401 :yukikaze:2012/01/29(日) 19:24:13
では投下。なお、本SSでは、当初「1943年8月15日」に終戦を迎える予定でしたが
見事に超えてしまいました。深くお詫び申し上げます。

イギリスが宣戦を布告したことにアメリカ政府が苦慮していたころ、アメリカの世論は
文字通り蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
彼らにとっては、イギリスは「誇りも何もかも失った負け犬」という印象が強く、
まさか自国に噛みつく等とは想像もしていなかったからだ。

当然のことながら、「俺達の現状を見てまた裏切りやがったな」と、イギリスに対して
敵愾心を抱く者も多かったのだが、「この戦争をどうやって終わらせるつもりなんだ?」
という不安を覚えた者も多かった。
何しろ、腐ってもイギリスは大国である。今回の日米戦争の仲介をできるだけの政治力も
国力もそれなりに有してはいる。
だが、今回のイギリス参戦によって、最も仲介役として適した存在が消滅したのである。
ドイツとソビエトは国運を賭けた戦争で身動きが取れず、フランスやイタリアはドイツの
従属国であり、北欧諸国は親日で仲介役としては問題があった。
つまり、このままの状態で行くと、最悪、どちらかがどちらかを完全に屈服するまで
戦争が続きかねないという恐れが出てきたのである。

こうした状況に、最も敏感に反応したのが東海岸であった。
彼らにしてみれば、大津波による被害を回復することこそが、アメリカにとっての最優先課題なのに
前政権も現政権もその課題を果たすどころか、悪化させている有様であった。
特に沿岸部の地域は、大津波による人命の損失だけでなく、インフラの破壊や
衛生面での悪化からくる疫病の流行で、体力のない老人や女・子供が
多数亡くなったりしているため、ますます中央政府に対する不満を抱いていた。

同じように反応したのが南部地域でった。
これまで彼らは、自分達の地域は後方地域であり、戦渦は殆どないだろうと考えていた。
そして彼らは、南部地域を、津波で被害を受けた東部地域や、ハワイ陥落によって
最前線に立たされていた西海岸から撤退しようとする企業体を積極的に誘致することで、
これまで何かと冷遇されていた南部の政治的・経済的地位を押し上げようと画策していた。

だが、日本軍が富嶽を就役させたことと、イギリスが宣戦布告するとともにキューバを占領したことで
彼らは安全な後方地帯から、一気に最前線に躍りでたという事実に直面したのである。
この事態に彼らは、南部地域に最精鋭部隊を最優先で南部に駐留させるよう連邦政府に申し入れた。
後方地帯である南部が蹂躙されることは、戦争経済に致命的な打撃を受けることになり、
アメリカは戦争を失ってしまうというのが、彼らの主張であり、
そしてそれは確かに筋が通った意見であった。

だが、この申し入れに、西海岸が猛反発をすることになる。
西海岸側からすれば、最前線に立っているのは自分達であり、南部の主張を是とするならば、
自分達は失っても問題ない存在なのかという感情的な反感が沸き起こるのも無理はなかった。
何しろ、西海岸と南部が直面している戦力の差は、誰の目が見ても西海岸の方が脅威であることは
明らかであったからだ。

この西海岸と南部のこの対立は、偏に合衆国の戦力不足が根幹にあった。
中央政府が生き延び、優秀な官僚は生き残っていても、東海岸の沿岸沿いにあった
企業群の人員が失われたのはやはり大きかった。
企業の中枢部が失われたことで、その傘下の企業たちは大混乱に陥り、
生産体制が半ば崩壊してしまったのであった。
一例を挙げると、航空機エンジンを供給していたP&W社が津波によって壊滅してしまい、
航空機に対するエンジン供給の態勢が消滅。
これに対し、アメリカ政府はカーチスに命じて、P&Wの傘下企業を組み込むことでの
生産体制の復興を進めようとしたのだが、逆に混乱を助長してしまう結果に終わっていた。
また、企業の中枢部が生き残った会社も、沿岸部にあった工場が破壊されたことによる
部品供給の不足、更には生き残った工場に多数の会社が部品供給の発注を行い、
工場の生産能力が飽和状態を迎えてしまい、結果的に生産能力を減じさせる事例も多数生じた。

