976: ホワイトベアー :2020/08/18(火) 13:31:09 HOST:157-14-177-16.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
日米枢軸ルート 第45話

1940年代後半の日本は前話等にて語った様に政治的混乱が多少見えはしたが、それでも徳川内閣の日本大陸改造政策による特需により経済は回復していた。そして、1948年に欧州連合にて核兵器が実用化されると、今度は国内での核シェルターの建設も熱心に行われるようになる。

核シェルターの建設は日本大陸改造政策とセットとなり、1950年代より政府の肝いりで進められることになる。政府は地方自治体と民間に対して重構造の建造物(学校や大型マンション、商業施設、スタジアムなど)を造る際に助成金を出すことによって、核シェルターの建設を促した。合わせて全面核戦争への対応として、学校での核戦争に対する授業の強化や帝国公共放送局を使っての国民への周知、国民の避難訓練なども今までより熱心に行われるようになった。

核シェルター推進という政府の方針を受けた地方自治体と土建業者は、助成金欲しさに競って核シェルター付きの建造物を建設するようになり、都市部での公共区画に大規模な設備が作られるようにもなった。しかも核シェルターは重構造なので、品質の高い建設用鉄鋼、コンクリートが必要となる。そうなれば当然、他の産業へと与える影響も大きくなった。こうして、大規模マンションや学校、市民体育館やこうしたものと一緒に整備された広場や公園、地下駐車場には隣接して核シェルターがあるのが日本の一般的風景となっていく。また、マンションなどの重構造建築物が少ない地方では家を新築する最に多く補助金をつけられていき、各自でシェルターを設置させる方針を取っていった。

また、核シェルターは地震など大規模な天災が極めて多いと言う日本の特徴にあわせて、公共施設に設営されるようなものは災害発生時に避難施設としても使えるよう設計されているものがほとんどを占めており、また、公共施設ではない所のシェルターも企業が消費者への利益還元や社会貢献という向きから、自主的にこうした避難施設としてに性質を持たせている場合もあった。

こうした大規模な公共事業にあわせて高い教育水準を背景に金の卵と呼ばれた良質で安い労働力(主にエネルギー革命により増加していた炭鉱離職者や軍縮によって退役した軍人)や世界水準を遥かに上回る高い技術力、海外からは異常と言われるほどの高い貯蓄率、景気拡大による消費意欲の拡大、オスマン帝国や世界大戦後に日本帝国の保護国となったトルーシャル首長国などの中東からもたらされる安価な石油、安定した投資資金を融通する間接金融の護送船団方式、徳川内閣の主導する総需要管理政策、政府の設備投資促進策による工業用地の増加、軍備縮小による国民の負担軽減、《高度技術の国外移転を規制する法律》や《先端設備の国外移転を規制する法律》など、海外への技術移転や設備の設置を厳しく制限する法律の制定によって日本国外での最新の技術を使用した製品の生産に対する制限などにより日本の経済は1950年代に入ると爆発的に拡大していった。

経済の発展による国民の所得増大と、それに伴う消費拡大は国内の設備投資への呼び水や、新技術研究への研究費増大の呼び水となり、後に世にでる様々な新技術の基礎を築いていく。さらに、この経済発展の基盤たる石油の安定した供給の為にインド洋で大きな影響力を持つ英連邦への融和政策など外交にまで影響を出していった。

アメリカでも政府の財政出動による大規模な国土開発への投資や減税政策、さらには軍の旧式装備の更新の為の大規模な軍備刷新などにより経済が刺激されていき、1949年には世界恐慌によって負うことになった傷を癒してダウ平均株価が1929年の水準に戻るレベルまでにアメリカ経済の回復に成功していた。

一方でこうした経済政策は両国の国債残高を増やしていったが、これにはハワイ条約機構全体での金本位制の廃止(それまではあくまでの一時的な停止だった)と言う荒業を使い大量の札束を生み出したり、日米で同額規模の利子の国債を売買するなどあらゆる手段をとり、対応する。

977: ホワイトベアー :2020/08/18(火) 13:31:58 HOST:157-14-177-16.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
また、この頃には農業機械の導入による合理化の進展により農業人口が激減していき、黒人が農業から締め出され都市へ移動した結果、アメリカでの都市化が急速に発展していった(日本では1930年代から都市化がすすんでいた)。こうした農業から閉め出された黒人はアメリカに進出していた日経企業などへの安価な労働力として使われていき、さらに住宅・自動車・家電製品といった耐久消費財が普及、大衆消費社会が本格化した結果、第三次産業がそれまでとは比べ物にならないほど発展していった。これによりアメリカでもホワイトカラー層が増大していくなど、高度産業化が1940年代後半から急速に進んでいく。

