15: 名無しさん :2021/01/17(日) 17:29:33 HOST:FL1-133-203-9-209.myg.mesh.ad.jp
戦後ドイツ飯という面白そうなネタがあったので便乗
2レスほどお借りします


日本大陸 無幻世界(仮)支援ネタ 第一次世界大戦後のドイツ飯

  • 日本パン(独:Japanischbrot / J-Brot)
  第一次世界大戦後のドイツなどの旧中央同盟諸国において生産されていたパン。Jパン。ヤーブロートとも。
  大半は小麦粉を主体に一定の割合で米粉を加えたものであったが、さらにジャガイモやサツマイモの粉を添加したもの。
  また小麦を使わず、米粉と上新粉(うるち米由来)だけを使ったものなども存在する。

  第一次世界大戦後の欧州では凶作や戦災を理由とした食糧難が発生しており、それを補うべく日本で生産された穀物類が大量に流れ込んでいた。
  しかし当初、需要の高かった小麦類はもっぱら当時同盟国であった英国や頻りに支援を要求するフランス(※1)などに優先的に回される傾向にあり、敗戦国であったドイツなどに提供されるのは馴染みが薄く、欧州では余りがちの米であった。
  そこでドイツ当局が戦時パンの要領で製粉した米で小麦をかさ増しする形でドイツ人にも馴染みのあるパンとして提供する方針を打ち出し、人道支援のために派遣されていた日本の関係者と共同で作り出したのが始まりとされる。

  製パンから日数が経つと純小麦パンよりも食味が低下する欠点(※2)はあったが、それまで流通していた戦時パン(Kパン)に比べれば遥かに上質だった。
  また色合いが白っぽかったことから白パンの一種と認識され、巷では好評を博した。
  結果、それまで流通していた戦時パンを瞬く間に駆逐し、一時期はドイツのパン消費の過半を占めた。
  食糧難が過ぎ去った現代においては従来のパンの流通再開に押されて流石にシェアを減じたものの、それでもなお根強い人気をドイツ一帯で誇っている。


  • 牛乳シチュー(独:Milchgeschmorte)
  第一次世界大戦後のドイツで生まれたクリームシチューの一種。ミルヒゲシュモールテ。
  牛乳シチューと称されているが、本当に牛乳を使い始めたのは終戦からしばらく経って食糧事情が落ち着いてからの話であり、当初のレシピでは人道支援物資として日本から大量に流入していた粉ミルク(※3)が用いられていた。
  なお腹持ちを高めるとろみ付けとして、米粉を添加するという部分は現在でも変わっていない。

  利用された具はクズ野菜や肉の切れ端など多岐に渡るが、最も多かったのはカブラを具にしたものとされる。
  当時、カブラの冬の反動もあり、ドイツ全体で評価が低下していたカブラを美味しく食べられる料理として、ドイツ当局などが炊き出しで多用したのが理由であった。
  また一部の地域では馴染みの薄い炊いた米を食べ易くする目的からこの牛乳シチューを炊いた米の上からかけて提供され、ゲシュモールテライスとして根付くこととなった。
  これは後にライスシチュー、シチューライスとして日本に逆輸入されるに至っている。

16: 名無しさん :2021/01/17(日) 17:30:10 HOST:FL1-133-203-9-209.myg.mesh.ad.jp
  • 芋煮(独:Imoni)
  第一次世界大戦後のドイツに流入し、特にルール地方を中心に土着した鍋料理。
  日本における芋煮とほぼ同一のもの。イモニ。
  ただし材料は現地で手に入りやすいジャガイモであり、サトイモを主に用いる日本とは異なる。
  流入した理由に諸説はあるが、『駅前の母子』(※3)写真が日本の新聞に掲載されたことで大きな反響を呼んで以降、日本からドイツに渡る人道支援物資の量が一気に増大していく中で援独青年協力隊という奉仕活動に身を投じ、渡航した日本人の一部が現地でどう使っていいか分からずに余り気味であった味噌や醤油などの調味料(※4)を炊き出しに利用し始めたという説が最も信憑性が高いとされる。

  当初は見た目が独特(特に味噌を使ったもの)であったことから評価は別れていたようであったが、後にフランス及びベルギーに占領下に置かれたルール地方周辺において、占領軍の命令に従わない労働者の大量追放が行われた際、居合わせた日本人たちが
  炊き出しとして提供していた芋煮はその見た目故にフランスやベルギーによる嫌がらせや食料徴発を免れ、無事に追放労働者たちへと提供された貴重な料理となった。
  そして実際に口にした労働者を中心に肯定的評価が高まるに至り、ルール地方を中心に土着したとされる。
  なお当時、炊き出しをする人間の出身地によって味噌や醤油など異なる味で提供されており、土着の過程でドイツ人の間でも味噌派、醤油派が細分化。現在でも時折、論争の元になるとされる。


※1:ドイツへの支援物資に対して横槍を入れることが多く、当初は関係者を辟易とさせた。
    なお後のルール占領により、この時から溜まり続けていた辟易の感情が大爆発したと言われている。

※2:後に一定のサツマイモの粉を添加したものは製パンから日数が経過しても食味の低下が抑えられると判明し、この欠点は大きく改善された。

※3:現地に赴いた記者がベルリンのアンハルト駅(当時)付近で撮影した写真。
    食糧難で痩せ細った母親と乳児の写真は掲載されるや否や凄まじい反響を呼び、日本人たちの間で政府に対する私費や物納による対独人道支援物資の提供が増加した。
    特に乳児の姿が衝撃的だったのか、当時販売が開始されたばかりの粉ミルクの物納が多かったとされる。

※4:『駅前の母子』写真によって物納が増えたことで政府の関係部署もパンク気味であり、現地の事情に合わない食材や調味料もとりあえず送られてしまう事例が多かった。
    食材は過半がどうにか消費されたものの、使い方自体が不明の調味料は余り易かったとされる。

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最終更新:2021年01月19日 20:02