426: 名無しさん :2021/01/12(火) 00:02:16 HOST:FL1-133-203-9-209.myg.mesh.ad.jp
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夢幻会が無い中で限りなく大陸日本軍にバフを掛けた場合の戦前戦車群(仮)重戦車編
兵装:九一式七糎半戦車砲(21口径75mm戦車砲)×1 / 主砲塔
:八九式三糎七戦車砲(45口径37mm戦車砲)×1 / 主砲塔
:九〇式車載重機関銃(7.7mm機銃)×3 / 副砲塔
装甲:30+30mm(最大)
重量:33.5t
速度:28km/h
1920年代末から1930年代初めに開発された日本陸軍の重戦車(開発当時はロ号重戦車)
先立つ1920年代半ばに試製一号戦車としてドイツとの協力の下、
史実独製グローストラクトーア相当の戦車を重戦車として秘密裡に開発していた日本陸軍であったが
イギリスが世界初となる多砲塔戦車、インディペンデント重戦車を開発するとこれに強く触発され、
塹壕と機関銃、野砲を組み合わせた野戦陣地を突破しうる多砲塔重戦車の開発を開始。
それは1930年初めに結実し、満州事変の直前である1931年に九一式重戦車として採用された。
見た目は無骨な和製NbFzであり、距離1,000mで三八式野砲の射撃に耐えうるように
二枚の30mm装甲板を重ね合わせた60mmの正面装甲を誇っていた。
本車は強力な次世代の重戦車として期待が寄せられていたものの、
満州事変に投入された本車は八九式軽戦車(当時)と比較して12km/hも低速であったことから
同戦車やトラックなどと行動を共にできず、現場から問題視する声が相次いだ。
また野砲に耐えうる分厚い装甲は有力な火砲をほとんど持たない中国軍に対しては過剰であり、
『牛刀割鶏』として急速に期待が薄れていく結果を生んでいる。
結局、満州事変終結までに生産された60輌ほどで生産は終了し、
以降は八九式軽戦車の生産にリソースは全て割かれることとなった。
なお生産分については支那駐屯戦車隊の一部を改編した独立重戦車大隊に集中配備され、
なんだかんだ第二次世界大戦まで運用されている。
ちなみに実際に運用した側の評判とは裏腹に、如何にも強そうな見た目である本車は
満州事変において目撃していた世界各国で大きな衝撃を誘うこととなり、1930年代末まで
(運用側の意見を聞いたドイツを除く)各国の戦車開発及び配備計画に
多砲塔重戦車を存在させ続け、迷走させる副次効果を生んでいる。
特にソ連は史実よりも多くT-35重戦車を製造した他、優秀なKV-1重戦車があるにも関わらず、
SMK重戦車やT-100重戦車の開発と配備も並行するなど、頗る迷走したことが現代では判明している。
最終更新:2021年01月19日 19:54