こうした日米の経済的繁栄を南北アメリカ大陸諸国やハワイ条約機構加盟国にも好影響を与え、これらの国にの経済的発展にも寄与していく一方で、これらの国では経済体制そのものが日米に依存したモノに変化していくなどの問題も産み出していった。

このような状況を象徴するかのように、これらの国々の道路では日本企業の車が走り、日本企業やアメリカ企業の家電が使われ、アメリカのハンバーガーチェーンや日本のコンビニエンスストアなどがそこかしこで営業していると言った風景が当たり前のように見られ、人々の生活様式も日米のものへと統一化されていった。後にこれがある大問題へと発展していくが、その事を知るものは僅かしかいなかった。

日米が経済的に繁栄を迎えていく一方で、日米と対立していた欧州連合では経済的な成長を遂げていた国とそうでない国が別れつつあった。

当時の欧州経済は欧州連合経済指針により、関税や国境管理、加盟国間の法制度の違いといった障壁が除去されていき、域内における労働者、商品、サービス、資本の移動の自由が確保することにより、大日本帝国、アメリカ合衆国に次ぐ世界第三位の市場を築づいており、さらに、日米と競合するもののイギリス連邦の市場も開かれていることから、事実上、欧州連合加盟国がアクセスできる市場は戦前のそれと比べると遥かに拡大していた。

また、各国国内では独ソの影響で行われていた人口増大策によってベビーブームと呼ばれる人口急増現象がおきており、さらに欧州連合では比較的余裕のある独ソが大規模な借款を実施する事で、欧州連合加盟各国でも公共事業が行われて経済を活性化と合わさり、世界恐慌で負ったダメージを完全とまではいかないが回復させる事に成功。

また、消費者の数が上がってきている事など、これも欧州経済の発展に寄与していたも合わさり、欧州連合全体で見れば爆発的とは言わないものの、力強い経済成長(経済回復)を見せていく。

こうした欧州連合の経済発展には戦後、アドルフ・ヒトラー宰相を始めとしたドイツ帝国政府が経済大臣でもあったゲーリングを更迭、前経済大臣であったシャフトを再び経済大臣に就任させたことも大きく貢献していた。

シャフトは経済大臣に復帰する条件として、それまでの軍事に偏っていた経済政策を一転させ、再び経済優先に引き戻すことをヒトラーに要求していた。

幸い当時のドイツ軍は満中紛争の経緯によって、国家の番犬にもなり得ない狂犬としてドイツ政府高官はもちろんヴィルヘルム三世や宰相であったヒトラーにも認識されており、

核兵器の実用化に成功するや否やプロイセイン軍人を粛清するためにと言う理由もあって、この提案は認められる。そして、軍備の近代化を名目として、平時兵力の1/3を削ると言う大胆な軍縮を実施。これにより、経済発展の為の余裕を確保することができ、この経済成長の恩恵を受けた国家となった。

そして、その経済は減税による消費や設備投資の喚起、大規模な公共事業による雇用の拡大、西欧戦争の勝利による外貨不足の解消と合わさって、1950年代後半に入る頃にはすでに世界恐慌の傷を完全に癒していた。

978: ホワイトベアー :2020/08/18(火) 13:35:10 HOST:157-14-177-16.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
最も、この経済成長はドイツにとってとある問題ももたらした。景気の回復によって労働力不足が目立ち始め、物価・賃金が急騰しはじめたのだ。これは純粋に経済だけを見れば極めてよい兆候であり、当初のドイツ政府はこれを福とみなしていた。しかし、このドイツ経済の過熱はとどまる事をしらず、ついには大規模なインフレと景気失速の危機を招いてしまう。

奏した事情から1960年代にはいると過剰なインフレを防ぐために増税や公共事業の縮小などインフレ抑制政策をとり、バブル経済の発生を防ぎ、緩やかに経済を発展させていく方に経済政策をシフトさせていくことになる。

この政策変更はドイツ経済が爆発的に成長する余地を奪ったものの、それと同時にインフレによる破滅と言うドイツ帝国がかつて大戦後に味わった最悪を避けることに大きく貢献し、ドイツ帝国経済は以後緩やかにだが堅実にその規模を伸ばしていく。