アメリカ政府もこの混乱を必死になって抑え込もうと努力をし、実際その努力は
(担当官僚複数名の過労死という代償の元)徐々に効果を示していたのだが、
ハワイ沖海戦とアラスカ占領による、西海岸の企業の疎開事業によって、
再び混乱が生じようとしていた。
(そしてその混乱は、富嶽の爆撃と弾道弾攻撃で更に助長されようとしていた)

402 :yukikaze:2012/01/29(日) 19:27:17
そしてそれに拍車をかけたのが、日本軍とアメリカ軍の兵器性能の違いであった。
小銃や火砲、それにトラックやジープといった類はまだよかった。
だが、陸戦兵器の主力である戦車と、そして陸軍と海軍が行動する上において
一番重要な戦闘機については、絶望的と言っていい差がつけられていた。

必死の思いで満州やハワイから帰ってきた士官たちの情報を勘案した場合、
日本軍の主力戦闘機である烈風に比肩する戦闘機は現在の陸海軍航空隊には一機種もなく、
戦車に至っては「ブリキの棺桶」呼ばわりされる有様であった。
アメリカ陸軍は、最優先命令でM4戦車の開発を命じ、同じく航空部隊でも
グラマンやカーチスに新鋭戦闘機の開発を命じたのだが、これがまた生産現場の混乱を促してしまい、
既存兵器の生産にすら悪影響を及ぼす有様であった。

結局、アメリカ政府は南部と西海岸の対立を抑えるために、以下の方針を固めた。

  •  駐メキシコ米軍1個軍(6個師団)の内、1個軍団を南部に派遣。
  残りも順次撤兵させ、南部に駐留させる。
  •  決戦兵団としてコロラド州に駐留していた中央軍からも3個師団を南部に派兵。
  •  カナダ駐留の4個師団より2個師団を西海岸防衛に呼び寄せる。

見て分かるように、現在の合衆国の苦しい台所事情が反映されている。
これは、開戦当時のアメリカの主力軍が、満州とフィリピン、メキシコに派兵されており、
本土にいた部隊はまだ編成途中か錬成中だったのが大きいのだが、
開戦序盤に満州軍が壊滅し、フィリピン軍も遊兵化した穴が未だに埋め切れていない証明でもあった。
そしてこの決定に、西海岸も南部も不満であった。
西海岸は、決戦兵団を減らしたことにより、自分達の負担がこれまで以上に増えてしまう事に対して。
南部は比較的装備の整った部隊を獲得できたものの、彼らが要求していた航空機部隊や高射砲部隊は、
生産性や他地域との競合の関係から望んでいた数(数個の戦闘機航空団と、10個近い高射砲旅団)が得られなかったことに。
アメリカ政府は「生産が軌道に乗り、師団の錬成も終われば、両地区に優先的に配備する」と明言したが、
両地域における連邦政府への不信感は増えることはあっても減ることはなかった。

「政府の連中の言葉を信じるのは馬鹿」

西海岸も南部もこの点については共通認識を抱いていたのが皮肉ではある。

このように国内が騒然とする中で、それでも最善の手を討とうとしていたアメリカであったが、
それも1943年10月に終わりを告げることになる。

一つは、ドイツが正式に義勇艦隊出撃を発表したこと(Uボートはオフレコで活躍していたが)
一つは、東海岸において戦争反対の大規模なデモが頻発したこと
そして最後の一つが、1個軍団が撤退して戦力が減少したメキシコにおいて、
反政府軍が遂に武装蜂起したことである。

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最終更新:2012年01月30日 19:09