372 :ひゅうが:2012/01/25(水) 04:35:11
※ 説明文オンリーです。
ネタ――閑話「小論~空気論~」
――コンセンス、すなわち共通合意事項というものほど日本人を特色付けるものはないだろう。
日本語では「空気」として表現されるそれは、生命が呼吸する大気と同様に確実にそこに存在する何かである。
これこそが日本人にとってのコンセンスである。
口さがない者は「集団的無知」と表現されることもあるが、これはある種の集合的無意識としても形容できるだろう。
彼らはある一定の思考法則を共有している。この法則は文化あるいは価値観であるが、人類としての本能的なものにこれが加えられることで彼らははじめて「日本人」となる。
興味深いのは、この「空気」を共有することを彼らが「日本人」たる条件とみなしていることである。
血統ではなくこの「空気」をもって日本人は日本人たるからこそ、彼らは遺伝子操作や人体の積極的な機械化、また共同体内部への異文化や血統を別にする民族の受容にも踏み切ることができたとさえいえるのである。
しかし、この「空気」を異にする、あるいは「空気」を変更するかまったく自分本位に書き換えようとする異物に対しては「空気」は完全な排除行動を起こす。
まさしく、日本語でこの場合の「空気」に対応する動詞が「読む」であるように書き換えることは許されない。
この点において日本人は教条的である。
共通認識も時の移り変わりによって実情にそぐわなくなるものが出てくるが、日本人はこの時現実に即して「読み方」という解釈を変更する。
それは各個人において基本的に自由であるが、文化的伝統と普遍的といえる論理上の帰結に則ってそれは収斂していく。
各個人はその読み方の範囲内において自己を規定するが、あくまでも心のうちと実際のあり方を分離しておく。
このようにして日本人は共通認識を保ったままでゆっくりとその解釈を変更するのである。
それでも矛盾が生じる場合はさらなる解釈が加えられるが、いよいよこれが循環論法的な矛盾の塊となった場合、日本人はまるで本を読み捨てるようにそれらあれほど教条的に変更を加えなかった空気を脱ぎ捨てる。
後に残るのは、解釈の変更によっても変更されなかった空気のエッセンスのようなものである。
これに即する「新しい空気」あるいは「風」と呼ばれる新たなコンセンスを探す場合において、日本人はまったく功利主義的に振る舞う。しかし、引き継がれたエッセンスのような芯柱は絶対に変更しようとしない。
往々にしてこの「風」は、各個人の中において秘められていた内心より発することが多いがその発現は外的圧力によりなされることが多い。
たとえば、かつて彼らが日本列島と呼ばれる弧状列島に居住していた際に必ず襲いかかってきた天変地異や突発事態――戦争や外敵の発見などがそれである。
圧力の結果として「風」は論理的な帰結と文化的な伝統に則り収斂する。
この過程において、各個人の意見に加え、それまで認識されてなかった新たな知識や学問が一気に拡散し普遍化していく。
こうして首尾よく新たな風を見つけた場合はそれを「空気」に吹き込み、日本人は上述の行為を繰り返すのである。
ここで重要なのは、日本人はこの新たな「風」の中にエッセンスを解き放ってしまう。
そしていずれ来るであろう新たな吹き込みの際には「風」の中のエッセンスをその芯に取り込み次に備える。
以上のようにして、日本人は古い伝統を芯の中に蓄積しつつ新たな革新を取り込むのである。
【中略】
宇宙暦788年の接触と、その後10年ほどは日本人にとり、新たに発見された知識の「評価期間」であった。
そしてそれが完了した時、彼らが纏う「空気」は内部に何を取り入れ、そして何を排除すべき(そして排除すべきものの中からは何を取り込むべきか)かすでに規定していたのである。
あとは、その認識を確定させる一事があればよかった。
時に、態度が豹変するとされる日本人の反応の過敏さの裏では、以上のような事態が進行していたのであった。
つまり、その後の自由惑星同盟と銀河帝国の扱いは彼らにとってはただ決められたことを忠実に実行しただけだったといっても過言ではないのだろう。
ヤン・ウェンリー著「『空気』と日本人・幻想と適応」より
最終更新:2012年01月30日 20:28