余談であるが、このドイツ帝国おける経済成長は市民生活の向上にも大きく貢献する。1940年代までヒトラーの肝いりで進められた工業重視政策もあり、この頃の欧州ではソ連を除きドイツ帝国の製造業を中心として欧州社会も大量生産・大量消費時代に入り始めていた。

その象徴がドイツの国民車として知られることになるフォルクスワーゲン・M1であり、新しく普及し始めていく電気式洗濯機やテレビ、冷蔵庫と言った(欧州の市民にとっては)新時代の家電群であった。

フォルクスワーゲン・タイプ1は元々、西欧戦争前から進められ、戦争の勃発により中止されていた国民車構想として開発が進められていた
高性能小型大衆車であった。

しかし、冬戦争や西欧戦争といった戦争の勃発、その後の軍備拡大路線によって一時的に計画は凍結されてしまっていたが、1950年代に入ると一転して計画が復活する。そして、この車両の登場によって自動車はもはや欧州の市民にとって高価な贅沢品ではなく、一般的な収入を持つ者なら誰もが手に入れられる消費財へとその立場を変えていた。

また、ラジオや映画に変わる新たな大衆放送メディアとしてテレビ放送に目を着けたドイツ帝国宣伝省の活動のあり、テレビ放送も急速に発展、1940年代には高所得者しか持てなかったテレビの普及率は僅か20年と立たず一般市民にも大きく普及していくなど、国民の生活も劇的に変化していた。

一方で、この頃の欧州連合は技術的に数十年は先を行く日米との対立が激化していたことから軍縮を進め、経済発展の余裕を何とかひねり出した独ソとは逆に、軍備拡大を同時平行して行っている国もあった。さらに当時の東南アジアではインドシナやインドネシアと言った欧州連合加盟国の植民地で武装蜂起などの激しい独立運動への対応の為に、フランスなどの一部ではGDP(国内総生産)の30%を軍事費とする国家が出るなど、莫大な軍事費によって経済の発展の足を引っ張られる国も出てきており、軍事費の増加によって経済発展の恩恵に預かれない国家もあった。

フランスやオランダと言った東南アジアに植民地を持つ国は、インドシナ戦争やインドネシア戦争と呼ばれる日米の支援を受けた独立派勢力との戦争を支える戦費と経済政策に割く予算の削減によって、経済発展による恩恵以上の損失を出しており、社会保障の軽さや重い税負担などに不満を溜めていた国民が国内で大規模なデモをおこすなど、政治的な混乱すらおきつつあった。

対して、ドイツやソ連など植民地を持たない、もしくは放棄させられた国家や、東ヨーロッパ、北ヨーロッパの植民地を持たない国では、当然こうした損害は存在せず、さらにドイツでは満中紛争の原因ともなったプロイセン軍人を気取るバカ達を粛清したことで一時的にではあるが組織が麻痺をおこしており、大規模な軍事行動をとることができないため、ソ連はそもそも植民地主義に反対的であった事から、オーストリアやオスマン帝国方面、極東に一定以上の戦力を張り付けている事を名目として、両国はフランスなどに借款などの経済的支援や物資の提供、海軍による支援攻撃など軍事的援助は行うものの、植民地を巡る争いに本格的に介入する事はせずにいた事もあり、日米よりかは劣るが欧州経済の旗振り役として順調に経済的発展を遂げていき、創設から僅か10年も立たずに欧州連合では戦勝国と敗戦国の格差が再び拡大しつつあった。

979: ホワイトベアー :2020/08/18(火) 13:36:10 HOST:157-14-177-16.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
無論、独ソもこうした事態を軽く見ていた訳ではない。通常の欧州連合加盟国に支払われる政府開発支援とは別に、なんとか絞り出した資金を経済援助の名目でこれらの国に融資するなどの能動的な支援や、根本的に状況を打開する為に植民地勢力と宗主国との間の仲介を行うなど、戦費の原因となる植民地の紛争を何とか軟着陸させようと試行錯誤を繰り返していた。

しかし、植民地の現状維持を最低条件とする宗主国側と、日米の支援もある事から強気に完全な独立を主張する独立勢力の溝を埋める事はできず、こうした仲介は失敗に終わってしまい、経済支援も根本的な問題が解決できていない為、その効果は限定的とならざるを得なかった。

結果、東南アジアに植民地を有している欧州連合加盟国の経済が世界恐慌が起きる前の規模に回復するのは植民地独立戦争が独立派の勝利で終結する1960年代後半まで待たなければならない。

980: ホワイトベアー :2020/08/18(火) 13:37:29 HOST:157-14-177-16.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
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最終更新:2023年07月23日 18:06