263: モントゴメリー :2020/12/18(金) 00:17:35 HOST:116-64-111-22.rev.home.ne.jp
FFR神話——練習巡洋艦「ジャンヌ・ダルク」——

「ジャンヌ・ダルク」
日本人を始めとするOCU諸国の人間がその名を聞いて真っ先に思い起こすのは「オルレアンの乙女」であろう。
(ゲーム、史実の違いは置いていく)
しかし、これが本場であるはずのフランス連邦共和国(以下、FFR)では全く違う答えが返ってくる。

『学問と教育の女神にして、子供たちとその未来を守護するモノ』と。

フランス人にとってジャンヌ・ダルクとはすなわち練習巡洋艦であり、リシュリューを最高神とするFFR神話に属する女神の一柱なのである。
そして彼らにとって、練習巡洋艦ジャンヌ・ダルクは信仰の対象となるに相応しい偉大な存在なのだ。

練習巡洋艦ジャンヌ・ダルクは、フランス初の教育専用艦として1931年9月に竣工した。
そして士官候補生たちの教育の場として活躍していた。
第二次世界大戦開戦時はダカールを母港としており、本土失陥寸前にツゥーロンに入港。
そこに集まっていた士官学校生徒たちを回収して脱出している。
その後はジャンスール提督旗下の自由フランス海軍に帰属し戦争を戦い抜いた。

そして運命の第二次ゼーラント海戦直前、仏英連合艦隊にジャンヌ・ダルクも参加していた。
しかし、ジャンスール提督は突如ジャンヌ・ダルクに艦隊離脱命令を下したのである。
もちろん、ジャンヌ・ダルクの艦長はジャンスール提督に抗議した。

「提督!何故本艦に離脱を命じられるのですか⁉小官に、戦友を捨てて逃げた卑怯者になれと言うのですか!!」
「25ノットしか出せない鈍足艦など足手まといでしかない」
「⁉」

その理由がこじ付けであることは即座に理解できた。
確かにジャンヌ・ダルクの最高速力は25ノットとされているが、やろうと思えば28ノット弱は出せる。
確かに巡洋艦としては物足りないが、「足手まとい」と言われるほどではない。それを言うならば、アルザス級は23ノット前後ではないか!?
火力面を見ても、新鋭軽巡ラ・ガリソニエール級に準じるレベルだ(15.2㎝9門に対して15.5㎝8門)。
最後の決戦に参加する資格は十分にあるはず。それなのに何故…?

「…各艦に乗艦している士官候補生及び最年少の少尉、それから士官学校教官の経験がある者を離艦させる。
貴艦は彼らを乗せて離脱しろ」
「提督…それは……!」
「貴艦には子供たちを、フランス海軍の未来を託す。彼らを護りぬいてくれ、頼む」
「……この命に、代えましても。その任務、務めさせていただきます」

こみ上げる嗚咽を押しとどめながら、ジャンヌ・ダルク艦長はジャンスール提督に応えた。
数時間後、士官候補生たちを乗せたジャンヌ・ダルクは艦隊から離脱していった。
彼らも最後まで離脱することを拒否していたが、ジャンスール提督から

「将来に、より強力で偉大なフランス海軍を建設せよ」

という命令を直々に受け、泣きながらジャンヌ・ダルクに乗り込んできた。

「これでいい、死ぬのは年寄りだけでいいのだ。子供たちは生きねばならん」
「我々が今日全滅しても、彼らがいればフランス海軍は『明日』を迎えることができます」

離れていくジャンヌ・ダルクを見ながら、リシュリューの司令塔でジャンスール提督と艦長はそう語り合ったと生存者は伝えている。

海戦の結果はここでは語らない。
ジャンスール提督以下「勇者」たちは「伝説」となり、トリコロールを掲げた黒鉄の乙女たちはリシュリュー以下数隻を残しオセアンの艦隊に転属した。
フランス海軍は、この時一度滅びたのである。
そして、ここからジャンヌ・ダルクの真の戦いが始まった。

