812: ひゅうが :2020/12/22(火) 23:29:42 HOST:p361175-ipngn200307kouchi.kochi.ocn.ne.jp
――西暦1923年9月1日
順調に進むかと思われた日本海軍の再建に一時のブレーキがかけられることになる
関東大震災の発生がその一撃となった
前年のワシントン海軍軍縮会議が、艦隊戦力が大きく削られていた大英帝国ならびに壊滅状態からの復活を急いでいた日本帝国の大反対によって流産していたところに、極東経済の中枢たる帝都東京壊滅という悲劇がきたのである
さらには、横須賀海軍工廠では建造中であった初の航空母艦「竜飛」が船台から横転し廃艦の憂き目にあう
経済発展に伴って増勢されたばかりの三井造船横浜工場では、建造中の革新的な巡洋艦が2隻とも廃艦に至る被害を受けていた

アメリカ議会および国務省は歓喜した
死者3万人に達するという想像以上の被害を受けていた日本の帝都に対して深い哀悼の意を表するとともに、莫大な復興経済援助を約束
その代償として日本人が大陸にもついくつかの中規模利権とともに、オホーツク海の無害通航権を要求したのであった
さらには「今は軍縮の途につきませんか?我々も一時紳士協定を結んで建艦を停止してもよいです」という余計な一言も付け加えた
アメリカ人はそうは考えていなかったのだが、国際的な外交儀礼からいえば明らかに恫喝であった
事実、安全確保名目でフィリピンのキャビデ軍港には第2次GWFと呼ばれる太平洋艦隊の戦艦群と大量の支援物資を満載した輸送船団が待機していた
そして、日本側はこの提案に諸説紛糾するも――

「朕は、戦火の災禍を自然の災禍に加えて朕の臣民らを苦しめることはしたくはない。朕の責により、受諾せよ」

御前会議において、大正天皇のこの強い意志表明によってことは決した
ここまでの屈辱をなめさせられた日本帝国政府は覚悟を決める
友好と親善に顔をほころばせる東京市民とは裏腹に、政府は天皇の御意思をメディア各社に発表するとともに「ありがたく支援をいただく」と返答した
結果として、帝都復興計画は米国からポンとプレゼントされた(ドイツ支援のはずが内乱発生とフランスのラインラント併合で宙に浮いていた)10億円を元手として日本国内からもかき集められた総額50億円にも達する巨大な計画へと化けた
当時の活況を呈する東亜経済は、20年前には不可能だったこの奇跡を可能にしたのである
もう一方、札束で顔をひっぱたく真似に怒りを貯めていたもう一国であるところの大英帝国に日本政府は接近。
協調してアメリカとの間で軍縮会議という戦場を戦うこととなる
翌年、1924年に締結された東京海軍軍縮条約は、隻数主義ならびにトン数主義を採用
アメリカがその建艦計画を達成するかわりにその総トン数と隻数、あるいは1914年8月時点のそれのいずれかのうち大きな方を上限として「最大で米国新規建艦分に対して10割(英)と7割(日本)」の建造を許す。その代償として現在建造中の艦の主砲口径制限は撤廃するも、新たな起工は10年間停止するという妥協案が成立する
結果としてこのわかりにくい規定のために日本の海軍力は対米6割に「制限」されるも、日本側はほくそ笑んだ
なんとなれば米国自身が自らの手を縛り、海軍力において日本側は米国の半分以上を確保できたからだった
ついで、日米英三国は10年間の時限不戦条約を締結(のちにパリ不戦条約に発展)、対米不攻撃特別条項を設けたうえで日英同盟は骨抜きにされつつ存続という結果が生まれた
のちに判明したところでは会議の盗聴と暗号解読をネタに米国側のエドウィン・デンピ海軍長官およびハーディング大統領が譲歩したというのが真実であるが、ともかくも「世界一の海軍を持てる」ことに米国民は高揚した
一方、わかっていたとはいえ英国にとって厳しい結果になった軍縮条約は、日英間の連帯関係を強めていくことになる
国力的にも、もはや英国は同盟国日本の軍事力と成長著しいアジア市場なくしては大英帝国を維持できなかったからである

