403: 弥次郎 :2020/11/16(月) 22:27:35 HOST:p1537109-ipngn14201hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp

日本大陸SS 漆黒アメリカルート 「戦時交錯エトセトラ」Case.1 パリ、あるいは現代のゲヘナ

 パリ、それは花の都。
 欧州史において燦然と輝くフランスの覇権時代を象徴するモニュメントが並ぶ街。
 凱旋門、エッフェル塔、ヴェルサイユ宮殿、ノートルダム大聖堂、パレ・ロワイヤル、シャンゼリゼ通りなどなど、様々な名所が並ぶ。
 しかして、それはフランスが永遠である象徴ではなく、過去の歴史を伝えるものである。つまり、過去から未来に受け渡されるバトン。
過去の人物や時代がどのように動き、どのように変遷したかを物語る証人であり、歴史を垣間見るための場所。
 長々と語ったが、要するに、今日まで受け継がれてきたのは、そのための努力がなされ、実行されてきたからに他ならないのだ。
 そして、本来ならば戦火に覆われながらも連綿と受け継がれていくそれがふっつりと途絶えることになったのは、ある意味でフランス自身の責任といえるかもしれない

 第一次世界大戦、あるいは欧州大戦においてフランスがドイツの電撃戦において圧倒されたとき、
フランス政府は混乱の極みにあった。彼らの中の戦争というのは当然ながらレギュレーション順守のものであった。
すなわち、戦線は遠方で形成され、フランスの首都であるパリは安全だと思い込んでいたのであったためだ。
 だが、それは裏切られ、ドイツ陸軍は文字通り電撃的に防衛線を突破、首都を目指して進撃した。
 よって、フランス首脳部に許されたのは、可能な限りの機密の破棄もしくは持ち出しをして、パリから逃げ出す行為のみであった。
まあ、ココまでは間違いではないのはたしかだ。パリには政府中枢があり、そこには国家を担う人材がいる。
危険が迫れば避難するのは当然のことであるし、自然な対応だった。

 問題は、ドイツがパリを占拠してからであった。
 ドイツ軍は電撃的に制圧をしてのけた後、抵抗する勢力を排除し、パリの保全に努めることになった。
仮にも敵国とはいえ首都であり、敬意を払うべき遺産が多々有り、また、前線基地をおくのにふさわしい立地である為だ。
よって、ドイツ軍の手により動かせる美術品や調度品などは安全な後方へと移送されることが決まり、事実そのように動いていた。
 また、パリ周辺はともかくとして、大規模な重火器の運用を控えるように通達を出し、外縁部に陣地を形成するように支持を出していた。
ドイツ軍としては、フランスが奪還を試みるにしてもパリをいきなり焼け野原にはしないだろうという打算がある程度あった。
そして事実それは正しかった。パリからたたき出されたフランス政府はパリの奪還を行うにあたり、重砲などの使用を最後まで選ばなかったのだから。

 その代わりのように、フランスは大量の歩兵を市外へと送り込むことになった。これが、パリの荒廃の第一段階となった。
最初こそパリの郊外で受け止められていたのだが、フランスもさるもの、パリを流れるセーヌ川を利用して潜入するなどした。
あるいは、カタコンブ・ド・パリと呼ばれる地下の墓地を経由するなどして、侵入を試みたのであった。
かくして、パリは押し寄せる数だけは多いフランス兵により必然的に市街地戦へと発展することになり、市街地は血と肉と硝煙にまみれ、死体が転がるようになった。
 他にも荒廃の原因になったのはセーヌ川を通じて流入した死体やその体液などだ。パリ周辺での戦闘でできた死体は場所によっては川を通じて流れ込む。
さて、死体は何で構成されているか?元素記号で言うならばC・N・P・S・H・O・Naその他数多くの元素を含んでいる。
つまり簡潔に言えば、河川の状況は控えめに言って富栄養化状態。絶えず供給される死体によって河川でありながら水質が自然回復しないのだ。
留めに、底部にたまった死体などによって流れも滞るわけで、流れ自体も悪化する。
 よって、セーヌ川はドイツ占拠後になると耐え難い汚臭が発生し、さらには外観も悪化するという状況に見舞われた。
さらには死体の腐肉を求めて鳥などが集い、悪化した水質の川にはその環境に適した虫が増え始めることになる。
これには占拠したドイツ軍さえも閉口するしかない。当初こそ河川の汚物除去を行ったが、やがて追いつかなくなる。
死体が山となれば必然的に疫病も湧くことになるし、大いに士気にかかわることになる。

404: 弥次郎 :2020/11/16(月) 22:28:23 HOST:p1537109-ipngn14201hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp

 そこで、ドイツ軍はやむなく最前線を後退させることを選んだ。こんな状況のパリを飲み込んだままではやがては戦争の帰結にさえ関わる、という判断だ。
無論、パリから前線をさらに押し上げるという案もなくはなかったのだが、重要拠点であるパリがこの有様では使うに使えない。
むしろ、戦線を押し上げて維持するのにパリが使えないというのはどうしても痛すぎる。代替できる敏があったとしても分散せざるを得ないのだ。
それに、軍という人の活動が活発なところで疫病が流行ればどうなるか程度の知識はドイツ軍にも存在していた。

 よって、ドイツ軍は防衛ラインをセーヌ川沿いに再設定。渡河する兵力を水際でたたき、上陸されてから一定の距離以上に近づかせないという方針をとった。
フランス軍が川を渡ろうとすれば、あるいは戦線を維持しようとすれば、ドイツ軍と同じく呪われたセーヌ川に触れざるを得ない。
業腹ではあるが、相手がセーヌに沈むならばと言う判断が下された。これで状況的にはイーブンである。
 さて、ドイツの戦線後退に喜び勇んで追撃をかけたのは、当然のごとくフランスであった。
 既に混乱著しく、具体的な奪還計画を立てる算段すらまともに出来ないフランスは、とかく突撃により解決を試みた。
だが、セーヌ川という防壁を上手く使い、市街戦を展開するドイツに対してどうしても犠牲が多く出た。
無論ドイツ側にも被害が出たことはいうまでもないことだが、そのキルレートはひどいものであった。
 かたや装甲車も戦車もないままにひたすらに突っ込むフランス軍。
 かたや、川と言う防御を上手く活用し、重砲こそないものの、機関銃や地雷や戦車などを効率的に配置した防御陣地で待ち構えるドイツ軍。
さらに基本的にパリ周辺の制空権を握るドイツ軍は、押し寄せて来るフランス軍の補給線に対して偵察や攻撃を実施。
WW0と称された日露戦争におけるクロパトキンと同じような目にあわせることができていた。その犠牲者の数がどちらが多いかなど、明らかだ。

 ドイツ軍も、当初は楽観していた。
 いかにフランス軍が慌てているとはいえ、他の方面、すなわち、オルレアン方面やアミアン、カレー方面で攻勢を受けている最中なのだ。
調べた限りではパリの中央政府は逃げ出していたようであるし、すぐにパリ奪還の無駄な攻勢を諦めるのだろうと。
つまり、無駄に戦力を投じるよりも、やがて参戦してくるであろう英国の増援まで持久戦を展開するのだろうと考えた。
 しかして、フランス軍の攻撃は一向に止まない。
 それがしばらく続いて、ようやくドイツもフランスの非合理的な、あるいは場当たり的な対応に気が付いた。
相手は戦略も何もなく、ただひたすらに攻めることしかできないのだと。それは敵兵の死体を検分すればうかがえた。
ばらつきのある装備品、酷ければ銃も持たない兵士が散見し、明らかに若い兵士が多く見受けられた。

 もしや、と思い至ったが、もはや止まらない。
 フランス軍は「ドイツからのパリ奪還」が目的となり、それに固執したのだ。
 ことこれに至っては、ドイツ軍も手加減はできなくなった。フランス軍から鹵獲した兵器も含め、かなりの数の戦力をパリに配置する羽目になった。
 そこからのことはもはや語る必要もないだろう。繰り返される攻撃。それも昼も夜も問わない、散発的だがひたすらに続くそれら。
ドイツ軍も疲弊を避けえず、いわゆるシェルショックを発症する兵士までも現れる始末であった。
 当然のことながら、パリはどんどん荒廃していくことになった。重砲は使われない。しかし、重機関銃や口径の小さな砲は使われるし、爆発物もつかわれる。
防衛のため、ということでガスの使用も行われたし、もはやパリという街に斟酌する余裕というものは消え果てた。
 美しき都、花の都たるパリは、もはや面影をわずかに残すばかりだった。
 それでもなお、フランスは止めようとしない。それは、日英が参戦し、戦力の逐次投入を避けるようにと進言してもなお。
 幼年兵さえも投じられ、もはや手段が目的とかしてもなお。それにまつわる悲劇が積み重ねられてもなお、戦争は止まらない。

 ここは、フランス、パリ。ここは現代のゲヘナ、煉獄。
 血まみれの輪舞は続く、あくなき人の欲望の尽きる、その時まで。
 あるいは-そう、踊り手のいなくなる、最期の時まで。

405: 弥次郎 :2020/11/16(月) 22:29:54 HOST:p1537109-ipngn14201hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
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地獄を望んだのは、人か、悪魔か、はたまた神であろうか…

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最終更新:2025年07月09日 18:29