264: モントゴメリー :2020/12/18(金) 00:18:05 HOST:116-64-111-22.rev.home.ne.jp
戦後、FFR体制の下で海軍は再建への長い道のりを歩むことになる。
そして、その最前衛に立ったのはあの日ジャンヌ・ダルクに乗って生き延びたかつての新品少尉や士官候補生たちだった。
彼らはジャンスール提督の遺命を果たすべく、懸命に職務を遂行していった。

もちろん、ジャンヌ・ダルク自身もまた安穏としていたわけではない。
「練習艦」の本分である士官候補生たちへの教育のみならず、「巡洋艦」としてリシュリューらと舳先を揃え出撃する事も多々あったのである。
何せ、ジャンヌ・ダルクはFFR海軍黎明期においては「唯一の巡洋艦」であり、べアルンの後継者たる新型空母ができるまでは「FFR海軍席次第三位」でもあったのだ。
基準排水量6500トン弱という小柄な体躯に比して、その務めは巨大であった。
それでも彼女はその重責に屈することなくその後30年以上にも渡って任務を果たし続け、数多の士官候補生たちを育て上げた。
激務により彼女の船体は悲鳴を上げていたが、「暗黒の30年」の夜の中を彷徨っていたFFRには後継艦を建造する余裕は無かったのである。
また、同様の理由で彼女の書類上の肩書は最後まで「軽巡洋艦」であった。

彼女に安息が訪れたのは、1980年代に入ってからであった。
「美魔女化改装」を施されたリシュリューを筆頭に、新世代の艦艇たちが揃い始めたのである。
ここに、フランス海軍は名実共によみがえった。ジャンヌ・ダルクはジャンスール提督に託された任務を果たしたのである。
練習巡洋艦の新造も決定し、ようやく彼女もお役御免となったのである。

ジャンヌ・ダルクの半世紀を超える生涯を語る上で欠かせないエピソードがある。
彼女が最後の航海を終えドックに入った日、ある「事件」が発生した。
海軍軍令部総長がお忍びで来訪したのを皮切りに、続々と海軍士官たちが集まってきたのである。
まるでFFRヨーロッパ州にいた海軍士官が全員集結したかのような勢いであり
それだけにとどまらずアフリカ州やエストシナ、航行中の艦艇からも電報が引っ切り無しに届いていた。
彼らは異口同音にこう言った。

「ジャンヌ・ダルク、今までお疲れ様。そしてありがとう、『私の先生(Mon professeur)』」

そう、FFR海軍に属するほぼすべての士官は彼女の「教え子」だったのである。

「リシュリューが生き残ってくれたからこそ、フランスとフランス海軍はよみがえることができた。
しかし、ジャンヌ・ダルクと、彼女が護り育てた人材がいなければその道のりはより険しいものとなっていたことは間違いない」

後世の歴史家はジャンヌ・ダルクの功績に対してこう評価する。

そしてFFR神話が形作られる時、ジャンヌ・ダルクが女神の一柱として含まれていたのは必然であった。
練習巡洋艦としてFFR海軍の礎を築き上げた功績から「学問と教育の女神」の属性が。
第二次ゼーラント海戦での逸話から「子供たちとその未来の守護者」という属性が与えられた。
今日、フランス人の親たちは子供たちにジャンヌ・ダルクのシルエットや紋章をあしらった護符を持たせるのが一般的である。
また、大人であっても何がしかの試験を受ける前夜にはジャンヌ・ダルクに祈りを捧げてから就寝するのが習わしだ。
おそらく、フランス人にとってリシュリューに次いで親しまれている女神である。

265: モントゴメリー :2020/12/18(金) 00:19:08 HOST:116-64-111-22.rev.home.ne.jp
以上です。
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今夜はもう寝るので
解説と感想返しは明日の夜でご容赦を
(なんか毎回これ言ってるな)

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最終更新:2020年12月20日 10:24