813: ひゅうが :2020/12/22(火) 23:37:40 HOST:p361175-ipngn200307kouchi.kochi.ocn.ne.jp

日本帝国は、結果として米国新聞がいうところの「世紀の取引(グレート・ディール)」における最大の受益者になり遂せた
それまでの高度経済成長に伴い顕在化していた前近代国家としての歪みを解消し、かつさらなる経済成長の種がまかれたからである
そして太平洋上での防備こそ削減されたが、したたかな日本海軍はこれまでの10年で3倍以上に拡大していた民間の造船所群に対して復興予算名目で補助金をぶちこみ、帝都復興からさらに発展した「日本列島改造計画」「国土均衡発展計画」に基づき設けられた3本の国土軸の上に膨大な交通インフラと工業インフラが生まれ始めていた
まるで未来を知っているかのように続く日本の工業技術的な発展は、軍縮および2度目の「臥薪嘗胆」でさらに加速されてしまったのだ

1920年代を通じて続いた日本経済の拡大は、1922年にはイタリアを、1926年にはフランスを追い越し、1929年にはついにイギリスの9割にまで日本経済を飛翔させていた
それもこれも、日本側が協力した中国大陸の門戸開放の代償としてアメリカ人が大いなる自信のもとにある程度の関税引き下げに同意していたからだった
絹に続いて日本人絹が開発した合成繊維ナイロンは欧米の市場を席捲
世界に先駆けて開発された三極式真空管とそれを合成樹脂で固めたことにより安定性を増した高性能ラジヲは本家のエジソン社を駆逐する勢いで米本土に流れ込みはじめた
さらにちょうど近代化の時期に達していた蒸気機関車群についても航空設計および流体力学という新たな分野から立ち上がった新特許が先を制し、だれも考えていなかった日本製ボイラーが大挙して中国大陸や米本土、そして欧州へ輸出されるという逆転現象を発生させた
そして大陸需要をもとに日本本土に誘致されたゼネラルモータースの製造工場からオートメーションシステムを学んだ日本人たちが自動車までもを国産化しはじめるのに時間はかからなかった
もちろん、東アジアの海をゆくのは俗に「護送船団方式」といわれる手厚い補助金で守られた日の丸船団だ

かくて1920年代は日本経済のひとつの黄金期となったのであった


日本海軍のその後についても付け加えておこう
軍縮条約に伴って日本海軍は「紀伊」型戦艦3番艦および「阿蘇」型高速戦艦3番艦以降の建造を断念
長門型以前の旧式戦艦の一部として建造枠を確保し、合計12隻の戦艦を現役として確保した
(練習戦艦として伊勢・日向)
建造中止とされた「紀伊」型および「阿蘇」型あわせて4隻は航空母艦に改装とされた

米国が建造する戦艦20隻の、ちょうど6割である
だが日本側にとって幸いなことに、同じく6割とされた補助艦艇群は米国が大戦中に建造しすぎた平甲板型駆逐艦に加えて、装甲巡洋艦の枠を転用したことから大きな余裕を得ていた
もっとも、日本海軍はこれをすべて埋めてしまおうなどとは思っていない。
なんとなれば建造設備自体が大量にあるのだ。一定数を保有する傍らで戦時建造してしまえばよい、そんなことすら彼らは考えていたのである

次なる海軍軍縮条約には、再びの突然の大事件が必要だった

815: ひゅうが :2020/12/22(火) 23:44:34 HOST:p361175-ipngn200307kouchi.kochi.ocn.ne.jp
というわけで、「バブルにはバブルをぶつけて」みました
やったぜ
18インチ砲艦4 16インチ砲艦8の連合艦隊だ。どうだみんな嬉しいだろう?

敵は16インチ砲艦16 18インチ砲艦4だけどね!

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最終更新:2020年12月25日 18:47