935: ひゅうが :2021/01/16(土) 22:01:20 HOST:p279123-ipngn200204kouchi.kochi.ocn.ne.jp
ブルーリボン賞というものをご存知だろうか
大西洋航路において最速の客船に与えられる称号で、その名前は初期にそれを所持する船のマストのトップから青いリボンをたなびかせる権利を与えられたことに由来する
それを持つ客船があるということは、つまりは最高の造船技術を有するということになる
ゆえに、1833年以降産業革命と蒸気動力の実用化を挟んで欧米列強は「より大きくより速い」客船の建造競争を続けていたのだった
ここに西暦1910年、新たな勢力が登場する
極東の新興列強日本帝国である
彼らは、後世から見ればまるでこの後の歴史がわかっているかのような勢いで国家経済の重点を造船(と養蚕などの新産業)に集中する傾斜生産方式を採用
「日本の未来は海上にあり」というドイツ皇帝が激怒しそうな標語を広報してまで造船産業に注力し、そしてその賭けに全力を投入していた
となれば、このブルーリボン賞に参戦するのも当然――だったはずだがいかんせん時期が悪かった
当時はベル・エポック真っただ中
日本ごときではフランスはおろかイタリアやデンマーク船に挑戦することすらおこがましいほどの技術的格差が存在していたのである
そこで日本人は矛先を変えることにした
彼らは英国ロイズ保険協会と協議のうえで「太平洋航路における最速の客船」を表彰する「サファイアリボン賞」を制定したのである
横浜からの太平洋航路の振興を目的として名誉を与えるという名目で制定されたこの賞は、のちの海事史に思わぬ影響をもたらすことになるのである
新しもの好きだった大正天皇が手ずから親授することが決まってしまったのがその理由だった
まずサファイアリボン賞を受賞したのは、グレートノーザン鉄道系のグレートノーザン汽船会社が有する「ミネソタ」(2万トン)であった。
当時1万トン級の船舶多数を就役させていた
アメリカ側は、小型船舶が主体の日系汽船会社から客を奪おうと攻勢をかけており、実際に経由地ハワイで客を多数奪うといったことも横行していたのだった
そこで浅野財閥系の東洋汽船が満を持して投入した国産客船が「天洋丸」(1万2000トン)型であった
国産客船としてはじめて搭載するタービンをパーソンス社から輸入し、しかし建造はすべて国内で行われたこの天洋丸型は、発注が日露戦争真っただ中に行われている
総帥たる浅野総一郎は、建造担当の三菱から大馬鹿呼ばわりされたものの、これをやり通したのだった
そして1911年、特別改装を施された3番船「春洋丸」は1年ぶりにサファイアリボン賞を奪還。
日本人すべての喝采を浴びた。
この頃には「大正2年度造船基本計画大綱」が御前会議で承認されていたことから政府もこれを大いに称賛することになる
もっとも、これに米国も黙っているはずがない
グレートノーザン汽船会社はすぐさま新型船「ヤポニア」(2万5000トン)を投入。
1914年、サファイアリボン賞を奪還したのである
今度は日本郵船および、日本海軍がこれに対抗する
当時の「指導」の名目で行われていた各社の技術の底上げや国軍をも投入したドック群大拡張の中にあってそれは自然な行為であった
2万5000トン級貨客船「富山丸」(通称T型)はパーソンス式蒸気タービンを搭載しつつ最大速力18ノットをもって太平洋を横断
サファイアリボン賞をわずか1年で奪還することになる
936: ひゅうが :2021/01/16(土) 22:01:59 HOST:p279123-ipngn200204kouchi.kochi.ocn.ne.jp
これを受けたグレートノーザン汽船だったが、採算性を理由に太平洋航路から撤退してしまう
かわって主役となったのが、ユナイテッド・メイル社(パシフィック・メイル社から改組)であった
半官半民という合衆国にしては珍しい形式の彼らは、大西洋航路から強大な客船を引き抜き太平洋航路に据えることでこのころから爆発的増大を開始した日本商船隊に対抗する意思を鮮明にしたのである
彼らの投入した貨客船こそが「ユナイテッドステイツ」。かつて大西洋航路ではハンブルグ・アメリカ・ラインの「ドイッチェラント」と呼ばれていたブルーリボン賞客船であった
米国の第1次大戦参戦に伴って接収されていた彼女は、あわれにも改名の憂き目にあい太平洋航路に投入され、サファイアリボン賞をも手中におさめたのである
実に大人げないやり方であるがNo.1にこだわる米国らしいともいえよう
対する日本側は、今度も東洋汽船が対抗の意志を表明した
1920年、「浅間丸」型2万8000トン級貨客船を就役させ、横浜・シアトル航路に投入したのである
今度は国産化されたパーソンス式蒸気タービンおよび加熱器を搭載した彼女は、最大速力実に25ノット
浮かぶ宮殿と称されたが、惜しむらくは1925年、アリューシャン列島はるか沖の北太平洋航路においてカナダ船籍貨客船「パシフィック・ドリーム」と濃霧の中で衝突
幸いにも死傷者はいなかったものの船体に大穴をあけて廃船になるという結末を迎えてしまった
(なおこれを契機に、電波を使用した衝突防止装置の開発が一気に進むことになる)
1925年、米国ダニーライン社が就役させた「タコマ」型2万9000トン級貨客船がサファイアリボン賞を奪取
日本側はさらに高出力の機関を開発し、1927年、日本郵船の「竹芝丸」型(3万トン)でこれに対抗した。
もはや意地と意地のぶつかり合いであった
しかしこのやりとりにもある日終わりが訪れる
1929年、世界恐慌がその理由だった
開発発展を続ける中央共同連合との航路は、米国政府が意地で続けている便を除いてはほぼ日本商船隊の手中に落ちたのである
1933年、日本郵船が建造した「氷川丸」型貨客船(4万1000トン)が、いわゆる「戦前」におけるひとつの絶頂に至ったのはこの頃であった
船としての大きさは、もうひとつのサファイアリボン賞たる「アラビアンナイト賞」に代表される中東油田地帯との間で運行される巨大タンカー群にすでに抜かれており、機関自体の出力も、この「氷川丸」以降はそれほど特筆すべきものではなくなっていた
だが、海軍当局と海運会社が力を合わせて開発していた缶およびタービンはこの時点で20万馬力に達する大出力を実現。
遠く大西洋で建造を開始された客船「クイーン・メリー」をこの時点で上回るだけの技術的な高みに達していたのであった
そして海軍当局もほくそ笑んでいた
彼らの手には、八八艦隊の戦艦群という改良すべき軍艦が多数存在していたからである――
937: ひゅうが :2021/01/16(土) 22:03:12 HOST:p279123-ipngn200204kouchi.kochi.ocn.ne.jp
【あとがき】――というわけで急遽でっち上げてみました。
やっぱ戦前の客船は美しいなぁ…でももっとデカいの見たいなぁ…
ということでこんな仕様になっております
最終更新:2021年01月19日 20:38