後もこの合衆国の方針は変わらず、軍事施設の接収を目指す連合国暫定軍と軍事施設を護る合衆国陸軍の緊張は爆発寸前までいたっていた。
こうしたアメリカの分断はアメリカ国内はもちろん多くの列強にも影響を及ぼしていく。
アメリカ合衆国の同盟国である大日本帝国は同盟国であり、自国の世界戦略におけるジョーカーでもあるアメリカ合衆国の分断と言う状況を許容できるはずもなく、列強の中では一番迅速に行動した。
もともと、日本の民意は奴隷制には反対的であった。しかし、日本公式見解は「奴隷制は同盟国であるアメリカ合衆国の主権の下に認められているから口を出すつもりはない」と一歩引いた姿勢をとっていた。
16: ホワイトベアー :2020/07/02(木) 21:48:21 HOST:157-14-177-16.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
だが南部州がアメリカからの分離を選択すると、日本はその立場を大きく変えることになる。
アメリカ連合国の建国宣言からわずか2日目にして、日本帝国政府はアメリカ連合国を名乗る州を「ならずものの集まりであり、秩序に武力を持って挑戦してきた[悪の枢軸]である」と過激なまでに非難、この非常事態に対して同盟国であるアメリカ合衆国に食料品や医薬品の供与、資金の提供、軍の派遣や武器の供与などありとあらゆる支援を惜しみなく行うと発表する。
そして、アメリカ合衆国からの返答を待たずに大日本帝国はアラスカへの臨時軍事演習を名目として2個警備艦隊、装甲巡洋艦4隻、防護巡洋艦8隻、水雷艇駆逐艦8隻からなる遣米艦隊と、騎兵1個師団、歩兵3個師団からなる遣米軍とそれを支え、アメリカ合衆国にも供与する為の大量の武器弾薬医療品を搭載した輸送船団をアメリカに向かわせた。
後に、南北戦争陰謀説の根拠ともなる日本帝国軍の素早い行動であるが、日本帝国がここまで早急に軍を送り込んだのは現実的な理由があった。それは日本とアメリカの距離である。
当時の日本がアメリカ合衆国北部緒州に軍を送るルートは主に2つに別れていた。一つはニューヨークから始まり、シカゴを経由してシアトル、ポーランド、サンフランシスコなど西部の主要港湾都市へと至る大陸横断鉄道を使うルート、もう一つはホーン岬を越えて大西洋に出るルートである。
しかし、大陸横断鉄道を選んでも最低でも2ヶ月半、ホーン岬経由なら北部緒州に到着するまでに半年はかかってしまう。その為、日本はすぐに行動せざるを得なかったのだ。
後に《チャールストンの戦い》と《サムター要塞の戦い》を経て南北戦争が開戦すると正式にアメリカ合衆国へと派遣されることになる遣米艦隊と遣米軍であるが、タイムロスを減らすために勇み足でその派遣を行った為、アメリカ合衆国より支援を拒否された場合にも備えられていた。
実際、アメリカ合衆国より支援を拒絶された場合は北米における日本最大の軍事都市である新原(史実アンカレッジ)に部隊を待機させる予定であった。
こうしてアメリカ合衆国とアメリカ連合国の問題に介入しようとする動きを隠そうとしないほど活発に動く大日本帝国と対照的に、極東の列強が動きを活発化させるに合わせて欧州の動きは低調であった。
アメリカ連合国はイギリスをはじめとした欧州列強に独立を認めさせ、欧州列強を味方に引き込む為に建国宣言から間をおかず、ウィリアム・ヤンシー、ピエール・ロスト、アンブローズ・マンの三名を中心とした外交使節を欧州に派遣していた。
特に、この外交使節はイギリスを味方に引き込む事を最大の目的としていた。これは、当時ではイギリスは世界最強の列強として知られており、アメリカ連合国はイギリスを味方につけることで北部緒州を威圧すると同時に、劣る国力を補おうとしたのだ。
17: ホワイトベアー :2020/07/02(木) 21:48:54 HOST:157-14-177-16.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
そして、アメリカ連合国の使節団や政府は、自らにアメリカ合衆国からの独立には法的な大義名分があり、さらにイギリスに対して綿花と言う強力な武器がある事からイギリスとの交渉の成功を確信していた。
そも、アメリカ連合国の独立はイギリスからの独立の理念に照らし合わせると、実は彼らに正統性があったのだ。なぜなら、アメリカ連合国の独立宣言の下地には『政府は被統治者の同意によるものであり,政府がその樹立された目的に対して破壊的になるときにはいつでも意のままにその政府を変革し,あるいは廃止するのは人民の権利である』と言う革命権理論と主権論があり、これは、アメリカ独立戦争時に独立政府が掲げた理念と一致するからである。
また、当時のイギリスの主要産業は軽工業であり、その材料である綿花はその八割をアメリカ南部からの輸入に頼っていた。それゆえにアメリカ連合国からの綿花の輸出がなければ経済的に大混乱に陥るとアメリカ連合国は考えていたのだ。
しかし、イギリスは南部緒州の、いやアメリカ連合国の思い通りには動かなかった。当時のイギリスの対応は、パーマストン内閣の外相であるジョン・ラッセルが直接会見に応じるなど、イギリスは表立ってはアメリカ連合国の使節団を盛大に歓迎する。しかし、実際に交渉に入ると、国交の樹立や軍事的、外交的支援などについては明確な約束は何一つしなかった。
なぜ、イギリスはアメリカ連合国に支援を約束しなかったか。その理由はいくつかあった。
まず第1に当時の欧州情勢である。当時の欧州ではヨーロッパに向けている野心を隠そうともしないフランス、ビスマルクの台頭によって影響力を日に日に拡大するプロイセン、その事を面白く思っていないオーストリアなど、その緊張が日に日に高まっており、イギリスの目もこうした欧州情勢に向いていたこと。
次に、もしかりにイギリスが南部緒州の味方についた場合、極東における唯一の列強であり、アメリカ合衆国の同盟国でもあり、介入する気を微塵も隠そうとしない大日本帝国がどのような行動をとるかがわからないと言うこと。
さらに、前年のアメリカ合衆国南部での綿花の大豊作から綿花自体が過多供給状態であり、そこにイギリス商人がこうしたアメリカの混乱を見越して綿花を大量に購入していた為、一年程度ならアメリカからの綿花の供給が止まっても問題ない事などもイギリスの不介入方針を後押ししていた。
そして、1861年4月12日、アメリカ連合国の使節団がイギリスから何らかの約束を引き出す前にアメリカ連合国暫定軍がアメリカ合衆国陸軍の籠るサムター要塞への救援艦隊に砲撃、南北戦争の火蓋が落とされた。
18: ホワイトベアー :2020/07/02(木) 21:53:41 HOST:157-14-177-16.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
以上になります。日本連合SSでつまってしまったのとリアルの仕事のストレス発散の為の息抜きとスティームで買った某ゲームによって湧いたインスピレーションをもって書き上げました本作。久々に文章を書いたので拙い場所もあると思いますがご容赦ください。そして誤字などが気になったところがあったら是非ご指摘ください。
最後にwikiへの転載はOKです。
最終更新:2020年07月03日 10:43